豊臣秀吉による九州征伐は、天正14年(1586年)7月から天正15年(1587年)5月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日に豊臣賜姓)による島津家及び同家に与した九州諸将との戦いの総称です。
九州地方統一寸前まで勢力を強めていた島津家に押されて滅亡寸前の危機に瀕していた大友家が豊臣秀吉に助けを求めたことが開戦のきっかけとなりました。
当初は島津家優位だった九州戦線でしたが、豊臣方の大軍が上陸したことで戦局が一変し、最終的には島津家の降伏で戦いが終わっています。
島津家の野望が潰えた戦いである一方、豊臣政権としては西国の統一を果たし、その後の関東・東北征伐に繋がる大事な戦いとなりたした。
【目次(タップ可)】
九州征伐の端緒
島津家による三州統一
(1)島津家による薩摩国統一(1570年)
島津家は、弘治3年(1557年)に蒲生家を下し、また永禄12年(1569年)に相良家及び菱刈家を駆逐し、さらに元亀元年(1570年)に東郷家及び入来院家を降伏させることで薩摩国統一を果たします。
なお、薩摩統一戦の最中であった永禄9年(1566年)に、島津義久が島津家第16代当主となっています。
(2)島津家による大隅国統一(1573年)
また、島津家は、元亀3年(1572年)5月、薩摩国統一以前から真幸院の帰属を巡って対立していた日向国の伊東義祐と戦ってこれを打ち破ります(木崎原の戦い)。
この戦いで伊東家の行動を抑制した島津家は、天正元年(1573年)に禰寝家を、翌天正2年(1574年)に肝付家及び伊地知家を帰順させることで大隅国統一も達成します。
(3)島津家が日向国獲得(1577年)
さらに、島津家は、木崎原の戦いの戦いに敗れて大きく力を落とした伊東家を攻略するため、天正4年(1576年)8月、高原城に攻め込みます。
そして、島津家の侵攻に耐えられなくなった伊東方の支城主は次々と離反し、天正5年(1577年)に伊東義祐・祐兵親子が豊後国の大友宗麟を頼って亡命したため、島津家が日向国を獲得します。
この結果、島津家による三州(薩摩・大隅・日向)統一が達成されました。
九州三氏鼎立時代

この頃の九州では、鎌倉時代からの名門である大友家が引き続き北東部を治めており、また国衆から成り上がった龍造寺家が北西部を支配していたため、ここに南部で勢力を高めていった島津家が加わって三大勢力となって覇権争いが激化していました(三氏鼎立時代)。
九州三氏鼎立時代の崩壊
(1)大友家の没落
そんな中で、天正6年(1578年)10月に島津家に追われた伊東義祐が、大友宗麟の下に亡命した上で旧領回復を依頼したことから、島津領侵攻の大義名分を得た大友宗麟が、大軍を率いて日向国への侵攻を開始します。
日向国に入った大友軍は、大軍で島津方が占拠していた高城を包囲します。
もっとも、大友軍は、同年11月、島津軍の釣り野伏せに引っ掛かって高城川原で総崩れとなり、多くの将兵を失う大敗を喫しました(耳川の戦い)。
この敗戦により、大友家中では統制が崩れ、大きく力を落としていきます。
この大友家の衰退に乗じた龍造寺隆信が、肥前国を平定した後で大友領へ侵攻して筑前国・筑後国・肥後国・豊前国にまで侵食していったため、九州は島津・龍造寺のニ強時代に入っていきました(龍造寺隆信は「五洲二島の太守」と呼ばれるほどに勢力を拡大します。)。
(2)龍造寺家の没落
順調に勢力を拡大させていた龍造寺隆信でしたが、筑後国柳川において蒲池鎮蓮や、筑後衆の最有力者となっていた田尻鑑種などの離反が続き、筑後国・肥後国に混乱が生じます。
この混乱を好機と見た島津家は、天正9年(1581年)に軍を北上させて肥後国に進出し、龍造寺家に下っていた島原半島の有馬晴信や肥前国彼杵郡の大村純忠などの大名・国衆に調略を仕掛けます。
そして、島津家の誘いに乗った有馬晴信が反乱を起こしたため、これを放置しておけない龍造寺隆信は、天正12年(1584年)正月、神代貴茂を深江城に入れるなどして有馬晴信攻撃の姿勢を見せたため、有馬晴信が、島津家に援軍を要請します。

その結果、天正12年(1584年)3月24日現在の長崎県島原市付近で龍造寺軍対島津・有馬連合軍との戦いが起こったのですが、湿地帯内の隘路に引き込まれた総大将・龍造寺隆信が討死するという龍造寺軍の大敗で戦いが終わります(沖田畷の戦い)。
この龍造寺隆信の討死により龍造寺家が衰退し、九州において島津家に単独で対抗できる大名がいなくなり、島津一強の状態となりました。
島津家による九州平定総決算
九州で敵なし状態となった島津家は、九州統一の総決算として、大友家討伐を決断します。
そこで、島津家当主である島津義久が、天正13年(1585年)2月、備後国鞆(鞆幕府)に滞在していた室町幕府第15代将軍足利義昭から帰洛時の援助を条件として、九州太守を任され、大友家攻めの正当性を獲得します。
これにより、大友家攻撃の名目を得た島津家は、九州統一の総決算として、大友領であった豊前国・豊後国・筑前国への侵攻を開始します。
劣勢に陥った大友宗麟の一手
これに対する大友家は、単独で島津家の侵攻を跳ね返す力がなかっただけでなく、背後にも長年対立していた毛利家があったため戦力集中すらできず、絶体絶命の危機に瀕します。
困った大友宗麟は、このとき中央で天下統一事業を進めていた羽柴秀吉に対し、臣従を条件として島津家との戦いの援助を申し出ることとしました。
九州停戦令(1585年10月)
大友宗麟から援助を頼まれた羽柴秀吉は、まず天正13年(1585年)7月に関白に任官した後、同年10月2日に、朝廷権威を以て島津家や大友家をはじめとする九州の諸大名に停戦命令を発しました(九州停戦令)。
島津家に押されて劣勢に陥っていた大友家は、すぐさまこれを受け入れたのですが、戦いを優位に進めていた島津家側では、一旦停戦命令を受け入れると豊臣方に回答したものの、その後もその諾否について家中で激しい議論となります。
豊臣・島津の交渉決裂
そして、天正14年(1586年)1月、島津義久が、源頼朝以来の名門である島津家が豊臣秀吉のような「成り上がり者」を関白として礼遇できないとする旨を表明します。
同年3月、豊臣秀吉が、島津家の使者である鎌田政近に対して、占領地の過半を大友家に返還する国分案を提示したのですが、既に九州の大部分を手中に収めた島津家側がそのような内容を呑めるはずがありませんでした。
そこで、島津方は、一旦は停戦命令に従って停戦を守ろうとしたが、大友家が攻撃してきたことから防戦をするとの弁明の下で大友家攻撃を再開します。
島津方の停戦命令違反によってメンツを潰された豊臣秀吉は怒り、島津家攻めを行うことを決めました。なお、一旦は豊臣秀吉による停戦命令を受諾しながら後にこれを破棄した島津家に対する非難から、豊臣秀吉による島津家攻めは、九州征伐と呼ばれるようになりました。
九州征伐準備(1586年4月)
島津家討伐を決断した豊臣秀吉は、その先遣隊となる中国・四国大名に対し、まずは西海道に向かう道路の修造・城郭補強・赤間関の兵糧蔵建造を命じます。なお、大友宗麟は、天正14年(1586年)4月5日に大坂城を訪れて豊臣秀吉をたずね、島津家の脅威除去に尽力してくれることに謝意を述べています。
また、毛利家に対し、豊臣方に下った豊前国・肥前国の大名からの人質預かりをするよう命じています(天正14年4月10日付毛利輝元宛覚書)。
前哨戦となる筑前方面の戦い
豊臣秀吉が九州攻撃の準備を始めたことを知った島津義久は、豊臣軍到着前の九州統一を急ぐ必要に迫られて急ぎ軍を編成し、筑前侵攻を開始することとします。
島津義久は、天正14年(1586年) 6月18日、自ら軍を率いて出陣し、同年7月2日の肥後国八代を経て、同年7月6日に筑後国高良山(福岡県久留米市)に布陣します。
(1)勝尾城の戦い
その後、島津軍は、筑紫広門が守る肥前国勝尾城(現在の佐賀県鳥栖市河内町)への攻撃を開始し、その支城群を次々と開城させていきます。
そして、肥前国鷹取城(現在の鳥栖市山浦町中原)攻略戦で筑紫広門を討ち取り、天正14年(1586年)7月10日には勝尾城を攻略しました。
これに対し、豊臣秀吉は、大友宗麟と毛利輝元とに対し、九州国分令の執行を命令し、黒田官兵衛・宮城堅甫・安国寺恵瓊らにその検使を任じた上で、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・仙石秀久・長宗我部元親らに九州渡海を命じます。
(2)岩屋城の戦い
他方、勝尾城を落とした島津軍は、天正14年(1586年)7月12日、本陣を筑前天拝山(現在の福岡県筑紫野市)に移し、高橋紹運が守る筑前国岩屋城(現在の福岡県太宰府市太宰府)、その長男の立花宗茂が守る立花山城(現在の福岡県糟屋郡新宮町立花)、その次男の高橋統増(後の立花直次)が守る宝満山城(現在の太宰府市北谷)を次の目標に定めます。
そして、島津軍は、同年7月13日、3万人を超える大軍で岩屋城に攻め込んだのですが、僅か700人で城に籠る高橋紹運の抵抗によって大苦戦します。
最終的には、同年7月27日に岩屋城は陥落させることに成功はしたものの、島津方では、攻将の上井覚兼が負傷し、数千名もの死者を出す大損害を被りました(岩屋城の戦い)。
(3)立花山城の戦い
岩屋城を陥落させた島津軍は、攻城兵を宝満山城に向かわせ、天正14年(1586年)8月6日、高橋統増が守る宝満山城も陥落させます。
その後、島津軍は、さらに立花宗茂が守る立花山城に押し寄せたのですが、援軍となる豊臣方の毛利隊が向かっている(同年8月16日出陣)と聞いた立花宗茂らは島津方の降伏勧告を逆手に取るなど外交も駆使しながら頑強に抵抗します(立花山城の戦い)。
中国方面からの上陸軍の戦い
立花山城攻略断念
毛利軍を主力とする豊臣方の中国地方大名の軍が、天正14年(1586年)8月24日、長門国赤間関(現在の山口県下関市)に入り、九州への渡海準備を始めます。
島津方としては、立花山城を囲みつつ毛利軍に応戦することなどできようはずがありませんので、立花山城の包囲を解いて撤退を始めます。
島津軍の後退
毛利軍先遣第である三浦元忠率いる3000人が、天正14年(1586年)8月26日、島津方の高橋元種が入っていた豊前国小倉城(北九州市小倉北区)の攻略を目指し進軍を始めます。
この三浦元忠隊は高橋元種隊の伏兵に手こずって門司城に引き返すこととなったのですが、毛利軍の進軍と島津軍撤退の動きに合わせて立花宗茂が反撃に出て立花山城から打って出て島津方を蹴散らし、その後も毛利軍と連携するなどして同月末までに奪われていた高鳥居城・宝満山城・岩屋城を次々と奪還していきました。
毛利本軍始動
天正14年(1586年)10月、毛利家当主である毛利輝元が、軍監黒田官兵衛・吉川元春・小早川隆景らと共に九州に上陸します。
その後、毛利主力軍が、毛利方となっていた小倉城や宇留津城への本格的な攻撃を開始します。
そして、同年10月4日に小倉城が陥落し、その後、島津方の豊前国馬ヶ岳城・筑前国浅川城・剣ヶ岳城が次々と陥落していきました。
毛利軍の九州上陸により北九州方面の不利を悟った島津義久は、北九州の早期攻略を諦め、まずは大友家の攻略に注力することとし、北九州に展開させていた兵を豊後国に割り振ることとしました。
豊臣方の動き
撤兵により北九州への島津軍の影響力が減退したことから、北九州に入っていた黒田官兵衛は、北九州諸将への調略を進めます。
これは、翌年に予定されていた豊臣秀吉本隊の九州入りの準備でもありました(豊臣秀吉の九州入りに際して、その威光を畏れて諸将が次々と下ってきたと謳うための演出)。
四国方面からの上陸軍の戦い
四国軍九州上陸(1586年9月)
北九州に上陸した毛利軍(豊臣方中国大名軍)に1月遅れた天正14年(1586年)9月、豊臣方四国大名軍が海路で豊後国に上陸し、同地を治める大友家に合流します。
このタイミングは、同年9月9日に、豊臣秀吉が朝廷より豊臣姓を賜った時期であったため、豊臣方では圧倒的な軍事力に加えて朝廷の権威を振りかざして、豊前国広津城・時枝城・宇佐城、筑前国花尾城・龍ヶ岳城(福岡県宮若市)などを次々と調略していきました。
島津方の攻撃対象変更
他方、北九州から撤退した島津方は、天正14年(1586年)10月22日、島津義弘を総大将とする3万人で肥後国から九州山地を越え、豊後国に進軍していきます。
豊後国に入った島津軍は、同年10月24日、賀牟礼城(現在の大分県竹田市入田)を攻略し、同城城主であった入田宗和を案内人として岡城(現在の大分県竹田市竹田)に向かいました。
その後、島津方は、小松尾城や一万田城を調略していったのですが、岡城では城主・志賀親次の激しい抵抗に苦戦します。
そこで、島津方では、さらに島津家久率いる1万人の兵が動員され、日向表から北上して豊後国に向かわせることとなりました。
島津家久軍は、天正14年(1586年)10月に、豊後松尾城・豊後小牧城を続けて陥落した後、栂牟礼城の攻略を目指しています。
毛利軍による豊前国平定
なお、この頃の北九州方面の豊臣軍(毛利軍)は、戦局を優位に進めており、天正14年(1586年)12月上旬までに豊前国全域を平定することに成功しています。
この結果、戦線が豊後国に集約されることとなりました。
戸次川の戦い(1586年12月12日)
ここで話を島津方に戻します。
天正14年(1586年)12月6日、日向表から北上する島津家久軍は、豊後国鶴賀城(現在の大分市上戸次)に取り付き、同城への攻撃を開始します。
同城は、大友宗麟の2つの居城である府内上原館と臼杵城(丹生島城)とを繋ぐ要衝であり、島津軍の府内攻撃の拠点となりうることから、大友方としては絶対に失うことができない重要拠点でした。
ところが、同日のうちに鶴賀城の三の曲輪及び二の曲輪が陥落して残すところ本曲輪のみとなったところで、鶴賀城から府内城の大友義統に対して援軍要請が届けられます。
このときの府内城には、土佐から出陣してきていた豊臣方四国大名軍(軍監の仙石秀久、長宗我部元親・信親父子、十河存保ら)6000人が入っていました。
この豊臣方四国大名軍は、豊臣秀吉の九州入りまで待機するよう命じられていたのですが、鶴賀城からの援軍要請を受けて、同年12月11日、急遽、後詰として鶴賀城に向かうこととなりました。
そして、豊臣方四国大名軍6000人が鶴賀城に迫ったところで、同城を囲んでいた島津家久軍1万8000人が城の囲みを解いて撤退を開始します。
戦力差からすると怪しい動きであったため、豊臣方の長宗我部元親は島津軍を捨て置くように進言したのですが、軍監・仙石秀久と十河存保がこれを追撃するよう主張したため、豊臣軍は戸次川を渡って島津軍を後ろから攻撃することに決まります。
その結果、豊臣軍は次々と戸次川を渡河していったのですが、島津軍が対岸で埋伏し、渡河し終えた豊臣軍を奇襲したことから豊臣軍は大混乱に陥ります。
最終的には、豊臣軍は、2000人もの兵を失うと共に長宗我部信親・十河存保などが討死し、軍監・仙石秀久が九州から逃亡してしまうという大敗北を喫しました。
島津軍による豊後国平定戦
戸次川で豊臣軍を打ち負かして勢いづいた島津軍は、天正14年(1586年) 12月13日、大友家の本拠地である府内に迫ります。
この後、大友家当主であった大友義統が、迫り来る島津軍を見て府内城を放棄したため、島津軍は難なく大友家本拠地を接収します。
府内城を確保した島津軍は、続けて前当主・大友宗麟が守る丹生島城(臼杵城)に向かい、これを包囲します。
ところが、丹生島城は、大友宗麟がポルトガルより輸入し仏郎機砲(石火矢・いわゆる「国崩し」)が備えられており、これによる反撃射撃を受けた島津軍は同城を攻略できませんでした。
また、北上した島津軍は杵築城を攻めたのですが、城将・木付鎮直による激しい抵抗を受けて敗北します。
さらに、豊後国南部では大友方の佐伯惟定が島津方に奪われた諸城を奪回したり、志賀親次が島津義弘軍を打ち負かしたりしたため、島津軍は大苦戦を強いられるようになりました。
そして、豊臣秀吉の出陣準備が進められていたこともあって九州全域で肥前の龍造寺政家・平戸の松浦鎮信などをはじめとする大名・国衆の離反が相次いだため、豊臣本軍到着前に決戦で大友軍・毛利軍を破って九州を統一するという島津家の戦略が失敗に終わってしまいました。
豊臣軍主力出陣
豊臣本軍出陣
他方、豊臣方では、天正15年(1587年)元旦の年賀祝儀の席上で、豊臣秀吉が、石田三成・大谷吉継・長束正家・小西隆佐らに兵25万人・兵糧30万人分・馬飼料2万頭分の準備を命令する旨の軍令を下した後、九州侵攻の部署を諸大名に伝えた上、同年1月25日、先陣として宇喜多秀家が九州に向かって出陣したのを始めとして、その他の諸将もこれに続いて出陣していきました。
そして、同年2月10日に副将を務める豊臣秀長が出陣し、同年3月1日には豊臣秀吉が大将として2万5000人の兵を率いて大坂城から出陣し、豊臣本軍が九州に向かって進軍していくこととなりました。
島津家に対する講和勧告
天正15年(1587年)3月上旬、豊臣秀長軍が小倉に達したところで、豊臣方から島津家(府内城に入っていた島津義弘)に対し、高野山の僧木食応其を使者として講和勧告がなされます。
もっとも、島津義弘は、これを拒否し、地の利を生かした場所で迫り来る豊臣軍と対峙するため、島津家久を連れて一旦豊後国から撤退する決断を下します。
なお、天正15年(1587年)3月18日、豊後国を離れる島津軍を大友家臣・佐伯惟定が追撃して戦いに発展しています(梓越の戦い)。
島津義弘と島津家久は、同年3月19日に高城(現在の宮崎県児湯郡木城町高城)を経て、同年3月20日に都於郡城(現在の宮崎県西都市都於郡)に入り、島津義久と合流して兄弟3人で軍議を行いました。
豊臣軍陣立(1587年3月25日)
他方、大坂城を進発した後悠々と山陽道を悠然と下っていた豊臣秀吉は、同年3月25日に赤間関に到着し、同日、同地で九州攻めに関する協議を行います。
ここで、肥後方面を大将・豊臣秀吉が、日向方面を副将・豊臣秀長が指揮することとされ、以下の陣立に決まりました。
(1)肥後方面軍→ 総大将・豊臣秀吉
一番隊:毛利吉成・高橋元種・城井朝房
二番隊:前野長康・赤松広英・明石則実・別所重宗
三番隊:中川秀政・福島正則・高山長房
四番隊:細川忠興・岡本良勝
五番隊:丹羽長重・生駒親正
六番隊:池田輝政・林為忠・稲葉貞通
七番隊:長谷川秀一・青山忠元・木村重茲・太田一吉
八番隊:堀秀政・村上義明
九番隊:蒲生氏郷
十番隊:前田利家
十一番隊:豊臣秀勝
(2)日向方面軍→ 総大将・豊臣秀長
一番隊:黒田官兵衛・蜂須賀家政
二番隊:小早川隆景・吉川元長
三番隊:毛利輝元
四番隊:宇喜多秀家・宮部継潤ら因幡衆(亀井茲矩・木下重堅・垣屋光成・南条元続)
五番隊:小早川秀秋
(番外:筒井定次・溝口秀勝・森忠政・大友義統・脇坂安治・加藤嘉明・九鬼嘉隆・長宗我部元親)
豊臣秀吉九州入り(1587年3月28日)
そして、天正15年(1587年)3月28日、豊臣秀吉が九州に上陸し、小倉城に入り、取り決めどおり、豊臣秀長が日向方面へ、豊臣秀吉軍が肥後方面への進軍を開始しました。
このとき、豊臣秀長軍及び豊臣秀吉軍は、島津軍が事実上放棄していた九州北部の諸城を次々と接収していくことから始めました。
豊前方面の戦い
豊前方面を担当する豊臣秀吉軍は、天正15年(1587年)3月29日、筑前国古処山城(現在の福岡県朝倉市秋月)・豊前国岩石城(現在の福岡県田川郡添田町枡田)に取りつきます。
そして、同年4月1日、蒲生氏郷・前田利長連合軍による岩石城攻めが始まり、同城は1日で陥落します。
また、古処山城を守っていた秋月種実は、周囲の支城を次々と攻略された上に大軍に包囲されたことにより戦意を喪失し、同年4月3日、茶器「楢柴肩衝」・「国俊の刀」・娘である竜子(後の城井朝房正室)を差し出して豊臣方に降伏します。
大勢力であった秋月種実が豊臣軍による攻撃開始後わずか3日で降伏した事実は島津方に与した九州諸勢力に衝撃を与え、秋月家より小さな勢力は豊臣軍を相手にすることができないと判断します。
その結果、それまで豊臣方に敵対する意向を示していた島津方諸勢力が次々と豊臣家に下っていきました。
九州諸勢力を次々と従えていくこととなった豊臣秀吉は、同年4月10日に筑後国高良山、同年4月16日に肥後国隈本を経て、同年4月19日に肥後国八代に到着します。
このタイミングで、既に豊臣方に内通していた鍋島直茂の尽力により肥前国の龍造寺家が豊臣軍に帰参し、さらに島原の有馬晴信までもが島津方から離反して豊臣秀吉に下りました。
この状況を見た、島津忠辰が、そのとき陣を敷いていた肥後国高田(現在の熊本県八代市高田)を引き払い、薩摩国出水(現在の鹿児島県出水市)に撤退します。
日向方面の戦い
他方、日向方面司令官の豊臣秀長軍は、先行していた中国大名軍(毛利輝元・宇喜多秀家・宮部継潤など)と合流し、豊後より日向へ入った後、縣(宮崎県延岡市)を経て南進していきました。
豊臣秀長軍は、天正15年(1587年)3月29日に日向松尾城(現在の延岡市松山)を攻略し、続けて同年4月6日に耳川を渡って山田有信の守る高城(現在の木城町)を包囲します。
高城を攻める豊臣秀長軍は、根白坂を本陣として後詰として来るであろう島津軍に備えます。
一方、島津方では、高城を解放するために2万人の兵を動員し、同年4月17日、島津義久・義弘・家久らがこれを率いて高城に向かって進軍していきました。
そして、島津軍は、高城を解放するため、豊臣方の高城攻めの本拠となっていた根白坂を包囲して総攻撃を加えます。
このとき、根白坂砦には、宮部継潤ら1万人が入っており、これに豊臣方後詰として藤堂高虎・黒田孝高・小早川隆景らが加わったことから、大軍同士の大きな戦いに発展します(根白坂の戦い)。
この戦いは、最終的には根白坂を突破できなかった島津軍の敗北に終わり、島津方では島津忠隣が戦死するなどの大損害を被り、島津義久及び義弘は都於郡城に、島津家久は佐土原城にまでの撤退を余儀なくされました。
豊臣軍は、撤退する島津軍を追って岩牟礼城まで進軍していったため、島津義弘は飯野城(宮崎県えびの市飯野)にまで後退して同城に籠ることとなりました。
なお、同年4月21日、根白坂の戦いに敗れた島津義久が、伊集院忠棟・平田増宗を人質する案を示して豊臣秀長に和睦を申し入れています。
豊臣本軍による島津領侵攻
豊臣秀吉の薩摩入り(1587年4月25日)
以上の結果、島津軍は、豊前方面から進軍して来る豊臣秀吉軍と、日向方面から進軍して来る豊臣秀長軍のいずれにも対応しきれず後手に回っていきます。
そんな中で、豊臣秀吉は、天正15年(1587年)4月24日に先鋒の小西行長・脇坂安治・九鬼嘉隆・加藤嘉明らの水軍が海路で出水、同年4月25日に川内(現在の鹿児島県薩摩川内市)に入らせた上で、自らは大軍を率いて同年4月25日に肥後国佐敷(現在の熊本県葦北郡芦北町)、同年4月26日に肥後国水俣(現在の熊本県水俣市)を経て、同年4月27日についに島津家の本拠である薩摩国に達します。
島津方総崩れ
この豊臣秀吉率いる大軍の襲来に、出水城城主である島津忠辰や宮之城(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町)城主である島津忠長らが次々と豊臣秀吉に降伏していきます。
その後、豊臣方の同年4月28日、小西行長・脇坂安治・九鬼嘉隆らが平佐城(現在の鹿児島県薩摩川内市平佐町)を攻撃し、同城主であった桂忠詮らがこれに抗戦したのですが(平佐城の戦い)、これが島津方の最期の抵抗となりました。
降伏を決断
豊臣方の大軍が本拠地に攻め寄せてきたことにより敗北を悟った島津家では、豊臣秀吉に降伏する旨の最終決定が行われ、その旨が豊臣秀吉の下に届けられます。
また、同様の通知が各地で戦っていた島津方の諸将にも届けられました。
その結果、天正15年(1587年)4月29日に山田有信が高城開城、桂忠詮が平佐城開城するなどして主要な戦いが終結します。
その後、豊臣秀吉は、同年5月1日、阿久根(現在ほ鹿児島県阿久根市)に移り、さらに同年5月3日には平佐城の川向かいにあたる川内の泰平寺(現在の鹿児島県薩摩川内市大小路町)に入って島津方との講和交渉に臨みます。
九州征伐達成
島津義久剃髪(1587年5月6日)
豊臣秀吉に対して降伏の意を示すため、島津家当主の島津義久は、天正15年(1587年)5月6日、いったん鹿児島に戻り、伊集院(鹿児島県日置市・現在は廃寺)の雪窓院で剃髪・出家して「龍伯」と号します。
島津家降伏(1587年5月8日)
その上で、島津義久は、天正15年(1587年)5月8日、豊臣秀吉がいる泰平寺に赴き、墨染の衣を纏って俗界を離れる姿勢を示すと共に、降伏の意思を表明します。
島津家降伏の旨を予め聞いていた豊臣秀吉は、島津家降伏を受け入れると共に、一命を捨てて走り入ってきたことに免じるとして島津義久を赦免することで和平が成立し、豊臣秀吉による九州征伐が完成しました。
なお、島津家の降伏を受け入れた豊臣秀吉は、その後しばらく泰平寺に滞在し、同年5月18日、同寺を発って筑前に向かっています。
戦後処理
島津領の画定
豊臣秀吉は、天正15年(1587年)5月25日、島津義久に薩摩国を、島津義弘に大隅国を安堵し、島津久保(島津義弘の子)に日向国諸県郡の真幸院を与え、その他を没収します。
なお、その後、島津豊久にも日向国都於郡を安堵しています。
佐々成政に肥後国を与える
その上で、豊臣秀吉は、天正15年(1587年)5月30日、佐々成政に肥後国一国を与え、これに肥後国人衆を従わせることとしました。
九州国分
筑前を経由して大坂に戻ろうとしていた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)6月7日、道中の筑前国筥崎八幡宮(現在の福岡市東区)において、その後の唐入り(明遠征)の準備とするために九州地方の国分を行います。
その主な内容は、大規模な蔵入地(豊臣氏直割領)を設定した上で、主に以下のとおりの配分が行われました。
① 龍造寺政家・大村喜前・松浦鎮信(いずれも肥前国内)、宗義智(対馬国)、大友義統(豊後一国及び豊前国宇佐半郡)、相良頼房(肥後国人吉)の所領をそれぞれ安堵
② 小早川隆景に筑前・筑後・肥前1郡の約37万石
③ 黒田官兵衛に豊前国内6郡の約12万5000石
④ 立花宗茂を大名に取り立てて筑後国柳川(現在の福岡県柳川市)13万2000石
⑤ 毛利勝信に豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)約6万石
⑥ 森吉成に豊前企救郡・田川郡6万石
⑦ 伊東祐兵に日向国臼杵郡・宮崎郡・清武郡・諸県郡、肥後国の八代郡・鷹巣守の内合計2024町
バテレン追放令発布
帰国途中で博多に立ち寄った豊臣秀吉は、その荒廃ぶりを見て復興を進めると共に、同地の直轄化を指示します。
他方、豊臣秀吉は、同地で、肥前国長崎・浦上・茂木がイエズス会に寄進されていたことを知らされ激怒します。
そこで、豊臣秀吉は、天正15年(1587年)6月19日、筥崎でバテレン追放令を出してキリスト教制禁を明言した上、翌同年6月20日にガスパール・コエリョに通知しました。
豊臣政権に下った九州のその後
大幅減封となった島津家では、深刻な財政難が生じ、一連の戦いで死亡した家臣への弔慰金ですら京都商人・過船からの借銀や、蔵入地の入質・売却でなんとか工面する有様となりました。
苦しくなった島津家では、財政難の克服のために検地を行って増税をしたため、その不満により後の梅北一揆へと繋がっていきました。
また、島津家降伏後の九州では、豊臣大名が新たに入封してきたため、豊臣式の新たな秩序化が進められます。
まずは、肥後国に入った佐々成政が、早々により肥後国内で検地を始めたのですが、この性急な改革が国人衆の反発を招いて肥後国人一揆が発生します。
佐々成政は、この失策の責任をより切腹することとなり、また一揆を起こした国人らもほとんどが処刑されることとなりました。
その結果、肥後国では、北半分を加藤清正、人吉を除く南半分を小西行長に与えることとなりました。
なお、同時期に黒田官兵衛が入った豊前国でも豊前国人一揆が起こったのですが、黒田官兵衛が迅速にこれを鎮圧したため、黒田官兵衛は責任を問われませんでした。