河東の乱(かとうのらん)とは、天文6年(1537年)と天文14年(1545年)の2回に亘って起こった今川家と北条家との戦いの総称です。河東一乱とも呼ばれます。
一言でいうと、第一次河東の乱で北条氏綱が今川義元から河東地方を奪い取り、第二次河東の乱で今川義元が北条氏康から奪還した戦いの総称です。
端的に言ってしまうとシンプルすぎる内容ですが、この戦いは、蜜月関係にあった今川家と北条家が手切れとなり、その後憎しみの連鎖から脱却し、再び同盟関係に至るという背景の中で繰り広げられた政治劇の中の紛争であり、マイナーながら関東戦国史を語る上では外せない戦いと言えます。
なお、この戦いの名である「河東」とは,戦国時代に武田家・今川家・北条家の間で便宜上呼称していた富士川以東・黄瀬川以西の地域をいい,公的な名としては「駿東郡と富士郡の一部」というが正しいので,注意が必要です(河東郡というものが存在するわけではありません。)。
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河東の乱に至る経緯
駿河国・今川家の家督争い(1476年)
河東の乱のきっかけは、駿河国今川家当主・今川義忠の死後に発生した今川家の家督争いに始まります。
駿河国を治める今川義忠は、文明8年(1476年)2月6日に遠江国の塩買坂において遠江国守護である斯波義廉の家臣横地氏及び勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にしたため、今川家では次期当主を擁立する必要に迫られます。
このとき、今川義忠には、伊勢宗瑞(伊勢盛時・北条早雲)の姉妹である北川殿との間に龍王丸(後の今川氏親)という嫡男がいたのですが、この龍王丸がいまだ幼少であったため、今川氏家臣の三浦氏・朝比奈氏などが一族の小鹿範満(今川義忠の従兄弟)を擁立する動きを見せ、今川家が家督争いで二分されるという事件が起こります。
この騒動に、扇谷上杉家・上杉政憲と、堀越公方足利政知が小鹿範満側に付いて介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国に派兵します。
堀越公方と扇谷上杉家立場が相手方についたために不利になった龍王丸・北川殿は、京にいる伊勢宗瑞に助けを求めます。
北条早雲の駿河下向
姉妹の要請があっただけでなく、室町幕府からも今川氏のお家騒動を鎮めるようにとの指示を受けた伊勢宗瑞は、駿河国に下向し、和睦に反対する方を攻撃すると欺いて調停を行い、龍王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とすることで今川氏のお家騒動を収めます(太田道灌らにとっても長尾景春の乱への対処のため、帰国を急ぐ必要があったことが調停成立の要因となっています。)。
この結果、今川家の家督を代行した小鹿範満が駿河館に入り、龍王丸と北川殿が小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城(焼津市)に身を寄せることとなりました。
伊勢宗瑞が興国寺城を得る(1487年)
ところが、龍王丸が15歳を過ぎても、小鹿範満は今川家の家督を龍王丸に戻そうとしませんでした。
困った今川氏親と北川殿は、文明19年(1487年)、再び9代将軍足利義尚に助けを求めます。
調停を反故にされてメンツをつぶされた室町幕府は、伊勢宗瑞を再び駿河国に下向させ、事態の鎮静化を命じます。
駿河国に入った伊勢宗瑞は、同年11月に龍王丸を補佐して兵を起こし、小鹿範満を討伐して今川氏親の家督相続を後押し、これにより駿河館に入った龍王丸は、元服して今川氏親と名乗り、正式な今川家当主となります。
そして、今川氏親は、同年、伊勢宗瑞に対し、その功績を評価して富士下方12郷と興国寺城(現在の沼津市)を与えました(今川記・北条記)。
この結果、伊勢宗瑞は、客将として今川氏の家臣に組み込まれることとなります(なお、この通説に対し、史料の確認が取れないとして異論もあり、善得寺城もしくはそのまま石脇城を居城とした説もあります。)。
今川氏親と伊勢宗瑞との蜜月関係
そして、その後、伊勢宗瑞は、今川氏親の協力を得て、独自に伊豆国・相模国を切り取り、形式的には今川氏親の家臣でありながら、実質的には独自の戦国大名としての立場を築いていきます。もっとも、勢力を大きく拡大しつつも当主・伊勢宗瑞自身は今川氏親の家臣としての立場を貫徹していたのですが、この二重構造は、伊勢家中での、伊勢家と今川家とが対等であると立場の者たちとの認識のずれとなり、対立の火種となってくすぶっていきます。
そして、この火種は、今川家のお家騒動の際に関与した甲斐国・武田家との関係を巡って燃え上がります。
第一次河東の乱
今川家のお家騒動(花倉の乱)
伊勢宗瑞死去後に北条姓に改正をした次代当主・北条氏綱の時代においても、なおも今川家と北条家との関係は良好であり、今川家と協力して(駿相同盟)、甲斐国・武田家との争いを繰り返していました。
構造としては、今川・北条vs武田だったのです。
ところが、この構造を一変させる事件が起こります。
天文5年(1536年)に今川氏親が死去して今川家で家督相続を巡る騒動が起こり(花倉の乱)、北条氏綱が支持した栴岳承芳が勝利し、今川義元として家督相続したのですが、このとき甲斐国・武田信虎もまた栴岳承芳(今川義元)を支持していたことから事態が複雑化します。
今川義元としては、自身の家督承継に協力をしてくれた武田信虎を蔑ろにすることなどできようはずがありません。
そこで、今川義元は、甲斐国・武田家が北条家と敵対していることを知りながら、天文6年(1537年)2月、武田信虎の娘・定恵院を正室に迎えることにより、今川・武田同盟(甲駿同盟)を成立させてしまったのです。
この話を聞いた北条氏綱は激怒します。
主家とはいえ、今川家が北条氏綱の断りもなく、北条家の長年の宿敵である武田家と結んだのです。
北条氏綱としては、許せるはずがありません。
第一次河東の乱(1537年)
激怒した北条氏綱は、天文6年(1537年)2月下旬、今川家との主従関係(相駿同盟)を破棄し、駿河国の河東地方である富士郡・駿東郡に侵攻します(第一次河東の乱)。なお、これにより北条家は、完全に今川氏による支配構造から脱却し、以降は、独立の戦国大名として活動していくこととなります。
今川義元は、直ちに迎撃の軍を出しましたが、北条氏綱はそのまま富士川以東の河東地域を占拠します。
河東を占拠した北条氏綱は、今川家の継承権争いで今川義元と反目していた遠江(静岡県西部)の堀越氏(北条氏綱の娘が堀越貞基に嫁いでいました。)、井伊氏、三河戸田氏、奥平氏等と手を結び、今川軍を挟撃したため、この対応に追われた今川義元は、そのまま河東地域を北条氏綱に奪われてしまいます。
第二次河東の乱
北条氏綱死去(1541年7月19日)
今川義元としては、臣下であるはずの北条家により領土を奪われたこととなりますので、飼い犬に手を嚙まれたようなものです。
到底認容できる事項ではなく、北条家への恨みは計り知れないものとなったはずです。
その後は、河東地域の奪還の機会を虎視眈々とうかがうこととなります。
そんな中、天文10年(1541年)7月19日、後北条家2代目当主・北条氏綱が死去し、嫡男である北条氏康が家督を継承します。
家督相続後の北条氏康は、河東における今川氏との対峙と平行して北関東への進出を企図し、利害が一致した武田家との間で、一旦甲相同盟が成立しています。
第二次河東の乱(1545年)
北条家への強い恨みを持ち続けていた今川義元は、北条氏綱が死去したことにより北条家の求心力が低下したと判断し、天文14年(1545年)、北条領を挟撃する作戦を立案して、関東管領・山内上杉家の上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定(朝興の子)等と連携して挙兵します。
そして、今川義元は、北条氏綱に奪われていた河東地域に進軍していき、同年7月下旬には富士川を越えて善得寺に布陣します(第二次河東一乱)。
北条氏康は、今川軍を撃退すべく軍を率いて駿河国・河東地域に急行したのですが、浮き足立つ北条軍は今川軍に押されます。
同年9月初旬、今川軍に武田軍が合流したことにより(これにより、いったん成立した甲相同盟がすぐに破綻します。)、北条軍はさらに不利になり、押された北条軍は同年9月16日、吉原城を放棄し三島に退却します。
そして、これを追撃した今川軍は、そのままの勢いで三島(静岡県三島市)に攻め入り、北条幻庵(または葛山氏元)が守る長久保城を包囲して今井狐橋などで戦闘となります(狐橋の戦い)。
こうなると、北条軍としては今川軍を撃退するどころではありません。
しかも、苦境に立たされた北条氏康に、追い打ちかけるさらに悪いことが起こります。
山内・扇谷の両上杉家に加え、古河公方・足利晴氏までもが加った旧勢力連合軍8万人が、義弟・北条綱成ら3000人が守る北条家の武蔵国の拠点の河越城に向かって進軍してきたとの報が届いたのです。
領国の西側を今川軍に、北側を旧勢力連合軍に挟撃される形となった北条氏康は、絶体絶命の危機に陥ります。
今川・北条の和睦
苦しくなった北条氏康は、まず河東地域の戦いを治めるべく、武田晴信に仲介を斡旋してもらい、今川義元との間で和睦交渉を行います。
この交渉は、当然立場の悪い北条氏康方に不利な内容で進められ、結論的には、第一次河東の乱で北条氏綱が獲得した河東地域を今川義元に返還するとの内容で和睦に至ります。
そして、同年11月初旬、今川家・北条家で誓詞を交し合った後、北条氏康が今川義元に長久保城を明け渡して第二次河東の乱が終結します(高白斎記)。
この和睦により東側の脅威を取り払った北条氏康は、すぐさま陣を引き払い、もう1つの戦場である河越城へ向かい、有名な河越夜戦に勝利してその包囲から解放します。
河東の乱以降の河東地方
甲相駿三国同盟(1552年)
第二次河東の乱が和睦により終結した後も、争乱に発展することはなかったものの、今川家と北条家との間には不信による緊張状態が継続していました。
もっとも、北条家としては毎年のように関東に派兵してくる上杉謙信に対抗するため、今川家としては天文20年(1551年)に織田信秀が死去したこと伴って尾張国に進出するため、武田家としては上杉謙信・村上義清との間での北信濃を巡る攻防戦に専念するためという三者の利害が一致したため、天文21年(1552年)に武田晴信の仲介により甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び攻守同盟としての甲相駿三国同盟が成立します。
これにより、北条家・今川家の関係も改善し、河東地方は今川家の領国として一応の決着がつきます。
駿州錯乱と河東地方
もっとも、この河東地方の平和は、武田信玄(武田晴信)により壊されます。
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれて後、急速に勢力を弱めた今川氏を見限り、武田晴信が、永禄10年(1567年)に駿甲同盟を破棄して今川領に侵攻してきたからです。
この後の話は、本稿の目的とは離れてしまいますので、興味がある方は、別稿:【武田信玄の駿河国侵攻】をご参照下さい。