【二俣城の戦い】武田信玄の奇策・水の手破壊作戦

二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月16日から同年12月19日にかけて行われた武田軍と徳川軍による遠江国北部の二俣城を巡る攻防戦です。

武田信玄の西上作戦の一環として行われ、三方ヶ原の戦いの前哨戦となった合戦ですが、武田信玄のアクロバティックな攻城方法でも有名です。

二俣城の戦いに至る経緯

武田信玄の遠江侵攻(西上作戦)開始

元亀3年(1572年)10月3日、徳川家康が治める遠江国・三河国、さらには織田信長が治める美濃国の攻略のため、武田信玄が西上作戦を開始します。

武田信玄の作戦は、軍を3隊に分けて、伊那盆地から西に向かい東美濃に入るルート(①)、伊那盆地から西に進んだ後に南下して北側から三河国に入るルート(②)、伊那盆地から南下して北側から遠江国に入るルート(③)の3つのルートからの同時侵攻するというものでした。

① 秋山虎繁隊進軍ルート

甲斐国・躑躅ヶ崎館を出陣した武田軍は、途中諏訪郡・上原城を経由した後、信濃国・高遠城を越えたところで、まず秋山虎繁・山県昌景に8000人の兵を預けて南西方向へ向かわせます。

その後、この軍が2手に分かれ、秋山虎繁率いる3000人が織田領となっていた東美濃(東濃)侵攻し、日本三大山城の1つでもあり、女城主・おつやの方(岩村御前で有名な岩村城を包囲し、元亀3年(1572年)11月初旬に攻略します。これが東美濃(東濃)侵攻軍です。なお、秋山虎繁は、岩村城攻略後、織田方の牽制のため同城に留まります。

② 山県昌景隊進軍ルート

次に、秋山虎繁隊を分離した山県昌景は、5000人の兵を率いてそのまま南下して奥三河に侵攻し、徳川氏の支城である武節城を攻略した上で、そのまま奥三河の豪族を取り込みつつ南進を続けます。

そして、その勢いで、東三河の重要支城である長篠城を攻略します。

その後、山県昌景は、遠江国の伊平城も攻略し、二俣城に向かいます。

③ 武田信玄本隊進軍ルート

他方、武田信玄率いる本隊2万2000人は、信濃国・高遠城から、南下して遠江に侵攻します。

武田信玄の本隊の侵攻が始まると、犬居城主・天野景貫が武田信玄に内応して同城を明け渡し、武田侵攻軍の先導役を務めます。

ここで、武田信玄は、遠江国における徳川方の諸城を東西に分断するため、馬場信春に別働隊5000人を預けて只来城を攻撃させ、元亀3年(1572年)10月13日にこれを攻略します。

二俣城包囲

そして、馬場信春隊はそのまま二俣城に取りつき、北側を武田勝頼、南側に索敵も兼ねて回り込んだ馬場信春でこれを包囲します。

他方、これを見届けた武田信玄は、本隊を南東側に回り込ませ、天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城などの支城群をわずか1日で落させ、また同年10月15日には匂坂城を攻略し、遠江国内において浜松城・二俣城と掛川城・高天神城とを分断します。

その上で、武田信玄本隊も二俣城へ向かっていくこととなりました。また、このとき奥三河侵攻軍であった山県昌景隊も二俣城に向かっていました。

二俣城の重要性

二俣城は、徳川家康の居城である浜松城の北側に位置し、また信濃国伊那郡からの出入口にもあたります(そのため、武田軍にとっては兵站基地となります。)。

また、浜松城とそのその支城である掛川城や高天神城にも繋がる交通の要所(扇の要)であり、遠江支配の要の城でもあったため、徳川家康からすると絶対に失うわけにはいかない城でした。

徳川家康は、この重要拠点である二俣城城主として中根正照を入れ、また青木貞治・松平康安らを部将として入城させていたのですが、武田軍が三方から合計2万7000人もの大軍で向かってきていることを聞き、対応に追われます。

もっとも、掛川城・高天神城からの後詰めは届かない状況となっていた上、居城・浜松城はもちろん、残りの支城群の防衛にも兵を割かねばならなかった徳川家康は、二俣城の後詰として大軍を動員できませんでした。

また、頼りにしていた織田信長も信長包囲網に参加している近畿の各勢力との戦いの最中であったために、織田信長から多数の援軍は期待出来ない状況でした。

苦しい状況の徳川家康でしたが、何とか兵をかき集め、元亀3年(1572年)10月14日、徳川家康自身で3000人の軍勢を率いて出陣し、後詰のために二俣城へ向かいます。

一言坂の戦い(1572年10月14日)

前記のとおり二俣城に取り付いた武田軍では南側に馬場信春が展開していたのですが、二俣城の南側を索敵していた馬場信春隊と、浜松城から二俣城に向かう徳川家康軍の先行偵察隊であった内藤信成隊が木原畷付近で遭遇してしまいます。

寡兵であった徳川偵察隊はすぐに退却を試み、それを追った馬場信春隊とが追い付かれた徳川軍との間で一言坂の戦いが始まります。

ここで、本多忠勝と大久保忠佐が徳川本隊と内藤信成を逃すために殿を務め、なんとか徳川家康率いる本隊が天竜川を越えて撤退するための時間を稼ぎ、徳川方の大敗で一言坂の戦いは終了します。

二俣城の戦い

降伏勧告(1572年10月16日)

その後、武田信玄本隊が、元亀3年(1572年)10月15日に匂坂城を攻略して二俣城包囲戦に向かい、同年10月16日に二俣城に到着し包囲軍に加わります。

二俣城に取り付きこれを包囲した武田軍は、二俣城の城将・中根正照と副将・青木貞治に対して降伏を勧告します。

このとき二俣城には僅か1200人しかいなかったのですが、二俣城を預かる中根正照は、城の堅さに任せてこの降伏勧告を拒絶します。

二俣城の構造

二俣城は東の天竜川と西から南に折れ曲がる二俣川(現在の二俣川と流れが違います。)とが合流する地点の丘陵上に築かれた城であったためにこの2つの川が高低差40m程の天然の堀を成しており、攻城方向が大手口のある北東方向からに限定されるという構造でした(篭城する側からすると一方面だけ守れば足ります。)。

しかも、その北東側大手口も急峻な坂道となっており、攻城軍の進行速度は遅くなって二俣城側の主兵の的となるという極めて攻めにくい城でした。

力攻め(1572年10月16日〜)

降伏勧告を拒絶されたため、武田軍は、元亀3年(1572年)10月18日、二俣城への総攻撃(力攻め)を開始します。

ところが、前記のとおり二俣城の守りは堅く、2万2000人を要する武田軍の総攻撃でもなかなかこれを攻略できません。

その後、同年11月に奥三河侵攻を担当していた山県昌景率いる5000人も武田信玄本隊に合流したため、二俣城を包囲する武田軍が2万7000人にまで膨れ上がったのですが、山県昌景隊の合流をもってしても二俣城攻略ははかどらず、進展の見られないまま同年12月に入ります。

水の手を絶つ

1カ月半経過しても城攻めに進展が見られないことから、武田信玄は、力攻めでの二俣城攻略を諦めます。

そして、まさかのアクロバティックな攻城を試みます。

二俣城は、天竜川と二俣川との合流地点に建つ城だったのですが井戸はなく、天竜川沿いの断崖に井楼(井戸櫓)を設けて釣瓶で水を汲み上げて水を確保していました。

この点、天竜川の流れが急であるため、攻城側が船でこの井楼までたどり着いてそこに留まり、これを破壊することはおよそ不可能でしたので、ほぼ完ぺきな構造と考えられていました。

もっとも、武田信玄は、この構造を逆手に取ります。

武田信玄は、天竜川の急な流れを利用し、大量の筏を作って上流から大量に放流し、川の流れの勢いを利用してこの筏を井楼にぶつけてこれを破壊するという作戦を考え出したのです。

驚きの作戦です。

そして、この作戦は見事に成功し、大量の筏が激突したことにより井楼を支える柱が折れて崩れ、二俣城の水の手が立たれます。

こうして二俣城の防衛が破綻します。

水なしに兵が戦えるはずがないからです。

なお、このときに破壊された井楼(井戸櫓・上記写真です)は、二俣城の戦いの後に復元された後、慶長5年(1600年)に二俣城が廃城されるに際して、二俣城下の清瀧寺に移築されたそうです(現在、清瀧寺にある井楼は何度か復元された後に昭和37年に建てられたものです。)。

二俣城落城(1572年12月19日)

ここで、本来であれば浜松城から徳川家康が後詰を出さなければならないのですが、一言坂の戦いで大敗した徳川家康に二俣城を解放するための人的余力はなく、徳川家康は二俣城を見殺しにします。

後詰めの見込みがないと悟った二俣城城将・中根正照は、城兵の助命を条件として武田信玄の降伏勧告に応じて二俣城を開城し、武田軍の勝利で二俣城の戦いが終わります。

二俣城の戦いが戦局に及ぼした影響

二俣城を攻略したことにより、武田信玄は信濃国・下伊那郡から遠江国への橋頭堡を手に入れることとなりました。

さらに、後詰めを出さずに支城を見殺しにしたことにより、三河国・遠江国内での徳川家康の権威が失墜します。

いざというときに守ってくれない主に仕える義理がないからです。

その結果、飯尾氏・神尾氏・奥山氏・天野氏・貫名氏などの有力国衆達が次々と武田方に取り込まれていきました。

こうして、二俣城の戦いは、単に武田軍が遠江国侵攻の拠点を得たというだけにとどまらず、武田軍が実質的に周囲の国衆達を根こそぎ取り込むこととなるという大きな意味をもった戦いとなりました。

武田軍と徳川軍との戦いの趨勢を決定付けたといっても過言ではありません。

そして、このことが徳川家康の焦りを生み、徳川家康の三方ヶ原への無理な行軍と、三方ヶ原の戦いでの徳川軍の大敗へと繋がっていくこととなります。

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