【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件

本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、永禄12年(1569年)1月4日、本圀寺に宿泊していた足利義昭を、織田信長によって畿内から追い出された三好三人衆が襲撃した大事件です。

発生した場所から六条合戦とも言われます。

それまで幕府足軽衆の1人として埋もれていた明智光秀が織田信長に見出されて世に出るきっかけとなった戦いとしても有名です。

本圀寺の変発生の経緯

織田信長の上洛と畿内の制圧

永禄11年(1568年)9月12日〜13日の観音寺城の戦いで六角義賢・六角義治親子に勝利した織田信長は、同年9月28日に入京しました。

その後、織田軍は、岩成友通が守る勝龍寺城勝竜寺城の戦い)、三好長逸・細川昭元が守る芥川山城、池田勝正が籠る池田城、篠原長房が籠る越水城、滝山城を続けて攻略し、三好三人衆を阿波国へ追い出します。

また、織田信長は、三好義継、松永久秀・松永久通を傘下に収めて畿内をほぼ完全に掌握します。

この結果、織田信長に連れられて入京した足利義昭は、一旦芥川山城に入った後、永禄11年(1568年)10月14日、帰京して六条(現在の京都市下京区内・西本願寺の北側)にあった本圀寺を仮御所として同寺に入った後、同年10月22日、室町幕府第15代征夷大将軍に任命されます(三好三人衆が推戴する14代将軍・足利義栄は、同年10月18日に廃されています。)。

なお、本圀寺の名称は貞享2年・1685年に徳川光圀から一字を貰って本圀寺(「圀」は則天文字)と改名した後のもので、そこまでの名称は「本國寺」だったのですが、現在では本圀寺の変という言い方が一般的ですので、混乱を避けるために本稿では「本圀寺」で統一します。また、このときの本圀寺は、現在ある京都市山科区とは場所が違いますので注意が必要です。

織田信長美濃へ帰国

上洛の目的を果たした織田信長は、足利義昭の警備を、近江国・若狭国の国衆約2000人と足利義昭直属の奉公衆に託し、永禄11年(1568年)10月26日、一旦本拠地である美濃(岐阜)に帰国します。

将軍となり京に返り咲いた足利義昭ですが、元々僧侶に過ぎなかった足利義昭に自由にできる大きな軍事力などありません。織田信長の軍勢が頼りです。

ところが、そんな織田信長が主力軍を連れて本拠地に戻ったのですから、当然足利義昭のいる京の守りは弱くなります。

京が手薄となったのをチャンスと見た三好三人衆は、直ちに京の奪還と15代将軍足利義昭を亡きものとする計画を立てます。

遡ること3年前の永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺している三好三人衆に(永禄の変)、将軍暗殺についての迷いなどありません。

また、三好三人衆には、美濃国を奪われ織田信長に恨みを持つ斎藤龍興も加勢します。

三好三人衆は、逃げ帰った本拠地・阿波国から、畿内に戻って兵を編成し、1万人に膨れ上がった軍勢を引き連れて京に進軍してきます。

対する足利方の兵は2000人に過ぎず、また本圀寺は守りを固める堀や土塁・石垣を巡らした城郭様の寺ではなかったため防衛面でも極めて不利な状況となります。

足利義昭大ピンチです。

本圀寺の変(六条合戦)の経過

幕府足軽衆・国衆の奮戦

永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆らが、薬師寺九郎左衛門を先懸けとして市中に火を放ちながら足利義昭がいる六条本圀寺に向かって進軍してきます。

これを聞いた室町幕府足軽衆(室町幕府の徒歩で戦う武士の集団)が、当時上京にあった奉公衆の屋敷から本圀寺に駆け付けます。

この足軽衆の中の1人が明智光秀でした(信長公記)。なお、明智光秀が属していた足軽衆は幕府内では下層身分であり、細川藤孝が就いていた御供衆とは大きな身分差がありました。

幕府足軽衆の1人として本圀寺に入った明智光秀は、籠城戦の戦力として大筒・鉄砲で応戦し、敵兵の撃退を続けます。

他方、三好三人衆の先陣・薬師寺貞春の軍勢が、幾度も寺内への進入を試みますが、本圀寺を守る若狭国衆の山県源内、宇野弥七らに阻まれます。

結局初日は、本國寺の陥落には至らぬまま日暮れとなったため、三好三人衆の軍は、一旦引いて翌日の戦闘に備えることとなりました。

ところが、翌日である同年1月6日になると、将軍襲撃(本圀寺攻撃)の報が織田方の各将の下に届き、将軍直属の細川藤孝・和田惟政をはじめとして、三好本家の三好義継や、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らが、続々と足利義昭(本圀寺)に援軍として駆け付け、一気に形成が逆転します。

形勢不利となった三好三人衆は、退却を試みるも桂川湖畔で追いつかれ、足利方の軍勢と合戦に及んだものの大敗北を喫します。

織田信長の出陣

また、永禄12年(1569年)1月6日、本拠地・岐阜で本圀寺襲撃の報を受けま織田信長もまた、大雪が降る中、直ちに10騎ばかりの供廻りを連れて出陣します。

そして、織田信長は、本来3日かかる120km近い行程をわずか2日で走破して同年1月8日本圀寺に到着しますが、このときは既に三好三人衆は撃退された後でした。

本圀寺の変の後

何とか三好三人衆を撃退したものの、本圀寺の変は、足利義昭・織田信長連立政権による京統治の脆弱さを露見させるに十分な重大事件でした。

京の安全が十分ではないと考えた足利義昭・織田信長はすぐに手を打ちます。

殿中御掟の制定(1569年1月14日)

まずは、永禄12年(1569年)1月14日、足利義昭と織田信長の協議によって「殿中御掟」を定め、統治についての基本方針を決定します。

なお、当初は9ヶ条だった「殿中御掟」は、2日後である同年1月16日に7ヶ条、永禄13年(1570年)1月23日に5ヶ条が新たに追加されて具体化されていきます(なお、これに伴い足利義昭の将軍権力の制限も進んでいきます。)。

足利義昭の防衛強化

次に、防衛力が脆弱な本圀寺を仮御所としている状況では、今後も足利義昭が害される危険性が生じるのではないかと危惧されます。

まだ足利義昭の権威を失うことができない織田信長は、急ぎ本圀寺の建築物を解体・移築する方法で将軍の在所として足利義昭の二条城の造営を開始します。

そして、13代将軍・足利義輝が使用していた二条御所・烏丸中御門第(現在の京都御苑南西部)に、二重の水堀と高い石垣を備える堂々たる城郭とする二条城が新たに築城され、足利義昭がそこに入ることとなりました。なお、このとき建築された二条城は、1603年に徳川家康が築城した現在の二条城とは異なる場所です。

これらの結果、将軍の城・統治の法を備えた足利義昭の下に、代々幕府に仕えてきた奉公衆をはじめとして多くの人材が集まってきたため、室町幕府の再興に向かうかに見えました。

その後

もっとも、その後、足利義昭による各地の大名・国衆に対して行った上洛要請と、これを無視した朝倉義景と幕府軍(実際は織田軍)の戦いにより、事態は予想外の方向に進んでいくこととなります。

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