大垣城の戦い(おおがきじょうのたたかい)は、関ヶ原の戦い当日に、本戦のすぐそばで発生した東軍による攻城戦です。
元々は西軍主力の本陣を置いていた大垣城が主戦場となるはずだったのですが、前日に石田三成らが西軍主力の本陣を関ヶ原に移してしまったために本戦ではなくなった戦いでもあります。
関ヶ原の戦い本戦の直前に始まった大垣城の戦いですが、本戦がわずか1日で東軍勝利にて決着したため、その影響を受けた大垣城もわずか1週間余りで陥落してしまいます。
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大垣城の戦いに至る経緯
石田三成大垣城入城(1600年8月10日)
関ヶ原の戦いの直前には伊藤盛宗が大垣城主を務めていたのですが、慶長5年(1600年)に石田三成が挙兵する形で西軍が蜂起すると、伊藤盛宗は石田三成率いる西軍に与する決断をします。
伏見城を攻略した後で3軍に分かれた西軍は、東海道・北陸・伊勢方面の制圧を進めていく一方で、同年8月10日、総大将代行であった石田三成は、先行して大垣城を本拠地と定めて同城に入り決戦準備を整えていきます。
徳川家康が赤坂到着(1600年9月14日)
これに対し、徳川家康は、会津征伐を取りやめて西に向かって引き返し、慶長5年(1600年)9月14日、美濃赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に到着し、同地にある小高い山である「岡山」に築かれていた本陣に入ります。なお、この岡山の地は、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したことから戦後に勝山に改名されています。
杭瀬川の戦い(1600年9月14日)
このとき徳川家康率いる大軍を目前にした西軍の兵に動揺が走り、これが次第に高まって士気が低下し、逃亡する者も現れ始めます。
この状況を目にした島左近(石田三成の家老)の献策に従い、東軍に奇襲攻撃をかけることに決めます。
そして、大垣城から島左近と明石全登(宇喜多秀家の重臣)が出陣し、東軍の中村一栄隊・有馬豊氏隊を釣り出すことにより局地戦に勝利します(杭瀬川の戦い)。
西軍主力関ヶ原へ(1600年9月14日夜)
杭瀬川の戦いに勝利した西軍の士気も回復したところで大垣城の戦いが始まろうとしたのですが、ここで事態が大きく動きます。
慶長5年(1600年)9月14日夜、大垣城に籠城する予定であった石田三成らが、守備兵として福原長堯(石田三成の義弟)以下7500人を残して主力を関ヶ原へ移動させたのです。
石田三成が突然当初の予定を変更した理由については、東軍本隊が到着して兵の士気低下が止まらなかった可能性や、小早川秀秋に不審な動きがあり退路を断たれる可能性があることを危惧した可能性などが考えられるのですが、正確な理由は不明です。
大垣城の戦い
大垣城の布陣
西軍主力が去った大垣城では、残された諸将にて城内での再配置が行われます。
残った将のうち、石田三成の義弟である福原長堯が守将として熊谷直盛と共に本丸に入り、二の丸には垣見一直・木村由信・木村豊統・相良頼房、三の丸には秋月種長・高橋元種らが配されます。
攻城戦開始(1600年9月15日未明)
以上に対し、西軍主力が大垣城を出て関ヶ原に向かったことを知った東軍は、これを追って少し遅れて関ヶ原に向かったのですが、背後を取られることを防ぐため岡山にも兵を残していきます。
そして、このとき岡山に残された東軍兵の中から、水野勝成・松平康長・西尾光教・津軽為信らが率いる1万1000人の兵が選別され、西軍主力の去った大垣城を攻撃するために同城に向かいます。
そして、慶長5年(1600年)9月15日未明、関ヶ原の戦い本戦に先立ち、大垣城に取り付いた東軍が大垣城への攻撃を始めます。
関ヶ原の戦いで西軍大敗
また、大垣城攻城戦開始に少し遅れた慶長5年(1600年)9月15日午前8時ころ、関ヶ原の戦いの本戦も始まります。
この点、大垣城の戦いは、関ヶ原の戦いに連動していたため、同日、関ヶ原の戦い本戦で西軍が大敗すると、大垣城は敵地に取り残される形となって、その士気も一気に地に落ちます。
三の丸陥落(1600年9月15日)
こうなると大垣城では逃亡する兵が続出し始め、防衛が困難になります。
そのため、慶長5年(1600年)9月15日のうちに三の丸が陥落します。
相良頼房ら離反
また、大垣城内に東軍からの調略の手が伸びていき、水野勝成との交渉の結果、慶長5年(1600年)9月16日夜、相良頼房・秋月種長・高橋元種が攻将であった井伊直政に寝返ります。
垣見一直らを謀殺(1600年9月18日)
また、慶長5年(1600年)9月18日、東軍に寝返った諸将が、守将の軍議の名目で垣見一直、木村由信・木村豊統・熊谷直盛らを呼び出し謀殺してしまいます。
この結果、大垣城の防衛を担う将が福原長堯のみとなってしまい、二の丸までもが陥落します。
大垣城開城(1600年9月23日)
大垣城本丸にて指揮をとっていた福原長堯でしたが、劣勢を挽回する術はありませんでした。
そして、慶長5年(1600年)9月23日、東軍方の使者となった禅僧を通じて松平康長に降伏を申し入れ、城兵の助命を条件として大垣城を開城します。
なお、福原長堯は、降伏に際し、石田三成から与えられていた名刀・日向正宗を水野勝成に与えています。
また、大垣城に入っていた守将の一人に山田去暦という武将がおり、その娘・おあんが書き残した「おあむ物語」が大垣城の戦い際の城内の状況を記載していますので、興味がある方は一読下さい(なお、作者である「おあん」は、大垣城落城直前に「たらい」に乗って大垣城から脱出したそうです。)。
大垣城の戦い後
福原長堯切腹(1600年10月2日)
大垣城の開城した福原長堯は、和議条件に従って出家・剃髪して道蘊(どううん)と名乗り、伊勢国朝熊山の永松寺に蟄居します。
そして、福原長堯の助命を約していた水野勝成と西尾光教は、徳川家康に対して福原長堯らの助命を嘆願します。
ところが、福原長堯が、石田三成の縁者であったこと、蔚山の戦いの件で東軍主力であった武断派諸将の恨みを買っていたことなどから、この助命嘆願は認められませんでした。
そこで、福原長堯は、慶長5年(1600年)10月2日に自刃して果て、従者2名も追い腹を切って果てています。
徳川政権下の大垣城
そして、大垣城は、関ヶ原の戦い後、清洲城の守備や石田三成の居城であった佐和山城攻撃で功を挙げた石川康通が5万石を与えられました(美濃大垣藩立藩)。