【徳川家康の東三河平定戦】西三河平定後の三河国統一戦

桶狭間の戦いのどさくさに紛れて岡崎城に入った徳川家康は、吉良義昭・鵜殿長照らを制圧して西三河を勢力下に勢力下におさめ、また奥三河へも影響力を及ぼしていきます。

こうして三河国西部を傘下に治めるに至った徳川家康は、今川方の国衆達が割拠する東三河への侵攻を開始します。

東三河平定戦に至る経緯

西三河平定と徳川家康独立(1562年)

永禄5年(1562年)に、吉良義昭を破って西三河南部まで進出した松平家康(後の徳川家康、本稿では徳川家康の表記で統一します。)は、上ノ郷城をも攻略して西三河を統一した上で、織田信長と軍事同盟(清洲同盟)を締結して正式に今川家からの独立を果たします。

この徳川家康の躍進は、奥三河の国衆に動揺を与えます。

奥三河にはこの頃までに今川家の影響力が強く及んでいたのですが、今川義元が失われたことにより今川家の力が大きく低下したため、このまま今川家に従属していると今川家と一緒に家が失われてしまうという疑念が奥三河の国衆達に生まれたからです(なお、奥三河の国衆のなかでも田峯城・野田城は既に松平家に下っていました。)。

西三河一向一揆鎮圧(1564年)

また、西三河でも強い力を持つに至った徳川家康は、浄土真宗本願寺派寺院に対する守護不入特権を否認するという決断を下し、これらに貢祖、軍役の賦課等を課すこととし、またこれが原因で西三河一帯にて発生した三河一向一揆を鎮圧して西三河一帯から生まれる経済力・軍事力を手に入れます。

こうして徳川家康が西三河を平定すると、今川家の支配下にあった東三河でも、これに従う武将が出てくるようになります(なお、東三河の国衆のなかでも五本松城の西郷家などは既に松平家に下っていました。)。

東三河平定戦

この結果、西三河を支配し、奥三河・東三河にも強い影響力を持つようになって東三河への橋頭堡を手に入れた徳川家康は、東三河の平定を目指して東進を試みていきます。

この頃の東三河では、五本松城の西郷家が徳川家康方につきそれを後方(西側)の織田家が支えるという構造となっていた一方で、作手亀山城の奥平家、牛久保城の牧野家、ニ連木城・田原城の戸田家、吉田城(東三河の国人衆の人質を入れそれを今川方の小原鎮実が守る東三河の要衝とでした。)などが今川方について対立している状況でした。

亀山城・ニ連木城攻略(1564年2月)

徳川家康は、東三河侵攻作戦の初戦として、まず、永禄7年(1564年)2月に奥平定能が守る作手亀山城、戸田重貞が守るニ連木城を攻略します。

吉田城開城(1564年3月)

その後、徳川家康は、御油、八幡、御津を占領した後小坂井で激戦を繰り返して同地を確保し、周囲の今川勢を吉田城へ追みます。

その上で、小坂井に砦を構えるとともに、船形山の砦とあわせて駿河国からの今川援軍を断ち吉田城を包囲します。

こうして長期戦化した吉田城包囲戦は兵糧攻めの状態となり、9カ月を経過した永禄7年(1564年)3月、下地に本陣を構えていた徳川家康が開城して遠江に退くならば全員を助命するという条件で小原鎮実に和談を持ちかけ、和議の証として徳川家康の異父弟松平勝俊および家臣酒井忠次の娘を人質に伴うことでこの条件をのんだ小原鎮実が吉田城を開城してこれを攻略します。

この後、永禄7年(1564年)6月2日、徳川家康が酒井忠次に対して、積年の功と吉田城攻略の褒美として吉田城を与え、吉田北郷一円の支配を任せる旨記載した感状を与えて酒井忠次に東三河統治を任せています。

田原城開城

今川家が、東三河の国人衆の人質を集めて東三河を支配する中心となっていた吉田城が落ちたことにより、東三河における今川家の威信が失墜します。

こうなると東三河の国衆達は、一気に徳川家康方に寝返り始めます。

徳川軍は、吉田城を接収した後に田原城に向かったのですが、守将であった朝比奈元智は、下がった式では籠城戦を維持できないと判断し、田原城を徳川家康に明け渡して駿河区に退却します。

こうして田原城を接収した徳川家康は、同城に本多広孝を入れます。

牛久保城攻略(1566年5月)

次々と東三河を攻略していた徳川軍は、最後の東三河における今川方の拠点として牛久保城の攻略を目指します。

東三河攻略戦開始当初から攻撃対象となっていた牛久保城でしたが、同城周辺に設置されていた今川方諸砦をも駆使した抵抗に遭い、牛久保城の攻略は困難を極めている状況でした。

もっとも、長きに亘る攻城戦の末、永禄9年(1566年)5月に牛久保城の牧野成定を降伏させ、この牛久保城陥落をもって徳川家康による東三河平定が達成されます。

東三河国平定後

軍政改革(三備の制)

以上の経過を果て、以前より織田領であった加茂・碧海両郡の西部地域を除いた三河国の統一を果たした徳川家康は、軍政改革を行います。

具体的には、麾下の将兵を、①家康旗本衆、②西三河衆、③東三河衆に分け、馬廻衆と旗本先手衆で構成された直属部隊以外は一門衆に至るまで西三河衆(旗頭は石川家成、後に石川数正)と東三河衆(旗頭は酒井忠次)の下に付けて序列を明らかにしたのです(三備の制)。

三河守任官申請

また、徳川家康は、三河国統治の正当性を明らかにするために三河守任官の申請をします。

ところが、朝廷からは、松平家から国主となった前例がなく、素性の明らかでない徳川家康を国主に任命することなどできないとし、徳川家康の申請を却下されてしまいます。

徳川姓への改姓(1566年12月29日)

困った徳川家康は、自身の素性をかつて国主となったことがある人物に無理やりつなげるよう画策を始めます。

まず、松平家康は、三河国出身の京都誓願寺住持であった泰翁(たいおう)の仲介により関白・近衛前久に接近します。

そして、近衛前久の力により古い記録を繋ぎ合わせ、松平氏の祖とされる世良田義季が「得川」姓を名乗っていたこととし、この得川姓が源氏・新田氏系で「藤原」の姓を名乗ったことがあることとしてしまいます。

そして、以上の内容を基に、松平家康の先祖は元々は源氏の家系であり、総領家は藤原氏になったとする真偽不明の系図を作成して朝廷に提出します。

その上で、徳川家康は、徳河郷にちなみ「徳川」姓に改姓(復姓?)することを朝廷に申し出て、一代のみとの条件の下で「徳川」姓を名乗ることが許され、永禄9年12月29日(1567年2月18日)に「徳川家康」と改名します。

三河守任官

この結果、晴れて先祖に国主となった前例が出来上がったことで、徳川家康は従五位下・三河守に任じられることとなり、三河国支配の正当性を獲得したのです。これにより、名実共に戦国大名になったと言っていいかもしれません。

このように有名な「徳川」姓は、徳川家康が三河国の国主(三河守)になるために無理やりこじつけた名だったのです。

遠江国侵攻(1568年)

三河国を平定した徳川家康は、武田信玄と誼を通じて、永禄11年(1568年)から今川領である遠江国侵攻を開始するのですが(徳川家康の遠江侵攻)、長くなりますので以降の話は別稿で。

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