【吉野城の戦い】金峯山寺に籠った護良親王の籠城戦

吉野城の戦い(金峯山城の戦い)は、吉野に入って倒幕運動を続けていた後醍醐天皇の皇子である護良親王を討つため、鎌倉幕府方の六波羅探題が大軍を動員して力攻めを行った戦いです。

最終的には鎌倉幕府軍の勝利に終わり敗れた護良親王は高野山に落ちていくのですが、その過程で村上義光が身代わりとなって自刃したり、村上義隆が1人で殿を務めたりするなど、多くの泣かせるエピソードがある戦いでもあります。

本稿では、元弘の乱初期の大戦である吉野城の戦いについて、発生に至る経緯から簡単に説明していきたいと思います。

吉野城の戦いに至る経緯

後醍醐天皇の2度目の挙兵失敗

元弘元年(1331年)8月、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動を始めたのですが(元弘の乱)、後醍醐天皇の側近であった吉田定房によって鎌倉幕府に討幕計画が漏れてしまいます。

その結果、討幕計画の主要人物のうち、後醍醐天皇は配流、大塔宮護良親王(この時点でまだ還俗していなかったため、尊雲法親王と言っていました)・日野俊基は死罪、文観・忠円・円観は配流との処分が申し渡されます。

ここで、護良親王は、後醍醐天皇を逃すためにその身代わりとして花山院師賢を比叡山延暦寺に送った上で、八瀬童子を使わせて後醍醐天皇を笠置山に誘導します。

この策にはまった六波羅探題は、身代わりが送られた比叡山延暦寺に派兵し、後醍醐天皇の引き渡しを要求します。

もっとも、送られてきた花山院師賢を後醍醐天皇と勘違いしていた比叡山延暦寺が後醍醐天皇を守るために鎌倉幕府の求めを拒絶したため、六波羅探題軍が比叡山延暦寺側に攻め寄せて近江国東坂本で合戦となります。

この戦いは天皇を擁すると信じる比叡山延暦寺側が初戦に勝利したのですが、比叡山延暦寺側で後醍醐天皇と思っていた人物が別人であったことが露見してしまったため、同寺の士気が一気に低下し、鎌倉幕府との交戦を停止してしまいます。

そして、このことを知った六波羅探題軍もまた比叡山から兵を引きます。

笠置山陥落(1331年9月28日)

他方、護良親王の助言に従って笠置山に到着し同山に行宮を設けた後醍醐天皇は、同山で味方を募り、赤坂城の楠木正成などを引き入れて鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵させます。

この動きを察知した鎌倉幕府方は、直ちに六波羅探題から7万5000人もの兵を動員して笠置山に送り、元弘元年(1331年)9月2日からこれを取り囲みます。

笠置山に籠る兵は3000人とされており、圧倒的に不利な状況だったのですが、天然の要塞であった笠置山はなかなか落ちませんでした。

もっとも、同年9月28日夜、鎌倉幕府方の陶山義高らが風雨に紛れめ笠置山に火を放ったことに起因して笠置山の防衛線が崩壊し、ついに笠置山が陥落します。

この結果、後醍醐天皇らは鎌倉幕府軍に捕えられて六波羅探題に送られ、笠置山を囲んでいた兵は抵抗を続ける赤坂城に向かって行きました。

護良親王の吉野入り

鎌倉幕府に捕えられた後醍醐天皇は、一旦、平等院に幽閉された後、隠岐の島に配流されました。

このとき、護良親王は、南都の般若寺で戦局をうかがっていたのですが、次に自信に鎌倉幕府の手が伸びてくることは確実であると判断し、赤松則祐・村上義光・木寺相模ら9名を引き連れて般若寺を脱出し、熊野方面へ向かって逃亡します。

もっとも、熊野に向かう途中で護良親王の夢に童子が現れ、熊野は危険であるため十津川に向かうようにとのお告げがあったため、護良親王らは熊野行きを取りやめ、十津川郷に入ります。

なお、護良親王は、この十津川郷滞在中に還俗し、「尊雲法親王」から「大塔宮護良親王」と名を改めたとされています(太平記)。

護良親王は、十津川郷において同地の土豪であった戸野兵衛・竹原八郎に匿われて半年ほど滞在したのですが、幕府方に味方した熊野別当定遍の策略のため、十津川を脱して高野山方面へ向かいます。

その後、護良親王は、一旦は槇野城(現在の奈良県五條市)に入ったのですが、金峯山寺の執行であった宗信法院の迎えを受けたため槇野城を出て吉野山に入ります。なお、護良親王は吉野山の南側にあった安禅寺(愛染宝塔)から吉野に入ったと言われています。

護良親王が吉野山に入った正確な時期は不明なのですが、元弘2年(1332年)6月27日付の護良親王から和泉松尾寺に宛てた令旨が残っているため、少なくとも同日より前であると考えられています。

吉野城の戦い

護良親王の令旨

吉野山に入った護良親王は、鎌倉幕府に対峙するために、吉野山に立ち並ぶ塔頭などを曲輪に見立て、吉野山一帯を城郭に見立てた上で(中世山城としての吉野城、太平記では金峯山城)、鎌倉幕府抵抗戦力の中枢と位置付け、ここで全国各地の勢力に対して鎌倉幕府打倒の令旨を撒布していきます。

この護良親王の令旨を受けて鎌倉幕府打倒に立ち上がった勢力としては、播磨国の赤松則村(赤松円心)などが有名です。

両軍の布陣

鎌倉幕府としても、幕府打倒の令旨を大量発布する護良親王を捨て置くことはできません。

鎌倉幕府方は、元弘3年/正慶2年(1333年)2月16日、二階堂道蘊を総大将とする6万騎を護良親王が籠る吉野城(金峯山城)に派遣します。

他方、迫り来る鎌倉幕府軍に対し、護良親王は、金峯山寺・蔵王堂に本陣を置き、北側から迫り来るであろう鎌倉幕府に対し、金峯山寺を主郭・塔頭群を防衛曲輪とみなした上で、外堀に見立てた吉野川沿いに六田・一の坂・丹治・飯貝という4つの城塁を設け、吉野山全体を城(吉野城)に見立てて防衛を図ります。

この吉野城攻防戦は、太平記巻第七「吉野城軍事」に詳述されているのですが、同記載には創作・誇張が多分に含まれており実際の経過は不明です。

もっとも、本稿では当該記載を基に合戦経過を紹介しますので、以上を踏まえてお読みいただければ幸いです。

開戦(1333年2月18日)

元弘3年/正慶2年(1333年)2月18日午前6時ころ、北側から南進して登りくる鎌倉幕府軍と金峯山寺に籠る護良親王軍との間で発生した矢合わせから合戦が始まり、当初は戦力に優る鎌倉幕府軍が戦局を優位に進めます。

簡単に吉野川を突破した鎌倉幕府軍は、丈六平に本陣を置き、大軍を頼りに金峯山寺を目指して南進して行きます。

ところが、この後、鎌倉幕府軍の進軍がすぐに滞ります。

吉野城(金峯山城)に至る道が狭隘であるために細長い陣形での侵攻となってしまった上、急峻な道に足を取られた隙に護良親王軍に攻撃されて損害が拡大していったため、鎌倉幕府の大軍という利を全く生かせなかったからです。

鎌倉幕府軍迫る(1333年閏2月1日)

大軍を繰り出して北側から力攻めをするもなかなか吉野城本郭(金峯山寺)に到達できない鎌倉幕府軍は攻め方を変更します。

鎌倉幕府方は、元弘3年/正慶2年閏2月1日、道案内として加わっていた吉野執行・岩菊丸の策を採用し、地形が険しいために防備が手薄と考えられる南側(青根ヶ峰側)の愛染明王宝塔に兵を回すこととし、地理に詳しい150人余りを選抜し夜陰に紛れて金峯山方面へと忍び込ませた上で、夜が明けたところで鎌倉幕府方の愛染明王宝塔方面隊が火を放ちつつときの声をあげながら攻め下らせます。

そして、この鎌倉幕府軍別動隊の攻撃に呼応させ、それまで攻めあぐねていた鎌倉幕府大手軍も総攻撃を行います。

このとき、鎌倉幕府軍本隊の総攻撃を受けた大手側の護良親王軍は、大手側空堀の上に架けられた大橋(攻めが辻)において踏みとどまり鎌倉幕府方の兵800人を討ち取る抵抗を見せます(なお、この戦いが吉野城の戦いの最激戦であり、戦いによる死者の遺体で大手方の堀が埋まり平地と化すほどの戦いがあったと言われています。)。

もっとも、多勢に無勢でしのぎ切れなくなった護良親王軍は次第に鎌倉幕府軍に押されていきました。

護良親王の最期の酒宴

元々寡兵であった護良親王軍でしたが、大手側2軍と搦手側1軍による挟撃にあったためにこれを捌ききることが出来なくなり、大手・絡手の双方の防衛線が崩れ、鎌倉幕府軍が護良親王方の本陣である金峯山寺・蔵王堂に迫ってきます。

このとき蔵王堂で必死に指揮をとっていた護良親王にも鎧に7本の矢が突き刺さり、頬と二の腕の二カ所に突き傷を負った状態となっていました。

蔵王堂で崩れゆく戦線を見渡した護良親王は、もはやこれまでと覚悟を決めます。

そこで、護良親王は、迫りくる鎌倉幕府軍の中に突入して一旦これを追い払った後、蔵王堂前の広庭に大幕を引き巡らし、その中に付き従う将兵を入れて最期の別れの酒宴を始めます。

なお、現在の蔵王堂正面には、石柵に囲まれた中に4本の桜の木が植えられているのですが、この4本桜は、護良親王が最後の酒宴を開いた場所であることにちなんで後世に植えられたものです(また、石柵の中にある青銅の灯籠は、文明3年/1471年に妙久禅尼により寄進されたものです。)。

村上義光の身代わり自刃

このとき、大手側の二の木戸で鎌倉幕府軍と戦っていた村上義光の耳に、蔵王堂内で行われていた酒宴の騒ぎが聞こえてきます。

蔵王堂での騒動を耳にした村上義光は、自分がいない間に護良親王がいる蔵王堂が攻撃を受けたと考え、二の木戸を離れて蔵王堂に向かって走っていきます。

蔵王堂にたどり着いた村上義光が護良親王の前に出て状況を確認したところ、護良親王から死を覚悟しての最期の宴を開いていると告げられます。

これに対し、村上義光は、護良親王に対してこんなところで死ぬべきではない、自分が身代わりとなって敵をひきつけるのでその隙に脱出するようと諫めます。

護良親王は、金峯山寺に籠った将兵と共に討ち死にするつもりであるとして一旦は村上義光の提案を断ったのですが、村上義光による強い説得の結果、村上義光の提案に従うこととします。

そこで、護良親王は、着用していた鎧と直垂を脱いで村上義光に渡し、勝手明神横の谷を下って落ち延びていくこととしました。

他方、村上義光は、護良親王を見送った後、護良親王が脱いだ鎧と直垂を着用して護良親王になりすまして蔵王堂の南側にあった二天門に上り、「天照太神の御子孫、神武天皇より95代の帝、後醍醐天皇の第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に滅ぼされ、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫んだ上、鎧を脱いで櫓から投げ下ろして錦の鎧直垂と袴姿となって練り絹の二重袖をはだけさせます。

そして、村上義光は、自らの左脇腹から右脇腹までを一文字に切った上で腸をつかみ出して櫓の板に投げつけ、さらに大刀を口に銜えたあとうつ伏せにして突き刺して絶命します。なお、この出来事にちなんで、二天門跡地には村上義光公忠死之所と記した石柱が立っています。

この村上義光の壮絶な自刃を目にした鎌倉幕府軍は、護良親王が自害したと思い込んで四方の囲みを解いてその遺体めがけて集中し、護良親王になりすました村上義光の首がとられ、金峯山寺の薬師付近に運ばれます。

その後、同地で首実検が行われたのですが、ここでようやくこの首が護良親王のものではないことが判明します。

護良親王と思われていた者が別人であったということは護良親王が逃亡中であることを意味しますので、鎌倉幕府方では、急ぎ護良親王追討軍が編成され山中の捜索が行われることとなりました。

なお、偽首であることが判明した村上義光の首は、六波羅探題に送られたとも言われていますが(太平記)、同地の口伝ではその場に打ち捨てられたものを里人が拾って埋葬したと言い伝えられており、その埋葬地に村上義光の墓が建てられています。

村上義隆の殿戦

村上義光が身代わりとなって時間を稼いでいる間に勝手神社の横にある谷を駆け下りていた護良親王は、わずかな手勢と共に高野山を目指して落ちていきます。

もっとも、護良親王が存命であると知った鎌倉幕府により差し向けられた追っ手の軍が護良親王の下に迫っていきます。

手負いの護良親王らと鎌倉幕府軍では進行速度に明らかな差があったからです。

ここで、護良親王の供をしていた村上義隆(村上義光の子)が、このままでは鎌倉幕府軍に追いつかれると判断し、敵を食い止めるために1人で殿として残ります。

その後、鎌倉幕府軍が、村上義隆が立ちふさがる細道にたどり着いたのですが、村上義隆が迫りくる鎌倉幕府軍を1時間ほど食い止めるという活躍を見せます(なお、村上義隆は、十分な時間を稼いだ後、竹藪の中に走り入った後で腹を切って自害しています。)。

吉野城の戦い後

護良親王の吉野脱出

護良親王は、村上義光・村上義隆親子が命をかけて稼いだ時間を使い、なんとか吉野山からの脱出を果たし、高野山に向かって落ちていきます。

ここで、護良親王を追っていた二階堂道蘊率いる鎌倉幕府軍が高野山に押し寄せて根本大塔に陣取って山中を捜索したのですが発見することが出来なかったため、護良親王捜索を諦め、抵抗を続ける楠木正成の千早城へと向かっています。

余談

なお、吉野山については、建武3年(1336年)に吉野に逃れた後醍醐天皇を追って攻め込んだ高師直により焼き尽くされているため、蔵王堂はじめとする多くの寺院宝塔はその後に再建されたものであり、現在残る建築物(吉野城)は、往時のものではありません。

また、その後の筒井順慶による吉野攻撃や、その後の吉野参道への交通の便宜のため、堀などの遺構も現在までに消滅しています。

そのため、現在の地形が当時のものと異なっている可能性があるため、吉野城の戦いの全貌を完全に再現することはできず、本稿の記載も参考に留めていただければ幸いです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です