【海ノ口城の戦い】300人の奇襲で城を乗っ取った武田信玄の初陣

海ノ口城の戦い(うんのくちじょうのたたかい・うみのくちじょうのたたかい)は、後に戦国最強とうたわれた武田信玄の初陣である奇襲戦です。

父・武田信虎が8000人の兵で36日間かけて落とせなかった城を、武田信玄が300人の兵をもって僅か一夜で攻略するという、武田信玄の軍才を余すところなく見せつけ戦いなのですが、実は甲陽軍鑑以外の当時の資料に記録がありません。

言うまでもなく甲陽軍鑑は、武田信玄を英雄化して盛に盛った記載がなされているため、資料としての信用性が高くないため、海ノ口城の戦いでの奇襲戦や、敵将・平賀玄信の存在は、架空のものであるとする説も有力です。

もっとも、話としては有名ですので、本稿では、伝えられている範囲において、武田信玄の初陣である海ノ口城について、その発生に至る経緯から説明したいと思います。

海ノ口城の戦いに至る経緯

武田信虎による信濃国侵攻への野心

苦心の末に甲斐国を統一し、さらに信濃国進出を狙う武田信虎でしたが、強引な領土拡大政策をとったこともあって、その周囲は敵だらけという状態となっていました。

そこで、武田信虎は、まず、天文4年(1535年)9月17日、甲信濃国境の堺川において、信濃国・諏訪を治める諏訪頼満と対面して和睦・同盟関係を成立させ、西側の安全を確保します。

次に、武田信虎は、天文5年(1536年)に駿河国内で発生した今川家のお家騒動(花倉の乱)に介入して栴岳承芳(後の今川義元)の勝利に貢献して今川義元と良好な関係を構築し、南側の安全を確保します(なお、天文6年/1537年2月10日に武田信虎の長女・定恵院が今川義元に正室として嫁いで婚姻関係を持つという形で武田家と今川家の間の同盟を締結しています・甲駿同盟)。

佐久郡侵攻作戦(1536年11月21日)

甲斐国の南側及び東側の安全を確保した武田信虎は、諏訪頼重の協力を得て、北側にある信濃国・佐久郡の攻略に取り掛かります。

狙うは、平賀玄信が2000人の兵で守る海ノ口城(うんのくちじょう、現在の長野県南佐久郡南牧村海ノ口にある標高1357m・比高220mの山城)です。なお、平賀玄信は、4尺3寸(約130cm)の刀を扱う剛の者で、70人力の豪傑と言われているのですが、実際は、実在の人物であるかすら不明です。

そして、武田信虎は、天文5年(1536年)11月21日、8000人の兵を率いて甲斐国・躑躅ヶ崎館を出発し、信濃国・佐久郡に向かって進軍していきます。

なお、この戦いに、武田信虎の嫡男・武田晴信(当時16歳、後の武田信玄)が元服直後の初陣として参戦しています。

海ノ口城の戦い

武田信虎の包囲戦

海ノ口城に取りついた武田信虎軍は、城を包囲して攻撃を仕掛けますが、城の堅い守りと大雪に阻まれ、36日囲んでも城が落ちる気配はありません。

正月が近づき、また本格的な冬が到来する時期となったため、武田信虎は、この冬の海ノ口城攻略をあきらめ、翌年の春に雪解けを待って再度攻撃をするとして、天文5年(1536年)12月26日、本拠地・躑躅ヶ崎館へ帰還することを決めます。

武田晴信の奇襲戦(1536年12月28日)

この撤退に際し、武田晴信が、武田信虎に対して殿(しんがり)を申し出たところ、武田信虎は、大雪のために追撃戦は考えられず、戦いがないのに殿を申し出るなど恥であるとして、武田晴信をあざけります。

もっとも、武田晴信が強く殿を申し出たため、武田信虎は、最終的には、武田晴信の申し出を認め、300人の兵を預けて殿を任せることしました。

そして、武田信虎軍本隊は、同年12月27日、海ノ口城から撤退を開始します。

武田晴信は、殿として武田信虎軍の撤退を見送った後、自らも撤退を開始し始めます。

このとき、武田信虎率いる武田軍本隊と、武田晴信率いる武田軍殿隊がいずれも撤退していくのを見た海ノ口城では、戦いが終わったと判断し、正月に備えて城に籠っていた兵を各領地に帰し、平賀玄信と残った80人ほどで勝利の酒宴を開きます。

ここで、武田晴信の軍才が光ります。

武田晴信率いる殿隊の撤退は、海ノ口城を油断させるための策だったのです。

海ノ口城から城兵が各地に帰っていったことを聞いた武田晴信は、すぐさま殿隊300人を率いて海ノ口城に取って返し、同年12月28日未明、同城に奇襲を仕掛けます。

城兵が80人しか残っていない上、その80人も酒に酔っていたことから、海ノ口城ではまともな防戦が出来ません。

たちまち、海ノ口城内への武田軍の進入を許してしまい、城主・平賀玄信が討たれて海ノ口城は落城します(甲陽軍鑑)。

武田信虎が8000人の兵で36日間攻撃して落ちなかった城を、武田晴信が300人の兵にて一夜で落としてしまうという快挙でした。

海ノ口城の戦い後

海ノ口城を陥落させたとはいえ、甲斐国から遠く離れた敵地のど真ん中にある城を300人の兵で守り切れるはずがありません。

そこで、武田晴信は、討ち取った敵将・平賀玄信の首を持って、甲斐国・躑躅ヶ崎館に凱旋帰国します。

ところが、自ら落とせなかった城を息子が僅か1日で攻略したことが面白くない武田信虎は、戻ってきた武田晴信に対し、落とした城を捨てて戻ってきたのは臆病者だとなじられたと言われており、武田晴信の初陣は大勝利を飾ったものの後味の悪い結果となっています。

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