【福原京遷都】遷都か?離宮か?未完に終わった平清盛の野望

福原京(ふくはらきょう)は、平清盛の主導によって神戸市兵庫区平野近辺に造営された未完の都の通称です。

巨大寺社勢力である園城寺・延暦寺が反平家の動きが見えたため、これらの巨大寺社に囲まれた京の地理的不利を払拭するために京を放棄する決断を下した平清盛が、自らの本拠地に天皇を迎えることにより勢力を維持しようとした苦肉の策での遷都計画でした。

遷都自体は、治承4年(1180年)6月に同地に天皇・上皇などが移されることにより始まったのですが、元々反対論が根強かった上に、造営中に反平家勢力の挙兵が始まったため、同年11月には完成を諦めて京に還幸するという結果に終わっています。

そのため、福原京遷都は僅か170日という短期間のものに過ぎず、そもそも遷都だったのか離宮に過ぎなかったのかすら定まっていません。

福原京遷都に至る経緯

平清盛による福原の整備(1156年~)

保元の乱で勝者の側に付いた平清盛は、保元元年(1156年)に播磨守に任じられ、播磨(兵庫県南西部)から摂津(大阪府北中部・兵庫県南東部)を領します。

そこで、平清盛は、自らは京で出世を計りつつ、経済的には、領地内にあった大輪田泊(神戸市兵庫区)を整備して基幹港と定めて宋との貿易を始めます。

なお、このころの日本と宋との関係は、平安時代に遣唐使が廃止されたために国家間での外交関係は遮断されていたのですが、10世紀後半に中国を統一した宋王朝が海洋政策に熱心だったため民間の往来は活発化しており、この民間レベルでの日宋貿易では、銭貨(渡来銭)・陶磁器・書籍・香料などが輸入され、日本国内で高額で取引されている状態でした。

平清盛は、この日宋貿易による利潤に目をつけ、大宰府を掌握してその北にある博多港への影響力を強め、さらに、本拠地・福原の南に位置する港・大輪田泊を改修してその間の航路(瀬戸内航路)を整備します。なお、この航路による利潤が平家の隆盛を支えたため、平清盛は航路上にあった厳島神社を厚く信仰していました。

こうして、平家は、日宋貿易の利益を独占することとなり、一門・家人で獲得した知行国・荘園とあわせて2つ目の財力の源泉を手に入れ、大躍進の原資としたのです。

保元・平治の乱の後、平清盛は、後白河上皇(のち法皇)と協力して政敵を駆逐し、また姻戚関係をも利用して出世していき、永暦元年(1160年)に武士初の公卿となる参議就任を経て、仁安2年(1167年)には律令官制最高官である太政大臣にまで上り詰めます(なお、太政大臣は名誉職であるため、慣例に従って約3カ月で辞職しています。)。

平清盛が福原を本拠とする(1169年)

経済力と政治力を背景としてとてつもない速度で出世をしていく平清盛でしたが、仁安3年(1168年)2月、大病を患って出家します。

その後、平家においては、京における政治全般は、一門の子弟や平家に協力する上流貴族たちに任せられることとなり、平清盛は、重大な懸案発生時以外には京に出向かなくなり福原に引きこもるようになります。

そして、大輪田泊の約2.5km北側に雪見御所を構え、福原一帯を整備していきます(未だ平家の長としての権力を維持していたため、周辺には平氏一門や貴族の屋敷が建てられていきました。)

平清盛と後白河法皇の蜜月の亀裂

その後、白山事件をきっかけとして、後白河法皇が平清盛の子である平重盛と平宗盛に比叡山を攻撃するよう命じたため、平清盛が何かと理由を見付けては、後白河法皇の命令をかわそうと試みたのですが失敗し、ついに比叡山追討の兵を挙げることとなります(平清盛と比叡山延暦寺との関係は良好でしたので、平清盛の対応はしぶしぶのものでした。)。

ところが、平家軍が比叡山追討に向かおうとしていた安元3年(1177年)6月1日夜半、多田行綱が平清盛のいる西八条邸を訪れ、俊寛が有する鹿ヶ谷の別荘において後白河法皇・西光らが平家打倒の謀議を行っているとの密告をしたのです(平家物語)。

こんな話を聞かされると、もはや比叡山追討などしている場合ではなくなります。

平清盛は、延暦寺攻撃を中止し、直ちに集めていた兵を鹿ヶ谷に向かわせて西光を捕縛して平清盛の下に連行し、拷問にかけて全容を自供させた後、斬首します。

また、同年6月4日には、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼など陰謀の参加者が一網打尽にされ、それぞれ処分がなされます。

さらに、同年6月5日には天台座主・明雲が配流を解かれ、対する藤原師高は斬殺、藤原師経は六条河原で斬首とされます。

もっとも、平清盛は、あえて首謀者であると考えられる後白河法皇の責任は問わず、平清盛と後白河法皇との関係は、危機的ではありつつも皮一枚だけつながることとなりました(鹿ケ谷の陰謀・1177年6月)。

なお、余談ですが、あまりにもタイミングの良すぎる鹿ヶ谷の陰謀は、比叡山を敵に回したくない平清盛の自作自演ではなかったとの疑惑が拭えません。

治承三年の政変(1179年11月)

その後、治承3年(1179年)6月17日、平清盛の三女であり近衛基実に嫁いでいた盛子が死去します。

この盛子は、11歳時の仁安元年(1166年)に夫であった近衛基実が有していた膨大な荘園を相続し絶大な経済力を有していたのですが(実際には平清盛が管理することにより、実質的に平清盛が摂関家領を手中に収める結果となっていました。)、その死によりこの膨大な荘園を誰が相続するかという問題が起こります。

このとき、平清盛は、盛子の養子である近衛基通に相続させたいと考えていたのですが、後白河法皇は、白河殿倉預かりという名目でその全てを没収してしまったのです。

また、後白河法皇は、同年閏7月29日に死亡した平清盛の嫡男・平重盛の知行地まで没収し、他の家臣に分け与えてしまいます。

後白河法皇にとっては、鹿ケ谷の陰謀の処罰に対する報復だったのかもしれません。

もっとも、こうなると、平清盛としても黙ってはいられません。

平清盛は、同年11月、軍を率いて上洛し、後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉し、その院政を停止させるというクーデターを起こします。

あわせて、反平家の公卿39人の役職を一斉に解雇した上で知行地を没収し、これら全てを平家一門や親平家の公卿に挿げ替えてしまいます。

その結果、平家一門は、知行地は31ヶ国・約500の荘園を有するまでに増大し、突出した力を手に入れます。

安徳天皇即位(1180年4月22日)

並ぶ者がいない力を持った平家は、更なる高みを目指します。次は、いよいよ天皇です。

ときの天皇であった高倉天皇に対して圧力をかけ、治承4年(1180年)4月22日、その第一皇子である言仁親王を安徳天皇として即位させます。

安徳天皇は、高倉天皇と平清盛の娘である徳子との間の子ですので、平清盛は、天皇の外祖父の立場となります。

この結果、外形的には、幼少の安徳天皇を補佐する高倉天皇の院政が始まる形となったのですが、実質的には、平家の傀儡政権が完成することとなったのです。

ここで、「平家にあらずんば人に非ず」と言われるほど、平家の権力は頂点に達し、初めての武家政権が誕生します。

対抗馬となりうる後白河法皇までも平家に幽閉されていますので、もはや平家を止める者は存在しません。やりたい放題です。

もっとも、権力を握って横暴を極める平家に対して、全国各地で多くの反対勢力が生れます。

以仁王の挙兵(1180年5月)

平家独裁政権に対する反乱の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・以仁王の挙兵でした。

以仁王は、後白河法皇の第三皇子だったのですが、平氏政権の圧力で30歳近い壮年でなお親王宣下を受けられずにいました。

もっとも、以仁王は、莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王(後白河法皇の異母妹)の猶子となって皇位へ望みをつないでいました。

ところが,平清盛の孫である安徳天皇が即位したことにより、以仁王の望が断たれます。

そればかりか以仁王の経済基盤である荘園の一部も没収されました。

これにより、以仁王に反平家の憎悪が渦巻きます。

ここに、平家方の武将であった源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家・興福寺・園城寺などが同調し、反平家のために動き出します。

以仁王は、治承4年(1180年)4月9日、源行家に以仁王の令旨を預けて全国に散らばる源氏勢力に協力を求めた上で、ついに反平家の挙兵をします。

もっとも、以仁王の計画はすぐに発覚し、逃亡中に、平家の追っ手により討ち取られます。

こうして反平家の初動を鎮圧した平家でしたが、巨大寺社勢力である園城寺・延暦寺が反平家の動きが見えたため、これらの巨大寺社に挟まれた京の地理的不利を払拭するため、京を放棄する決断を下します。

福原京遷都

福原行幸(1180年6月2日)

そして、平清盛は、治承4年(1180)年5月30日、突然、同年6月3日に摂津国・福原に行幸を決行するとの決定を下します(玉葉・治承4年5月30日条)。

この突然の決定に皇族・公卿らを含めた都の人々は大混乱に陥ったのですが、平清盛は、さらに1日早めた同年6月2日に決行することとします。

そして、同年6月2日、平清盛は、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇、摂政・藤原基通などの多くの公家を引き連れ、福原に向かいます。

そして、一行は福原に到着し、幼少の安徳天皇は平頼盛邸(すぐに平清盛の邸に移っています。)に、高倉上皇は平頼盛の邸(すぐに平頼盛邸に移っています。)に、後白河法皇は平教盛邸に入ります。

もっとも、突然の行幸であったため、随行者の宿所が足りておらず、一部の人々は道路に座り込むありさまであったとされています。

こうして、平清盛の別荘に行宮が置かれることとなります。

和田京計画(1180年6月)

平清盛の主導により、安徳天皇が福原に赴いたとはいえ、このときの移動は突然行われたものであったため、当然新都の造営などなされていません。

それどころか、新都の場所さえ決まっていなかったのです。

そして、ここから平家内で議論が迷走します。

当初、福原の南方に位置する輪田(和田、現在の神戸市兵庫区南部から長田区)に建設する計画が立案されました。

もっとも、同地に平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたところで、土地が狭すぎる(左京の南は五条まで・東は平安京でいえば西洞院大路にあたるあたりまで、右京は宮城の西に小山があり平地がほとんどない)ということが判明し、治承4年(1180年)6月15日に廃案となります。

また、播磨国・印南野(現在の兵庫県南部の稲美町)や摂津国・昆陽野(現在の兵庫県伊丹市)なども候補に挙がりましたが、結局立ち消えとなります(平家物語)。

福原京遷都?

結局、政権中枢からも異論が噴出し、治承4年(1180年)7月中旬、なし崩し的に福原を新都とすることに決まり、道路整備・宅地造成などが始まります。

そして、ここから新都の造営が進んでいき、同年8月10日に皇居の棟上げが行われ、同年11月13日に皇居への遷幸と定められました(平家物語)。

もっとも、幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇が平安京を放棄せず、福原は離宮の扱いであるとして、福原に内裏や八省院は必要ないと判断し、遷都を進める平清盛と意見が対立します。

また、同年8月中旬頃まで、平清盛を筆頭とする遷都強行派と、伝統的な王朝貴族とのあいだで、安徳天皇即位の大嘗会(現大嘗祭)を福原で行うか平安京で行うかが、 厳しく議論されましたが(福原で行う場合は「都は福原」、平安京で行う場合は「都は京」となります。)、同年8月12日に大嘗会が翌年に延期されることとなりましたので遷都か否かの議論も先送りとなりました。

ところが、同年8月17日に伊豆国で源頼朝が、また同年9月には信濃国で木曾義仲が挙兵するなど、全国各地で反平家の挙兵が相次いでいるとの報が届いたため、内裏の新造を進める福原にも混乱が走ります。

そのため、諸寺諸社や貴族達だけでなく、平家政権の中枢からも福原から京に還都するべきとの意見が噴出します。

特に、平清盛の子でありその後継者とされた平宗盛までもが、京への環都を主張し、平清盛と口論になる程でした。

平安京還幸(1180年11月)

こうなると、さすがの平清盛も、自分1人の意見で福原京遷都を維持できなくなり、結局、平安京への還幸を決定します。

そして、治承4年(1180年)11月11日、天皇による新造内裏に行幸、新嘗祭におこなわれる五節舞の挙行を最後にとして(新嘗祭自体は京都で行なわれた)、同年11月23日から平安京還都が始まります。

なお、還幸に際し、高倉上皇は、病気を患っていたこともあり、「わずらわしいことの多かったこの新都に片時も残りとどまる者があろうか」と述べて、急いで福原を発ったと言われています(平家物語)。

平清盛もまた、同年11月29日に福原を引き上げて入京し、二度と福原に戻ることはありませんでした。

こうして、平清盛の遷都計画は僅か6ヶ月足らずで破綻し、福原での都造りは結局未完に終わります。

そのため、結局、福原は遷都だったのか離宮に過ぎなかったのかの議論も決着を見ずに終わることとなりました。

その後の福原

福原焼失(1183年7月25日)

倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで木曾義仲に大敗し、その侵攻を止める力を失った平家は、その棟梁・平宗盛が、平家一門で京を離れる決断をし、安徳天皇と三種の神器のみを奉じて西へ落ち延びていきます(平家都落ち)。

そして、平家一門は、寿永2年(1183年)7月25日、京を発つに際して京の平家屋敷に次々と火を放った後、前内大臣平宗盛、大納言時忠、中納言教盛、新中納言知盛、経盛、清宗、重衡、維盛、資盛、通盛、有盛、師盛、忠房、忠度、教経、業盛などが次々に西に向かって落ちて行きました。

そして、京から西に向かって落ちて行く平家は、途中でかつて都としていた摂津国・福原に立ち寄り、ここにも火を放ってさらに西に向かいます。

福原再建計画(1184年1月)

力を失った平家は、九州にたどり着いたのですが、ここで在地勢力の抵抗にあって九州を追い出されます。

腰を据える場所を見つけられない平家は、柳ヶ浦から海に出て、四国・屋島にたどりつき、ここで勢力を立て直していきます。

その後、平家は、勢力を取り戻すべく東に向かって進軍し、途中、備中国において、後白河法皇の命に従って平家を追ってきた木曾義仲を撃破し勢いをつけます(水島の戦い)。

また、この後、木曾義仲と源頼朝方の源氏同士で争いが起こったため、平家は、その隙をついて間に屋島を本拠地として勢力を整え、寿永3年(1184年)1月には、京奪還のための拠点とすべく大輪田泊に上陸し、福原の再建を進めるまでに至ります。

福原再焼失(1184年2月7日)

もっとも、寿永3年/治承8年(1184年 )2月7日に勃発した一ノ谷の戦いに敗れた平家は、安徳天皇、建礼門院を引き連れて、福原を放棄して屋島へ向かったため、再び福原は消失し失われます。

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