【平家都落ち】大宰府に逃れた平家が再度京を狙うまで

木曾義仲に京を追われた平家は、九州に落ち延びるのですが、そこも追われなんとか讃岐国・屋島にたどり着きます。

屋島で勢力を蓄えて福原に入り、いよいよ京を目指そうというところから源平の戦いのクライマックスに入っていきます。

本稿では、そんなクライマックスの前哨戦となる平家都落ちから水島の戦いまでの流れ、言うなれば一ノ谷の戦いのお膳立てについて見ていきたいと思います。

平家都落ち(1183年7月25日)

倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで木曾義仲に大敗し、その侵攻を止める力を失った平家は、その棟梁・平宗盛が、平家一門で京を離れる決断をします【なお、このときの平家の危機的状況については、別稿の平家滅亡まとめにて地図付きで解説していますので、ご参照下さい。】。

このとき、平宗盛は、権威を失わないようにするため、三種の神器を携え、かつ幼い安徳天皇と後白河法皇を引き込連れて一旦西国に落ち延びることを計画しました。

ところが、平家のこの計画が失敗します。

平家の動きを素早く察知した後白河法皇が、密かに法住寺殿を脱出し、鞍馬経由で比叡山に隠れてしまったからです。

比叡山に籠られてしまうと、僧兵の妨害があるため、後白河法皇を確保できません。

みすみす後白河法皇を取り逃してしまった平家は、やむなく安徳天皇と三種の神器のみを奉じて、京を去ることになります。

いわゆる平家都落ちです。

京を離れる平家一門は、寿永2年(1183年)7月25日、京の平家屋敷に次々と火を放ち、前内大臣平宗盛、大納言時忠、中納言教盛、新中納言知盛、経盛、清宗、重衡、維盛、資盛、通盛、有盛、師盛、忠房、忠度、教経、業盛などが次々に西に向かって落ちて行きました。

落ちて行く平家は、途中でかつての平家の本拠地であった福原に立ち寄り、ここにも火を放ってさらに西に向かいます。

平家一門・大宰府へ(1183年8月26日)

そして、平家一門は、寿永2年(1183年)8月26日、九州にまで行きつき、平重盛(平清盛の長男)の養女を妻とする大宰府での平氏政権・日宋貿易の代行者であった原田種直に宿舎に入ります。

ところが、ここで、平家一門の大宰府到着を知った豊後に下向中の知行国主・藤原頼輔が、後白河法皇の反感を買わないようにするため、子の国守・藤原頼経を通じ、豊後の豪族・緒方三郎惟義(これよし)に平家追討を命じます。

平家一門・屋島へ

緒方三郎惟義が平家追討軍を準備していることを知った平家は、大宰府の原田種直の下を離れて遠賀川河口の山鹿兵藤次秀遠の城に入ったのですがそこも追われたため、豊前国・柳ケ浦(現在の大分県宇佐市)にたどりつきます。

なお、柳ヶ浦に滞在した際に置かれた安徳天皇の仮の御所は、「柳の御所」として現在もその名残が残されています。

もっとも、平家は、その後柳ヶ浦も追われて、平知盛の知行国であった長門国の代官・紀伊刑部太夫道資の大船で海に出ます。

その後、平家一門は船で東に向かい、田口成良(重能・成能)の招きで讃岐国・屋島に入ります。

ここで、田口成良のはからいにより、屋島に板屋の内裏や御所を準備してもらい、ここを平家の本拠地として勢力を立て直していくこととします。

水島の戦い(1183年10月1日)

以上の平家の動きに対し、京の後白河法皇は、平家掃討と木曾義仲の追い出しも兼ねて、木曾義仲に平家討伐を命じます。

これを受けて、木曾義仲は、寿永2年(1183年)9月20日、都を出発して平家の本拠地である屋島方面へ進軍していきます。

木曾義仲の最初の攻略目的は、乙島・柏島です。

当時、淡路・阿波・讃岐には平家に味方する勢力が存在していたため、屋島のある四国に渡るためには、まずは、乙島・柏島から児島に入り、そこから下津井から塩飽(しわく)諸島を経由し讃岐国に上陸する必要があったからです。

木曾義仲は、100艘余の船を準備し、5000人の兵を率いて陣を構えます(正確な布陣場所は不明です。)。

対する平家方は、迎撃軍を準備し、200艘余の船に7千人で乙島・柏島に布陣します。

そして、寿永2年(1183年)閏10月1日早朝、合戦の作法どおり、平家方の軍使が木曾義仲方に赴いて宣戦布告の口上を述べた後、戦が始まります。

同日午前8時頃、沖合い船を出した上で、太陽を瀬にして軍船同士をつなぎ合わせて船上に板を渡すことにより陣を構築し待ち構えていた平家方に対し、木曾義仲方が500艘を一斉に海に出し準備が整います。

一進一退の攻防が続いていたのですが、正午ごろから95%程の金環日食が起きたため、太陽に向けて進んでいた木曾義仲方は明暗の差が大きく暗調応(明暗順応)が遅れて相手を視認できなくなります。他方、太陽を背にしていた平家方は、木曾義仲方より早く順応できました(なお、真偽はわかりませんが、当時平氏は公家として暦を作成する仕事を行っていたことから日食が起こることを予測し戦闘に利用したとも言われています。)。

結果、水島の戦いは、兵数に勝り、海戦に慣れ、天候まで利用した平家の圧勝で終わります。

平家・福原回復(1184年1月)

都落ちした後、流転の旅を続けていた平家は、水島の戦いの勝利により勢いを取り戻していきます。

平家の勝利に感化されて周囲の豪族が平家に協力をし始めたり、また平教経が、備中・淡路・備後・摂津・紀伊・備前の源氏の残党を駆逐して瀬戸内海支配を固めたりしたからです。

そして、勢いづく平家は、京奪還計画をたて、寿永3年(1184年)1月、屋島を本拠として残しつつ、大輪田泊から上陸して、かつての平家の本拠地である摂津国・福原へ進出した上で、京への足掛かりとするために福原を要塞化していきます。

他方、水島の戦いで足利義清・海野幸広・足利義長(義清の弟)・高梨高信・仁科盛家などを失った木曾義仲は、急激に勢力が衰えて後醍醐天皇の信頼を失い、宇治川・瀬田の戦いを経て粟津の戦いで敗死します。

この後、木曾義仲に代わって京に入った源頼朝軍(源範頼・源義経)は、後白河法皇の命に従い、福原に進出した平家討伐に向かうこととなり、一ノ谷の戦いにつながっていきます。

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