【三河一向一揆】家臣団分裂による松平家崩壊の危機と西三河平定

三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、桶狭間の戦いのどさくさにまぎれて西三河に戻った徳川家康(当時の名は松平元康ですが、便宜上本稿では徳川家康で統一します。)が、同地で勢力を高めようとした際に浄土真宗本願寺派の守護不入特権に手を付けたことに反発して起こった一向一揆です。

徳川家康に対して立ち上がった一向衆寺院に、徳川家康(松平家)の譜代家臣までが参加したことから、松平家が敵味方に分かれて戦う大きな危機となった戦いです。

そのため、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並ぶ徳川家康の三大危機の1つとも評されています。 “【三河一向一揆】家臣団分裂による松平家崩壊の危機と西三河平定” の続きを読む

【大高城兵糧入れ】徳川家康の桶狭間の戦い

大高城兵糧入れは、「海道一の弓取り」と言われた今川義元が「尾張のうつけ」と言われた織田信長の奇襲により討ち取られた桶狭間の戦いの際、今川方に属していた松平元康(後の徳川家康)が、今川方の拠点となっていた大高城に兵糧を運び入れた兵站作戦です。

単なる兵糧運搬のように見えますが、鷲津・丸根・正光寺・氷上・向山の各砦によって囲まれた織田軍を突破して足の遅い小荷駄隊を運び入れるという困難な作戦であり、若き日の松平元康の軍才にて成功させた奇跡ともいえる軍功です。

また、この困難な作戦を成功させた功績により桶狭間への参集を免除されて大高城に留まることを許されたため、松平元康が、織田信長に討ち取られることなく一命をとりとめることにつながった作戦でもあります(この作戦に失敗していれば、松平元康は桶狭間へ参集を命じられ、そこで織田信長に討ち取られていた可能性が高く、後に江戸幕府が成立することもなかったと思われます。)

本稿では、マイナーではありつつも、実は大きな歴史的意味を持つ大高城兵糧入れについて、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【大高城兵糧入れ】徳川家康の桶狭間の戦い” の続きを読む

【沖田畷の戦い】島津家久の釣り野伏により龍造寺隆信が討ち取られた合戦

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、天正12年(1584)3月24日に肥前島原半島(現在の長崎県)で発生した戦いです。

戦国時代末期に、九州で覇を唱えた龍造寺軍と島津軍とが激突し、龍造寺軍の大将である龍造寺隆信が討ち取られるという前代未聞の結果で終わった合戦として有名です。

龍造寺家が没落し島津家が九州の覇者となった戦いでもあります。

本稿では、そんな九州の趨勢を決めた世紀の一戦である沖田畷の戦いについて、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【沖田畷の戦い】島津家久の釣り野伏により龍造寺隆信が討ち取られた合戦” の続きを読む

【郡山合戦(吉田郡山城の戦い)】毛利元就が大内軍と共に尼子軍を撃破した戦い

郡山合戦は、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけて安芸国の毛利家の居城であった吉田郡山城付近において勃発した、尼子対大内という二大勢力の覇権を巡る一連の戦いです。

大内家方で主に戦ったのが毛利元就であり、合戦が毛利元就の居城であった吉田郡山城の近くで行われたため、この名が付けられました。なお、尼子軍が吉田郡山城を攻めた事実はありませんので、厳密には吉田郡山「城」の戦いと表記するのは誤りなのですが、一般に吉田郡山城の戦いと呼ばれることが多いので、本稿の表題にもカッコ書で吉田郡山城の戦いと付記しておきました。

この戦いによって、毛利元就の軍略によって尼子家の勢力が安芸国から一掃されることとなり、勢力拡張を続けていた尼子家に待っがかかるというターニングポイントとなった重要な一戦となりました。 “【郡山合戦(吉田郡山城の戦い)】毛利元就が大内軍と共に尼子軍を撃破した戦い” の続きを読む

【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦

久米田の戦い(くめだのたたかい)は、十河一存が死亡したことを好機と見た畠山高政が岸和田城を包囲するために出陣し、これに対応するために派遣された三好実休軍との間で、永禄5年(1562年)3月5日に発生した合戦です。

戦いは、和泉国八木郷の久米田寺周辺にある貝吹山古墳(現大阪府岸和田市)に布陣した三好実休軍に対して、畠山高政軍が攻撃をしかけたことによって始まり、畠山高政軍の奇襲により三好実休が討ち取られて三好軍が敗北するという形で終わっています。

三好政権を支える三好実休が死亡したことにより、三好長慶政権が凋落するきっかけとなった原因の一つともいわれる合戦でもあります。

本稿では、そんな三好政権の転換点となった久米田の戦いについて、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦” の続きを読む

【島津の退き口】捨て奸を駆使した前進敵中突破による撤退戦

島津の退き口(しまずののきぐち)は、慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ケ原合戦で、島津義弘が味方した西軍が敗れ総崩れとなる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊が、突然行った敵中突破による前進退却です。

戦場からの退却は、通常、敵の最も少ない場所を狙って行われるものなのですが、島津の退き口では、敵が最も多い徳川家康本陣に向かって突撃する形で始まるという極めて異質な作戦でした。

しかも、多大な犠牲を払いながらも大将の島津義弘を薩摩に帰国させることに成功したこと、その途中で「捨て奸(すてがまり)」や「座禅陣」と呼ばれる足止め隊の活躍があったことなどから、現在にまで語り継がれる退却劇となっています。

本稿では、世に名高い「島津の退き口」について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【島津の退き口】捨て奸を駆使した前進敵中突破による撤退戦” の続きを読む

【石垣原の戦い】黒田官兵衛が天下取りの野望を見せた九州の関ヶ原

石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日、豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で勃発した黒田如水(黒田官兵衛)軍と大友義統(吉統)軍の合戦です。

同年9月15日に美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で行われた関ヶ原の戦いの前哨戦として九州で勃発したため、「九州の関ヶ原」とも呼ばれます。

本稿では、黒田家大躍進のきっかけとなった石垣原の戦いについて、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【石垣原の戦い】黒田官兵衛が天下取りの野望を見せた九州の関ヶ原” の続きを読む

【海ノ口城の戦い】300人の奇襲で城を乗っ取った武田信玄の初陣

海ノ口城の戦い(うんのくちじょうのたたかい・うみのくちじょうのたたかい)は、後に戦国最強とうたわれた武田信玄の初陣である奇襲戦です。

父・武田信虎が8000人の兵で36日間かけて落とせなかった城を、武田信玄が300人の兵をもって僅か一夜で攻略するという、武田信玄の軍才を余すところなく見せつけ戦いなのですが、実は甲陽軍鑑以外の当時の資料に記録がありません。

言うまでもなく甲陽軍鑑は、武田信玄を英雄化して盛に盛った記載がなされているため、資料としての信用性が高くないため、海ノ口城の戦いでの奇襲戦や、敵将・平賀玄信の存在は、架空のものであるとする説も有力です。

もっとも、話としては有名ですので、本稿では、伝えられている範囲において、武田信玄の初陣である海ノ口城について、その発生に至る経緯から説明したいと思います。 “【海ノ口城の戦い】300人の奇襲で城を乗っ取った武田信玄の初陣” の続きを読む

【摺上原の戦い】伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦い

摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、天正17年(1589年)6月5日に、磐梯山裾野に位置する摺上原で行われた、伊達政宗軍と蘆名義広軍との合戦です。

敗北した戦国大名・蘆名家が滅亡し、勝利した伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦いであります。 “【摺上原の戦い】伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦い” の続きを読む

【浅井畷の戦い】織田家重臣2世の間で勃発した北陸の関ヶ原

浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、慶長5年(1600年)8月9日に起こった北陸地方における前田利長(東軍・前田利家の子)と丹羽長重(西軍・丹羽長秀の子)の戦いです。

慶長5年(1600年)9月15日に美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で行われた関ヶ原の戦いの前哨戦として北陸で勃発したため、「北陸の関ヶ原」とも言われます。

局地戦として発生した戦いは、3000人の丹羽長重軍(西軍)が、2万5000人の前田利長軍(東軍)を破るという戦術的勝利に終わったのですが、その後の関ヶ原の本戦の結果により違った結論となっています。 “【浅井畷の戦い】織田家重臣2世の間で勃発した北陸の関ヶ原” の続きを読む