【恭仁京】奈良時代に数年間だけ存在した山背国の都

恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の天平12年(740年)から僅かの間だけ山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に置かれた日本の都です。

正式名称は、「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」といいます。

恭仁京は、天然痘流行や藤原博嗣の乱により平城京が穢れたと考えた聖武天皇が、霊力を取り戻すためにかつて壬申の乱の際に天武天皇が辿ったルートを行幸し、そこで得た霊力を基に仏教を基にした新たな時代を造ろうとした野心的な都でした。

もっとも、恭仁京遷都後も、難波宮や紫香楽宮(甲賀宮)への遷都を試みるなどして人臣の信頼を失い、最終的には平城京に戻されることで遷都計画が失敗に終わりました。なお、この間の聖武天皇の動きは、彷徨五年と呼ばれ、複数回の遷都の理由についても謎が多い面白い行動でもあります。

 

本稿では、聖武天皇の発案により遷都された恭仁京(またそのうちの恭仁宮)について、遷都に至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【恭仁京】奈良時代に数年間だけ存在した山背国の都” の続きを読む

【桓武天皇柏原陵】明治初期に再建された平安時代最初の天皇陵

桓武天皇柏原陵(かんむてんのうかしわばらのみささぎ)は、京都市伏見区桃山町永井久太郎に存在する桓武天皇(在位:天応元年/781年4月3日~延暦25年/806年3月17日)を祀った古墳です。

宮内庁により「柏原陵(かしわばらのみささぎ)」として第50代桓武天皇陵に治定されているのですが、現在の陵墓は様々な考証の結果、明治時代に治定されたものに過ぎず、その正式な場所は必ずしも明らかではありません。

その理由は、かつて伏見山中に仁徳陵よりも大規模であったと記録されているのですが、鎌倉時代・室町時代までに所在不明となり、さらに豊臣秀吉により一帯に伏見城が築城された際に陵も破壊されてしまったためです。

本稿では、桓武天皇陵が現在の場所に定まり祀られるに至った経緯について簡単に説明していきたいと思います。 “【桓武天皇柏原陵】明治初期に再建された平安時代最初の天皇陵” の続きを読む

【伏見宿】東海道五十七次の54番目の宿場町

伏見宿(ふしみじゅく) は、57次に延伸された東海道の54番目の宿場町です。古くから発展していた京南方の港湾都市であったのですが、隠居地として伏見に入った豊臣秀吉の手により大改修がなされ、さらにその後に徳川家康により更なる整備がなされた後、元和5年(1619年)に東海道の宿場町として指定されました。

京と大坂の間に位置する水陸交通の要衝地として大発展をした東海道最大級の大都市だったのですが、鳥羽伏見の戦いの戦火によりその大部分が焼失してしまったため、ほとんど遺構が残されていないのが残念です。 “【伏見宿】東海道五十七次の54番目の宿場町” の続きを読む

【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、現在の男山山頂(京都府八幡市八幡高坊30)に位置する八幡大神(誉田別命=応神天皇・比咩大神=宗像三女神・息長帯姫命=神功皇后)を祀る神社です。

かつては八幡宮寺とも言われて神仏習合の霊地とされ、伊勢神宮(天照大神)に次ぐ国家第二の宗廟とされていました。

第56代天皇である清和天皇の健康を祈願して平安京の裏鬼門(南西)の方角に創建された神社であるために清和天皇の子孫(清和源氏)の氏神となったのですが、後に清和源氏(源頼朝・足利尊氏)が武士になって武家政権を開くなど隆盛を極めるに至ったことから、信仰対象となっていた石清水八幡宮が武神として扱われるようになりました。

男山山頂から山麓に至る一帯が境内となっているところ、宇治川・桂川・木津川の合流点近くにあり、淀川を挟んで山崎天王山と相対するという交通・軍事の要衝地にあったため、実質的な意味でも京防衛の拠点と位置付けられました。 “【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史” の続きを読む

【橋本遊郭】明治時代に再興された京都南端の遊郭街

橋本遊廓(はしもとゆうかく)は、明治10年(1877年)ころから昭和33年(1958年)ころまでの間、京都府綴喜郡八幡町字橋本(現・八幡市)に存在した遊廓です。

昭和5年(1930年)に刊行された「全国遊廓案内』」では八幡町遊廓という名が付されていました。

京街道・渡し舟・石清水八幡宮・京阪電車の各利用客により繁盛した橋本遊郭でしたが、昭和33年(1958年)の売春防止法施行により公娼制度が廃止されたことにより消滅し、現在に至っています。

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【琵琶湖疏水の扁額一覧】疏水工事関与者・明治元勲の揮毫

明治維新後の東京奠都に伴って人口が激減した京の復興策として行われた巨大プロジェクトが琵琶湖疏水です。

明治22年(1889年)に水運・灌漑・上水道・水車動力の源泉として第1疏水が完成して京の復興に大きく寄与し、その後、この大成功を受けて延伸工事や第2疏水工事などが進められていきました。

これらの琵琶湖疏水が京経済に寄与した功績を讃え、疏水流域には、疏水工事関与者・当時の元勲によって書かれたありがたいお言葉が扁額として掲げられることとなりました。

現在では、疎水流域が散歩道となっていますので、歩きながら、また第1疏水を運行する観光船に乗りながらこれらの扁額を見ることができますので、以下、観光の一助として琵琶湖疏水の簡単な歴史と掲げられている扁額の位置及びその内容を紹介したいと思います。 “【琵琶湖疏水の扁額一覧】疏水工事関与者・明治元勲の揮毫” の続きを読む

【蹴上インクライン】舟、山に登るの奇観と言われた傾斜鉄道

蹴上インクライン(けあげインクライン)は、かつて琵琶湖疏水におけるよる舟運ルートの一区間を担っていた傾斜鉄道です。

明治維新後の東京奠都により衰退した京都の活力を取り戻すために、大津と京都を結ぶ琵琶湖疏水事業が行われたのですが、琵琶湖疏水が基本的にはほとんど水位差がない平坦な水路であったために舟運用水路としても利用されることとなりました。

もっとも、水路区間中で、蹴上船溜から南禅船溜までの区間のみ長さ約640mで約36mもの水位差が発生しており、ここが水運のネックとなりました。

この36mの高低差を船が行き来できるよう、明治24年(1891年)、船を台車に乗せてケーブルカーの原理で傾斜路を上下させる構造にて敷設されたのが蹴上インクライン(傾斜鉄道)です。 “【蹴上インクライン】舟、山に登るの奇観と言われた傾斜鉄道” の続きを読む

【豊国廟】563段の石段の先にある豊臣秀吉の墓

豊国廟(ほうこくびょう)は、豊国神社の境外地となった京都市東山区今熊野北日吉町にある豊臣秀吉のお墓です。

麓から563段の石段を登った阿弥陀ヶ峰の山頂に建てられた石造五輪塔として祀られています。

後の天下人となった徳川家康が久能山(後に日光)に葬られたことと比較すると、一見、質素かつマイナーであるかのように感じますが、その理由は、徳川家康が豊臣家滅亡後に行った豊臣家の痕跡抹消政策によるものです。

本稿では、豊臣家と徳川家の勢力争いをからめつつ豊臣秀吉の墓である豊国廟について簡単に説明したいと思います。 “【豊国廟】563段の石段の先にある豊臣秀吉の墓” の続きを読む

【天智天皇山科陵(御廟野古墳)】なぜか山科に存する天智天皇陵

天智天皇山科陵(御廟野古墳)は、京都市山科区に存在する天智天皇(在位668〜671年)を祀った古墳です。

山科盆地北辺の南向きの傾斜面に位置した八角墳であり、宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇陵に治定されています。

数多く存在する京都市内の天皇陵の中で最も古い陵としても有名です。

もっとも、実は天智天皇は、生前に山科の地には縁もゆかりもなく、なぜ山科の地に陵があるのかについて様々な説があります。 “【天智天皇山科陵(御廟野古墳)】なぜか山科に存する天智天皇陵” の続きを読む

【御土居】豊臣秀吉が築いた京を囲む土塁

 

御土居(おどい)は、豊臣秀吉によって作られた京の町を囲む惣構え構造の土塁です。土塁に沿って掘られた堀とあわせて御土居堀とも呼ばれます。

御土居は、聚楽第・方広寺・寺町建造、天正の地割など豊臣秀吉による一連の京改造事業の1つとして建造されました。

目的としては京防衛のためであったと考えられるのですが、防衛設備としては不十分なものであり、現在でもその設置目的については様々な議論がなされています。

なお、現在も御土居の遺構が一部現存し、国の史跡に指定されています。

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