源仲章(みなもとのなかあきら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期に、廷臣兼御家人として活躍した武家貴族です。
突出した才能があったわけではないですが、源実朝の教育係を務め、その豊富な知識から重用された人物です。
阿野全成の子である阿野頼全の誅殺に関与するなどいくつかの歴史的事件に関与しているのですが、なによりも源実朝暗殺の際に北条義時と間違われて殺された人物とし有名です。 “【源仲章】北条義時と間違えて殺害された宇多源氏” の続きを読む
日本の歴史をできる限りをわかりやすく
源仲章(みなもとのなかあきら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期に、廷臣兼御家人として活躍した武家貴族です。
突出した才能があったわけではないですが、源実朝の教育係を務め、その豊富な知識から重用された人物です。
阿野全成の子である阿野頼全の誅殺に関与するなどいくつかの歴史的事件に関与しているのですが、なによりも源実朝暗殺の際に北条義時と間違われて殺された人物とし有名です。 “【源仲章】北条義時と間違えて殺害された宇多源氏” の続きを読む
鳥羽天皇(とばてんのう)は、子である崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の治世28年に亘って院政を敷いた人物です。
若い頃は、白河法皇の権力維持の駒として使われ苦労するも、その崩御後にその立場にとって代わるという見事な政治劇により権力を手にした希代の政治家でもありました。
本稿では、政治闘争を勝ち抜き、一大権力を手にした鳥羽天皇(上皇・法皇)の生涯について見ていきたいと思います。 “【第74代・鳥羽天皇】白河法皇の後に28年間院政を敷いた希代の政治家” の続きを読む
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近衛天皇(近衞天皇・このえてんのう)は、院政を敷いて絶大な権力を手にしていた鳥羽上皇の第9皇子として生まれました。
鳥羽上皇の傀儡として物心つく前に天皇に即位させられ、即位後も実父である鳥羽上皇と、養父兼系図上の兄である崇徳上皇の権力闘争の駒として使われた悲しき天皇です。
幼い頃から政争の真っ只中でストレスに晒され続けまた元々体も弱かったこともあって宝算17歳の若さで崩御されました。
本稿では、そんな悲しい人生を歩んだ近衛天皇の生涯について振り返ってみたいと思います。 “【第76代・近衛天皇】鳥羽上皇と崇徳天皇の政争の道具にされた天皇” の続きを読む
崇徳天皇(すとくてんのう)は、鳥羽上皇の中宮であった藤原璋子(待賢門院)が、白河上皇との不貞行為の結果として産まれた複雑な血縁関係を持つ天皇です。
系図的には自分の子でありながら妻の不倫相手(白河上皇)の子であるということから、崇徳天皇は、系図上の父である鳥羽天皇から徹底的に嫌われて育ちます。
この環境は崇徳天皇が成長した後も変化はありませんでした。
この争いは、譲位して崇徳上皇となってからも続き、崇徳上皇と鳥羽上皇(及び後を継いだ後白河天皇)との争いは、朝廷を二分する大戦となった保元の乱を誘発しました。
保元の乱に敗れた崇徳上皇は、失意のうちに讃岐国に流され、同地において苦難を受け続けて死んだ恨みから怨霊となったとも言われています。
本稿では、苦難の歴史を歩んだ崇徳天皇の人生について見ていきたいと思います。 “【第75代・崇徳天皇】保元の乱に敗れて流され怨霊となった悲劇の帝” の続きを読む
結城朝光(ゆうきともみつ)は、源頼朝が平家打倒の挙兵をした際に母が源頼朝の乳母であったという縁から父と共に挙兵に参加し、そのときに源頼朝を烏帽子親として一字を貰って元服した御家人です。
その後、源頼朝の寝所祗候衆の1人に選ばれたり、三男ながら分家して下総国結城郡の地頭職に任命されて結城家を興こしたりするなど、源頼朝の余りの寵愛を受けたことから、源頼朝の落胤説まである人物です。
弓の達人でもあり和歌にも造詣が深いなど文武両道の人物であったにもかかわらず、自ら率先して政治の表舞台に出る事は無かったことから鎌倉幕府内での粛清劇にさらされることなく北条家から厚遇され、穏やかにその生涯を終えています。 “【結城朝光(小山朝光)】梶原景時の変の契機となった源頼朝寵愛御家人” の続きを読む
北条時房(ほうじょうときふさ)は、北条時政の三男として生まれ、鎌倉時代の初期に活躍した御家人です。
兄である北条義時と姉である北条政子を支えてその生前には初代六波羅探題となり、北条義時の死後には、その子である北条泰時と共に執権(その後は、鎌倉幕府初代連署)に就任して鎌倉幕府政治の中枢を担っています。
もっとも、実質上の鎌倉幕府のトップとなった若き甥・北条泰時と、ナンバー2となった長老の叔父・北条時房との関係は、ときには協力しつつもときには対立するという微妙な関係となったため、一部軋轢を生む原因ともなっていました。
本稿では、北条義時の頼れる弟であり、北条泰時の目の上のたんこぶでもあった北条時房の人生について見ていきたいと思います。 “【北条時房】北条義時の頼れる弟であり北条泰時の目の上のたんこぶであった鎌倉幕府初代連署” の続きを読む

公暁(こうぎょう/こうきょう )は、第2代鎌倉殿の次男かつ嫡男として生まれ、順当に行けば第3代鎌倉殿として鎌倉幕府を統べるはずの立場にあったはずの人物です。
ところが、有力御家人間の政争に巻き込まれて若くして父・源頼家が謀殺されると、北条家の邪魔になったとして出家させられ、本来の仇であるはずの北条家ではなくその傀儡であった源実朝への恨みを募らせていきます。
そして、仇討ちの機会を得た公暁は、満を持して源実朝暗殺を実行したのですが、その責めを負って討ち取られ、20歳という若さでその生涯を終えています。 “【公暁】源実朝を暗殺した源頼家の次男” の続きを読む

竹御所(たけのごしょ)は、第2代鎌倉殿であった源頼家の長女です。
北条家による鎌倉幕府乗っ取り行為により、父・兄弟を次々と殺された悲しい女性です。
親族が失われていったため、祖母の北条政子に育てられ、その器量と血筋から、北条政子亡き後を継いで第2代尼将軍とまで言われた才女でもあります。
源氏の血統を絶やさないようにするために超高齢出産に挑み、最期は力尽きて激動の生涯を終えています。
本稿では、そんな波瀾万丈の人生を送った竹御所の生涯を見ていきたいと思います。 “【竹御所】第2代尼将軍と言われた源頼家の長女” の続きを読む
中川清秀(なかがわきよひで)は、摂津国の小豪族からその武勇によって中川家を12万石の大名に押し上げた戦国武将です。
勇猛で知られた中川清秀は、鬼瀬兵衛と呼ばれて恐れられ、織田信長や羽柴秀吉からも重宝されています。
池田勝正・荒木村重・織田信長・羽柴秀吉など、次々と主君を変えながらその腕で立身出世を果たし、また本能寺の変の直後には明智光秀の誘いを断って羽柴秀吉に与するなど、機を見る目も秀逸です。
そんな猛将・中川清秀も、賤ヶ岳の戦いにおいて、さらなる猛将・佐久間盛政の手に掛かって討ち死にするという最期を迎えています。
本稿では、そんな波乱万丈の人生を生きた中川清秀の人生を振り返っていきたいと思います。 “【中川清秀】茨木城12万石の戦国武将” の続きを読む
岡田以蔵(おかだいぞう)は、天誅と称して幕末の京で幕府方の要人を斬りまくった土佐藩郷士です。
武市瑞山(半平太)の命に従い、多くの暗殺を行ったことから、同時期には「天誅の名人」と呼ばれ、後世では「人斬り以蔵」と称されて「幕末の四大人斬り」の1人にも数えられています。
もっとも、最後には兄貴分と慕う武市半平太に見捨てられ、同志たちにも軽蔑されながら斬首刑に処せられるという悲しい生涯を終えた人物でもあります。
本稿では、そんな悲しき人斬り・岡田以蔵の生涯について見ていきたいと思います。 “【岡田以蔵】武市半平太に従って天誅を繰り返した幕末四大人斬りの1人「人斬り以蔵」” の続きを読む