【佐久間象山】吉田松陰らを育てた幕末最高の洋学者

佐久間象山(さくましょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期に洋学の第一人者として活躍した松代藩士です。

幕末の動乱期に大砲鋳造などの数々の多大な業績を残してただけでなく、吉田松陰、勝海舟、河井継之助、橋本左内、小林虎三郎、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬、坂本龍馬、北沢正誠などの後の日本を担う人材を育てた大人物です。

もっとも、自信過剰で傲慢な性格であったために評判は芳しくなく、数々の多大な業績を残したにもかかわらず現在に至るまで、過小評価がなされているのが残念です。

そこで、本稿では、意外と知られていない傑物・佐久間象山について簡単に解説したいと思います。

佐久間象山の出自

出生(1811年2月28日)

佐久間象山は、文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士であった佐久間国善(当時50歳)の長男として、母・まん(足軽・荒井六兵衛の娘、当時31歳)との間に生まれます。幼名は、詩経の「東に啓明あり」から啓之助と名づけられました。

佐久間家は、五両五人扶持(70石相当)の小家だったのですが、父・佐久間国善が卜伝流の剣の達人であり、藩主の側祐筆を務める易学をもって知られていたため、松代藩では重用されていた人物でした。

また、母のまんは、佐久間国善の妾だったのですが、養子続きであった佐久間家に待望の男児を産んだために喜ばれました。

元服

佐久間象山は、5尺7寸から8寸(約175㎝)くらいの長身で筋骨逞しく肉付きも豊かな成長します。

その顔の特徴は、顔が長くて額は広く、二重瞼で眼は少し窪く瞳が輝いており、その様子から子供のころはテテツポウ(松代方言にいう梟の意味)と言われていたそうです。

成長した佐久間象山は、郷里の大先輩で藩儒を務めた窪田岩右衛門馬陵恒久を烏帽子親として元服します。

そして、文政7年(1824年)、松代藩主に仕える儒学者であった竹内錫命に入門して詩文を学び、また文政9年(1826年)、佐藤一斎の門下生であった鎌原桐山に入門して経書を学びます。

また、同年、藩士の町田源左衛門正喜から会田流の和算を、水練を河野左盛から学びます。

家督相続(1828年)

文政11年(1828年)に佐久間家の家督を継ぎ、天保2年(1831年)3月には藩主・真田幸貫の世子である真田幸良の近習・教育係に抜擢されます。

藩主・真田幸貫は、性格を癇が強いとしつつも佐久間象山の才能を高く評価していたことによる人事だったのですが(佐久間象山は、20歳の時に漢文100篇を作って鎌原桐山に提出すると、真田幸貫から学業勉励であるとして銀3枚を下賜されています。)、佐久間象山は、高齢の父に対して孝養ができないとの理由で同年5月に辞任しています。

その後、佐久間象山は、天保3年(1832年)3月、藩内で武芸大会が行われることとなった際、佐久間国善の門弟名簿を藩に提出したところ序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けたにもかかわらず、佐久間象山は絶対に誤りなしとして自説を曲げなかったため、長者に対する不遜であるとして藩主・真田幸貫の逆鱗に触れ、同年4月11日、藩老に対する不遜な態度があったとして真田幸貫から謹慎を命じられるという事件を起こします。

なお、この後、父・佐久間国善の病が重くなったため、同年8月17日、佐久間象山は赦免の沙汰を受けています(佐久間国善は、その僅か5日後に死去しています。)。

儒学・朱子学を修める

江戸遊学(1833年11月)

佐久間象山は、天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者であった林家塾の塾頭(後に昌平坂学問所教官)・佐藤一斎の門人となり詩文・朱子学を学びます。

佐久間象山の能力は極めて高く、すぐに山田方谷とあわせて「佐門の二傑」と称されるに至ります。

松代藩帰藩(1836年ころ)

もっとも、朱子学者であった佐久間象山にとっては、朱子学よりも陽明学を信奉していた佐藤一斎に不信感があったため、

佐久間象山は佐藤一斎から経書講義を受けることを拒むようになり、主として中国の韻文を学んだ後、帰藩して藩の子弟に経書や漢学を教え始めます。

なお、この頃に、名を修理、号を象山に改めています。なお、佐久間象山が、生前どう呼ばれていたのか未だに定まっておらず、当時も現在と同じように「しょうざん」とも「ぞうざん」とも呼ばれていだのではないかと考えられています。

再び江戸へ(1839年)

その後、佐久間象山は、天保10年(1839年)に再び江戸に出て、神田於玉ヶ池にて私塾「象山書院」を創立し、儒学を教え始めます。

蘭学を修める

海防八策を上書(1842年)

天保13年(1842年)に象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられると、佐久間象山は、その見識の高さを買われて顧問に抜擢されます。

抜擢人事を受けた佐久間象山は、アヘン戦争下の清・イギリスなどこ海外情勢を研究することとなり、軍艦や砲台の製造や士官養成の必要性などを盛り込んだ建白書『海防八策』を上書します。

このときの調査を契機として、佐久間象山は、儒学の限界を痛感します。

そこで、佐久間象山は、この後の弘化元年(1844)ころからオランダ語・自然科学・医学・兵学など、西洋の技術を学び始めるようになります。

西洋砲術・兵学を学ぶ

この佐久間象山の取り組みを耳にした藩主・真田幸貫は、佐久間象山に洋学研究を命じ、その結果、佐久間象山は、私塾「象山書院」を閉じて、江川英龍の下で兵学を学ぶことになりました。

もっとも、江川英龍は、洋式砲術の教授について、旧来の「伝授」「秘伝」という教育方法をとっていたため、佐久間象山がこれを短期間で習得することは困難でした。

そこで、佐久間象山は、意を汲んだ同じ高島流の下曽根信敦から文書を借り独自の学習を進めます。

そして、真理に忠実であろうとする佐久間象山は、自分が書物から学んだことは、公開を基本としました。

こうして、西洋砲術を修めていった佐久間象山は、ついに自ら大砲を鋳造することに成功し、西洋砲術家としての名声を轟かします。

また、学んだ蘭学を基に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、さらには牛痘種の導入も企図するなどしています。

なお、余談ですが、佐久間象山は、自信家の佐久間象山は、自らを国家の財産と考え、門弟の坂本龍馬に自分の血を継いだ子供は必ず大成するので、子供をたくさん生める大きな尻の女を紹介してほしいと頼んでいた程の女好きであったようで、嘉永元年(1848年)11月11日には妾・お蝶との間に長男・三浦啓之助を儲けています。

もっとも、佐久間象山の子で唯一成人した息子の三浦啓之助は、父親譲りの傲慢な性格な上に素行が悪く、佐久間象山の考えるような人物にはなりませんでした。

五月塾を開塾(1851年)

佐久間象山は、嘉永4年(1851年)、海防の問題を深め、西洋兵学・砲術を教授するため、木挽町五丁目付近に「五月塾」を開きます。

五月塾は二十坪程度の規模でしたが、佐久間象山の名声から多くの門人が入門し、常時30~40が学んでいたと言われ、その中には、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、河井継之助、山本覚馬らの俊才が集ってきます。

なお、大砲鋳造に成功した佐久間象山は、同年、松前藩からの依頼で江戸にて鋳造した洋式大砲の演習を行います。

ところが、このときは砲身が爆発して大砲が全壊したため、観衆から大笑いされ、立ち会っていた松前藩の役人から鋳造費用が無駄になったと責め立てられてしまった佐久間象山は、失敗するから成功があると述べて平然としていたそうです。

なお、佐久間象山は、嘉永5年(1852年)、勝海舟の妹・順と結婚しています。

松代藩軍議役任命(1583年6月)

嘉永6年(1853)6月、マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船4隻が、日本に来航して江戸湾入り口の浦賀沖に停泊すると、佐久間象山は、松代藩の軍議役に任ぜられ、同年6月4日に浦賀を訪れています。

なお、このとき、巨大な蒸気船を見て西欧列強との国力の差を痛感した佐久間象山は、同地で門人の吉田松陰・津田真道らと和戦の得失を論議し、吉田松陰に対して国禁を破ってアメリカに行くことを勧めています。

また、佐久間象山自身も、陸軍砲兵隊の充実と人材の登用や諸藩の動員を説いた「急務十条」が作成し、老中阿部正弘に提出しています。

佐久間象山失脚(1854年3月)

嘉永7年(1854年)3月、吉田松陰が、佐久間象山に勧めに従って海外密航を決行したもののペリーの拒絶にあって失敗するという事件を起こします。

これにより、国禁を破った吉田松陰はもちろん、佐久間象山もまた連座して伝馬町牢屋敷に入獄させられます。

その後、佐久間象山は、私塾「五月塾」を閉塾した上で故郷の松代に戻って蟄居させられることとなり、文久2年(1862年)までの9年間に亘って政治活動を制限されます。

もっとも、松代に戻った佐久間象山は、軍事技術を中心とした西洋研究に没頭し、単純な攘夷思想から脱却して積極的開国論に転じ、内憂外患を克服するための方策として公武合体を訴えていくようになります。

佐久間象山の最期

佐久間象山上洛(1864年3月)

元治元年(1864年)3月、佐久間象山は、江戸幕府の命令により上洛し、一橋慶喜に公武合体論と開国論を説きます。

その後、同年5月、木屋町通御池下る東側に、人生最後の居を構えます。

このころの京は、前年の八月十八日政変によって京から追放された長州藩が勢力の挽回を図って率兵上京を計画し、またこれに対して幕府・会津藩・薩摩藩が蜂起しているという不安定極まりない時期でした。

そのため、このころの京は、尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点として真偽不明の流言が飛び交う危険地帯となっていました。

佐久間象山暗殺(1864年7月11日)

そのため、当時「西洋かぶれ」という印象を持たれていた佐久間象山には危険な地でした。

ところが、佐久間象山は、そんな危険地帯の京においても、その移動に際して供を連れないなど、危機意識皆無の行動をとり続けます。

そして、元治元年(1864年)7月11日夕刻、山階宮家から帰途についた際、途中の三条木屋町で河上彦斎、前田伊右衛門らに襲われ暗殺されます。享年54歳でした。

なお、佐久間象山を暗殺した幕末の四大人斬りの一人・河上彦斎は、後に佐久間象山の事歴を知って愕然とし、日本の将来に有用な人物を葬ってしまった反省から、以後暗殺を辞めてしまったと言われています。

その後

大正2年(1913年)に象山殉難五十年祭があって神社建立の機運が盛り上がり、また同年、佐久間象山宅跡が埴科郡松代町(当時)に寄付されたことをきっかけとして、神社創建の動きが始まります。

そして、昭和13年(1938年)11月3日、佐久間象山の生家の隣に佐久間象山を祭神とする象山神社が創建されています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。