【京極高次】お家取り潰し危機から一発逆転し若狭小浜藩主となった蛍大名

京極高次(きょうごくたかつぐ)は、京極家と言うエリートの家に生まれながら、家臣筋に囲われた後、織田信長の下に人質として送られるという辛酸をなめながら育った人物です。

その後,負け組となる明智光秀や柴田勝家に与するという命の危機を乗り越え,妹・竜子や妻・初の後ろ盾もあって出世を重ね(そのため,女の尻によって出世したとして蛍大名と揶揄されます。)、大津城籠城戦の武功から遂には若狭国一国を得る大大名にまで成り上がり、若狭国小浜藩の初代藩主となります。

本稿では、そんな波乱万丈の人生を生きた京極高次の生涯について見ていきたいと思います。 “【京極高次】お家取り潰し危機から一発逆転し若狭小浜藩主となった蛍大名” の続きを読む

【細川藤孝(細川幽斎)】幕臣ながら三英傑に下り細川家を躍進させたチート武将

細川藤孝/細川幽斎(ほそかわふじたか/ほそかわゆうさい)は、足利将軍家に仕える幕臣だったのですが、後に足利義昭を見限って織田信長に下り、大名となった武将です。

途中で、明智光秀と立場が入れ変わる辛い経験もし、家を残す苦しい選択を繰り返して戦国大名として成り上がって豊前国小倉藩の礎となった武将ですが、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学を大成させた一流の文化人でもありました。 “【細川藤孝(細川幽斎)】幕臣ながら三英傑に下り細川家を躍進させたチート武将” の続きを読む

【三浦義澄】創生期から鎌倉幕府を支えた宿老

三浦義澄(みうらよしずみ)は、源義朝の代から源氏に仕え、源頼朝挙兵後は、直ちに合流を図って協力をするなど、創生期から鎌倉幕府を支えた宿老です。

源頼朝亡き後は、2代将軍源頼家に仕えるも、13人の合議制に名を連ねて、将軍権力の抑制に協力しています。

13人の合議制が破綻した後、鎌倉幕府御家人間の権力闘争の始まりの時期に死亡したため、ある意味鎌倉幕府の上り調子の時期だけを見た幸せな人生だったのかもしれません。 “【三浦義澄】創生期から鎌倉幕府を支えた宿老” の続きを読む

【仁田忠常】北条時政に疑われ粛清された鎌倉幕府御家人

仁田忠常(にったただつね)は、反平家の挙兵をした際から源頼朝に付き従った最古参の御家人です。

古い付き合いということもあって源頼朝の信頼も厚く、鎌倉幕府2代将軍の源頼家に嫡男・一幡が生まれるとその乳母父となるほどでした。

鎌倉幕府内で北条氏が力を持った後は、北条氏に従って行動していたのですが、謀反の疑いをかけられて悲しい最期を遂げています。 “【仁田忠常】北条時政に疑われ粛清された鎌倉幕府御家人” の続きを読む

【織田信孝】羽柴秀吉に屈して切腹した織田信長の三男

織田信孝(おだのぶたか)は、織田信長の三男として生まれ、庶子でありながら織田信長に愛され重用された武将です。

武将として有能であり人柄もよかったために織田家中の評判も良かったようですが、母の家柄の悪さから織田信長・織田信忠死亡後に織田家を継ぐに至らず、台頭してきた羽柴秀吉に屈して非業の死を遂げた人物でもあります。

無念から自らの贓物をぶちまけて死んだなどという壮絶なエピソードも残っています。

本稿では、そんな無念の武将・織田信孝について見ていきたいと思います。

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織田信孝(おだのぶたか)は、織田信長の三男として生まれ、庶子でありながら織田信長に愛され重用された武将です。

武将として有能であり人柄もよかったために織田家中の評判も良かったようですが、母の家柄の悪さから織田信長・織田信忠死亡後に織田家を継ぐに至らず、台頭してきた羽柴秀吉に屈して非業の死を遂げた人物でもあります。

無念から自らの贓物をぶちまけて死んだなどという壮絶なエピソードも残っています。

本稿では、そんな無念の武将・織田信孝について見ていきたいと思います。

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織田信孝(おだのぶたか)は、織田信長の三男として生まれ、庶子でありながら織田信長に愛され重用された武将です。

武将として有能であり人柄もよかったために織田家中の評判も良かったようですが、母の家柄の悪さから織田信長・織田信忠死亡後に織田家を継ぐに至らず、台頭してきた羽柴秀吉に屈して非業の死を遂げた人物でもあります。

無念から自らの贓物をぶちまけて死んだなどという壮絶なエピソードも残っています。

本稿では、そんな無念の武将・織田信孝について見ていきたいと思います。

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【武田信義】源頼朝・木曾義仲に並ぶもう1人の源氏棟梁

武田信義(たけだのぶよし)の名を聞いたことがありますか

武田信義は、八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光の曾孫という源頼朝・木曾義仲に並ぶ源氏の棟梁の血筋にありながら、源頼朝による巧みな一族切り崩し策にはまり、鎌倉幕府の一御家人に成り下がってしまった武将です。

戦国最強甲斐の虎・武田信玄のご先祖様でもあります。

本稿では、そんな悲運の武将である武田信義の生涯について見ていきたいと思います。 “【武田信義】源頼朝・木曾義仲に並ぶもう1人の源氏棟梁” の続きを読む

【木村重成】大坂夏の陣で豊臣家に殉じた豊臣秀頼の乳兄弟

木村重成(きむらしげなり)は、豊臣秀頼の乳兄弟として育ち、色白で立ち振る舞い・礼儀作法や言動が見事であるのみならず、刀・槍・馬術に長けた貴公子であったことで知られる人物です。

それ程多くの資料が残されている訳ではなく、また大大名という訳でもありませんので、知名度はそれ程高くないのですが、大坂冬の陣では、今福の戦いで一旦は徳川方の佐竹軍を押し返すなどの勇猛ぶりを見せたかと思うと、大坂冬の陣の和議交渉の場では、並み居る徳川軍の歴戦の猛将の前でとった見事な立ち居振る舞いでも賞賛されています。

大坂夏の陣では、討ち取られた後の首実検の場でさえも、徳川家康を感嘆させたとも言われています。

本稿では、そんな花も実もある英傑、木村重成の人生を振り返っていきたいと思います。

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【薄田兼相】大坂冬の陣の最中に遊郭に行き博労淵砦防衛戦に参加できなかった男

薄田兼相(すすきだかねすけ)をご存知ですか。

薄田兼相と言えば、何と言っても、大坂冬の陣において豊臣家家臣として大坂城の西に築かれた博労淵砦の守将として華々しく戦うはずだったのですが、性欲を押さえきれず肝心の決戦の日に遊郭で遊んでいて決戦に参加することすらできなかったという失態で有名です。

この失態によって橙武者と言う不名誉な称号を得てしまった人物ですが、江戸時代の講談や歌舞伎のモチーフとなり、絶大な人気を博することにもなった人物でもあります。

本稿では、そんな愛すべきポンコツ・薄田兼相について見ていきましょう。 “【薄田兼相】大坂冬の陣の最中に遊郭に行き博労淵砦防衛戦に参加できなかった男” の続きを読む

【阿野全成】源頼家暗殺未遂疑いで暗殺された源頼朝の異母弟

阿野全成(あのぜんじょう/ぜんせい)は、源頼朝の異母弟・源義経の同母兄であり、対平家の兵を挙げた源頼朝の下へ一番最初に駆けつけた兄弟であることから源頼朝の信頼を得て、北条政子の妹である阿波局を妻にもらった人物です。

唯一源頼朝の後まで生きた兄弟でもあります。

ただ、北条家に近くなり過ぎたために、源頼家暗殺を企てた疑いを持たれて源頼家に誅殺されるという悲しい最期を迎えた人物です。 “【阿野全成】源頼家暗殺未遂疑いで暗殺された源頼朝の異母弟” の続きを読む

【八田知家】常陸守護として鎌倉幕府を支え小田城を築城した常陸国小田氏の祖

八田知家(はったともいえ)は、石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れてきた源頼朝の下に参じ、その後鎌倉幕府を創成期から支えた御家人の1人です。

源頼家の時代に設置された最高幹部による合議体である13人の合議制の構成メンバーでもあります。

常陸守護となり、小田城を築城し、後に常陸国の最大勢力ともなった小田氏の始祖でありますが、知名度はイマイチです。

本稿では、重要人物であるにもかかわらずマイナー扱いに甘んじている八田知家について見ていきたいと思います。 “【八田知家】常陸守護として鎌倉幕府を支え小田城を築城した常陸国小田氏の祖” の続きを読む