【第56代・清和天皇】藤原摂関政治の基礎を作ってしまった日本史上初の幼帝

清和天皇(せいわてんのう)は、日本の第56代天皇です。

母が臣籍降下して初めて臣下に嫁いだ嵯峨天皇皇女であったこともあり、文徳天皇の第四皇子でありながら生後8か月で立太子し、その後、文徳天皇の突然の崩御によってわずか9歳で天皇となった日本初の幼帝です。

幼くして天皇となったことから、母方祖父である藤原良房の傀儡となり、藤原良房を人臣初の摂政に任命することによって藤原摂関政治の基礎を作ってしまった天皇でもあります。

他方で、多くの子を儲けてこれらを臣籍降下させ、その中から後に武門の棟梁となる清和源氏を誕生させたことから清和源氏の祖としても有名です。 “【第56代・清和天皇】藤原摂関政治の基礎を作ってしまった日本史上初の幼帝” の続きを読む

【第59代・宇多天皇】臣籍降下後に皇族復帰し皇位継承した唯一の天皇

宇多天皇(うだてんのう)は、摂関政治の真っただ中の時代において、藤原氏を外戚としない立場で第59代天皇として即位し、摂関家藤原氏の政治力を排斥して天皇親政を試みて大胆な政治改革を行った天皇です。

臣籍降下した後に皇籍に復帰して即位した稀有な天皇でもあります。 “【第59代・宇多天皇】臣籍降下後に皇族復帰し皇位継承した唯一の天皇” の続きを読む

【第52代・嵯峨天皇】律令体制の再編成を行った平安時代初期の名君

嵯峨天皇(さがてんのう)は、先代の平城上皇方との政争である薬子の変に勝利して朝廷をまとめ上げた上で、律令体制の崩壊が進むとともに国家財政が悪化していた9世紀前半に、天皇直属の令外官を設置するなどして官庁を再編し、また天皇の権威・権力を強化させた天皇です。

天台宗・真言宗などの密教を保護して神仏習合を進め、また安定した政治力を基に平穏な治世を送る一方で、伝統的社会を変容させて唐風の儀式や文化を浸透・定着しさせたことでも有名です。 “【第52代・嵯峨天皇】律令体制の再編成を行った平安時代初期の名君” の続きを読む

【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇

平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の後を継いだ第51代天皇です。

妃となった藤原帯子ではなく、その母親である藤原薬子を寵愛し醜聞を流したことでも有名です。

しかも、藤原薬子への執着の結果、これに唆されて平安京から平城京への遷都を試みるなどして朝廷を二分させる大事件を引き起こしています(薬子の変)。

最終的には、嵯峨天皇によって鎮圧されたために事なきを得たのですが、平安時代に南北朝の動乱が起きていてもおかしくなかった危険な事件でした。

本稿では、藤原薬子に溺れて朝廷を危機に陥れた平城天皇の生涯について簡単に見ていきたいと思います。 “【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇” の続きを読む

【第74代・鳥羽天皇】白河法皇の後に28年間院政を敷いた希代の政治家

鳥羽天皇(とばてんのう)は、子である崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の治世28年に亘って院政を敷いた人物です。

若い頃は、白河法皇の権力維持の駒として使われ苦労するも、その崩御後にその立場にとって代わるという見事な政治劇により権力を手にした希代の政治家でもありました。

本稿では、政治闘争を勝ち抜き、一大権力を手にした鳥羽天皇(上皇・法皇)の生涯について見ていきたいと思います。 “【第74代・鳥羽天皇】白河法皇の後に28年間院政を敷いた希代の政治家” の続きを読む

【第76代・近衛天皇】鳥羽上皇と崇徳天皇の政争の道具にされた天皇

近衛天皇(近衞天皇・このえてんのう)は、院政を敷いて絶大な権力を手にしていた鳥羽上皇の第9皇子として生まれました。

鳥羽上皇の傀儡として物心つく前に天皇に即位させられ、即位後も実父である鳥羽上皇と、養父兼系図上の兄である崇徳上皇の権力闘争の駒として使われた悲しき天皇です。

幼い頃から政争の真っ只中でストレスに晒され続けまた元々体も弱かったこともあって宝算17歳の若さで崩御されました。

本稿では、そんな悲しい人生を歩んだ近衛天皇の生涯について振り返ってみたいと思います。 “【第76代・近衛天皇】鳥羽上皇と崇徳天皇の政争の道具にされた天皇” の続きを読む

【第75代・崇徳天皇】保元の乱に敗れて流され怨霊となった悲劇の帝

崇徳天皇(すとくてんのう)は、鳥羽上皇の中宮であった藤原璋子(待賢門院)が、白河上皇との不貞行為の結果として産まれた複雑な血縁関係を持つ天皇です。

系図的には自分の子でありながら妻の不倫相手(白河上皇)の子であるということから、崇徳天皇は、系図上の父である鳥羽天皇から徹底的に嫌われて育ちます。

この環境は崇徳天皇が成長した後も変化はありませんでした。

この争いは、譲位して崇徳上皇となってからも続き、崇徳上皇と鳥羽上皇(及び後を継いだ後白河天皇)との争いは、朝廷を二分する大戦となった保元の乱を誘発しました。

保元の乱に敗れた崇徳上皇は、失意のうちに讃岐国に流され、同地において苦難を受け続けて死んだ恨みから怨霊となったとも言われています。

本稿では、苦難の歴史を歩んだ崇徳天皇の人生について見ていきたいと思います。 “【第75代・崇徳天皇】保元の乱に敗れて流され怨霊となった悲劇の帝” の続きを読む

【源義平】悪源太と呼ばれた源頼朝の長兄

 

源義平(みなもとのよしひら)は、源義朝の庶長子と生まれた武将であり、源頼朝や源義経の異母兄にあたります。

大蔵合戦で源義賢を討ち取る武功を挙げ、「鎌倉悪源太」と呼ばれて恐れられるようになった人物です(「悪」=強い、「源」=源氏の、「太」=長男)。

平治の乱では、義平十七騎と呼ばれる少数騎兵で、平重盛率いる大軍を蹴散らしたことでも有名です。

そして、最期は、捕えられて平清盛の前に引き立てられた後、数え20歳の若さで京の六条河原で斬首されています。

本稿では、そんな波乱万丈の源義平の人生について順にみていきたいと思います。 “【源義平】悪源太と呼ばれた源頼朝の長兄” の続きを読む

【藤原秀衡】奥州藤原氏の最盛期を作り上げた三代目当主

藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、平安時代末期に奥州にて一大勢力を築いた奥州藤原氏の三代目当主です。

京に次ぐ大都市を築き、豊富な経済力を持ち、源義経を庇護した人物としても有名です。

晩年は、勢力拡大を続ける源頼朝からの圧力を弱めるために尽力して政治な立ち回りに終始し、藤原秀衡が存命の間は源頼朝との衝突を避けることに成功しています。

藤原秀衡の遺骸はミイラとなって中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められていますので、興味がある人は調べてみてください(インターネット上に転がっていますが、嫌悪感を覚える方もいますので、本稿で紹介することは差し控えます。)。 “【藤原秀衡】奥州藤原氏の最盛期を作り上げた三代目当主” の続きを読む

【第71代・後三条天皇】摂関政治終焉のきっかけとなった天皇

後三条天皇(ごさんじょうてんのう)は、寛徳2年(1045年)1月16日に即位した第71代天皇です。

宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇であり、摂関家の絶大な政治権力の制限に尽力し、摂関政治を終わらせるきっかけを作った日本政治史を語るうえで絶対に外せない超重要人物です。 “【第71代・後三条天皇】摂関政治終焉のきっかけとなった天皇” の続きを読む