【徳川家康の妻一覧】判明している22人の神君の正室・側室

徳川家康には、判明しているだけで22人の妻(正室・側室)がいます。また、判明していない者も含めると40人近くいたとも言われています。

これらの妻のうち、正室は、今川家主導で選定された築山殿(先妻)と、豊臣秀吉から押し付けられた朝日姫(継室)の2人だけであり、その他は全て側室となります。

徳川家康が多くの側室を迎えた理由の1つとしては、この時代に南蛮船の来航により梅毒が日本に入ってきていたため、その罹患を恐れて遊女を買うことをしなかったためと考えらます。

また、側室を迎えることにより周辺国衆や敵対家臣団の娘などを迎えて領土保全を図ったり、既に子供を産んだ経験のある未亡人を選んで子供を儲けることを第一に考えて「徳川家」の存続を図っていたことも理由の1つとして挙げられます。

他方で、勢力が大きくなってお家が安定して来ると、「徳川家康個人」の欲を優先させて10代を中心とした若い女性を選んでいるところも注目されます。

本稿では、徳川家康の妻の遍歴について、貰い受けた時代背景もあわせて紹介していきたいと思います。 “【徳川家康の妻一覧】判明している22人の神君の正室・側室” の続きを読む

【三備の制】三河国統一後に編成された徳川家康の軍制

三備の軍制(みつぞなえのぐんせい)とは、三河国を統一した松平家康(後の徳川家康)が、系統を明確にして機動的な軍の編成をすると共に、宗家の座を巡って度々反乱を起こしていた松平一門衆に序列を認識させるために構築されたピラミッド型の軍事支配システムです。

三備の軍制により、それまでバラバラに戦っていた兵を指揮官の指揮の下で効率的に運用できるようになり、野戦に強い三河武士の礎となりました。

本稿では、徳川家康躍進を支えた三備の軍制について簡単に説明したいとおもいます。 “【三備の制】三河国統一後に編成された徳川家康の軍制” の続きを読む

【織田信長の居城遍歴】那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城への居城移転

織田信長は、生涯を通じて4回も居城を移転した稀有な戦国大名として有名です。

当時の戦国大名は、生涯拠点を動かさなかったことが多かったため、織田信長の居城移転歴は、当時としてはかなり異質なものに見えます。

もっとも、織田信長の居城移転は、その時々の戦略目的から最も適した位置を選んでいるという意味で極めて合理的であり、また父である織田信秀が、勝幡城→那古野城→古渡城→末盛城と居城を移したことを目にして育った織田信長にとっては何ら不思議なことではなかったのかも知れません。

本稿では、織田信長の居城の遍歴について、そのときの戦略目的を振り返りながら見ていきたいと思います。 “【織田信長の居城遍歴】那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城への居城移転” の続きを読む

【清洲同盟】織田信長と徳川家康を結んだ軍事同盟

清洲同盟(きよすどうめい・清須同盟)は、永禄5年(1562年)に尾張国を治める織田信長と、西三河を治める松平家康(後の徳川家康)との間で結ばれた軍事同盟です。

清州同盟は、美濃国への侵攻を進めたい織田信長と東三河への侵攻を進めたい徳川家康との思惑が一致したことにより、婚姻を伴う対等な軍事同盟としてスタートとします。

もっとも、その後に織田家と徳川家との国力の差が大きく開き始めたため、天正2年(1574年)冬ころには、その性質について徳川家康が織田信長に臣従する形での従属同盟に変化していきました。

もっとも、清州同盟締結中、織田信長・徳川家康の双方がいずれも他方を裏切ることなく続いた戦国時代としては極めて稀な軍事同盟とも言え、織田信長の勢力拡大や、後の徳川家康の名声に繋がった大きな意味のある同盟と言えます。 “【清洲同盟】織田信長と徳川家康を結んだ軍事同盟” の続きを読む

【徳川家康独立】今川家からの独立と松平家再興

戦国時代を終わらせて天下泰平の江戸時代を築いた徳川家康ですが、その人生は苦難の連続でした。

三河国の国人領主の家に生まれ、生まれた直後から織田弾正忠家と今川家との軍拡競争に巻き込まれ、織田弾正忠家で2年、今川家で11年もの人質生活を強いられています。

その後、桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れてなんとか岡崎城に入り、紆余曲折を経てなんとか独立にこぎつけています。

本稿では、この徳川家康独立について、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【徳川家康独立】今川家からの独立と松平家再興” の続きを読む

【足利義昭の上洛】南都脱出後に織田信長に奉じられて上洛し征夷大将軍に就任するまで

京で室町幕府第13代将軍であった足利義輝が暗殺され(永禄の変)、その後、その弟であった足利義昭が織田信長の協力により上洛し征夷大将軍に就任したことはあまりにも有名です。

この結論はあまりにも有名なのですが、他方で、この上洛に至るまでの足利義昭の動向についてはあまり知られていないと思います。

そこで、本稿では、足利義輝が暗殺された後から征夷大将軍に就任するまでの足利義昭の足跡について説明していきたいと思います。 “【足利義昭の上洛】南都脱出後に織田信長に奉じられて上洛し征夷大将軍に就任するまで” の続きを読む

【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転

現在の日本の首都・東京の礎を築いたのは徳川家康です。

元々、三河国に生まれ人質時代を経て独立し織田信長に与して5カ国(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国)を治める大大名にまで上り詰めた徳川家康でしたが、豊臣秀吉の命令によりこれらが没収され、代わりに関八州を与えられて江戸に入ります。

その後、江戸周辺において数多の巨大工事を繰り返し、現在の大東京の基礎を築き上げていったのでした。

本稿では、そんな今日の大東京が出来上がるきっかけとなった徳川家康の関東移封について見ていきたいと思います。 “【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転” の続きを読む

【徳川家康の人質時代】人質竹千代が清洲同盟を後ろ盾にして独立するまで

江戸幕府を創設した徳川家康は、その人生において数々の苦難に見舞われています。

三河一揆・三方原の戦い・神君伊賀越えなど数えればキリがありません。

その他にも3歳で生母と離され、6歳で人質に出され、挙句の果てに政争の駒としてたらい回しにされるなど、人生のスタートから悲惨です。

本稿では、そんな徳川家康(竹千代・松平元信・松平元康時代)の人生のスタートであった、人質時代について、そこに至る経緯から人質を脱して独立するに至るまでを紹介したいと思います。 “【徳川家康の人質時代】人質竹千代が清洲同盟を後ろ盾にして独立するまで” の続きを読む

羽柴秀吉は本能寺の変をいつ・どうやって知ったのか

日本全国統一戦を進めていた織田信長が明智光秀の謀反によって横死した本能寺の変は、その後の中国大返しと山崎の戦いの勝利によって羽柴秀吉が天下人の階段を駆け上がっていくきっかけとなった歴史を変える一大事件でした。

もっとも、本能寺の変が起こった際、羽柴秀吉は毛利家の城であった備中高松城の水攻めを行っている最中であり、本能寺の変の詳細を知るべき状況下にはなかったはずです。

このような状況下において運命を手繰り寄せた羽柴秀吉は、どのようにして本能寺の変発生の事実を正確に獲得したのでしょうか。

本稿では、羽柴秀吉が本能寺の変発生を知るに至った経緯について説明していきたいと思います。 “羽柴秀吉は本能寺の変をいつ・どうやって知ったのか” の続きを読む

【豊前国人一揆】黒田官兵衛に対する豊前国衆の反乱

豊前国人一揆は、豊前国6郡を得て入封した黒田官兵衛に対し、不満を持った豊前国人衆が蜂起して起こした内乱です。

その発生原因は、豊前国人衆を黒田家の配下に組み込んだこと、黒田官兵衛が早急な検地を進めたことにあったのですが、同じタイミング・同じ態様で一揆が起こった肥後国では、一揆を鎮めることが出来なかったとして佐々成政が切腹処分とされていますので、黒田官兵衛にとってもかなり危ない事件となっています。

本稿では、黒田官兵衛に危機をもたらした豊前国人一揆について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【豊前国人一揆】黒田官兵衛に対する豊前国衆の反乱” の続きを読む