【石田三成最後の2週間】関ヶ原の戦い後の逃亡・捕縛・斬首の経緯について

豊臣秀吉が死去した後、その後釜を狙う徳川家康と、豊臣政権の維持を目指した石田三成が対立し、全国の大名がこのいずれかに与することで全国を二分する対立構造が出来上がります。

そして、慶長5年(1600年)9月15日、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として両陣営が激突する大戦に至りました。

あまりにも有名なこの戦いは徳川家康方の勝利に終わり、敗将となった石田三成は、戦後に同地からの逃亡したのですが、その後捕縛され斬首処分となっています。

もっとも、逃亡後から斬首までの経緯については余り知られていません。

これは、二次資料により様々な経緯が記載されているのですが、必ずしも確定的に明らかなものではないこともその一因となっていると考えられます。

本稿では、関ヶ原の戦い後の石田三成の行動について、諸説あるその逃走経路をかいつまみつつ、その概略を簡単に説明していきたいと思います(なお、一次資料による確定的なものではないため、あくまでも推測的な概略として見ていただければ幸いです)。 “【石田三成最後の2週間】関ヶ原の戦い後の逃亡・捕縛・斬首の経緯について” の続きを読む

【豊臣秀吉が徳川家康討伐を断念した理由】天正大地震により大きく変わった日本の歴史

小牧・長久手の戦いにおいて痛み分けに終わった豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉の名乗りでしたが、本稿では便宜上「豊臣秀吉」の表記で統一します)と徳川家康でしたが、その後も勢力を拡大し続けた豊臣秀吉は、天正13年(1585年)11月、天下統一事業の障害となる徳川家康を討伐するための作戦行動を進めていきます。

この時点の徳川家は、動員兵数が豊臣家の半数に満たない上、小牧・長久手の戦いのときのような秀吉包囲網もなく、さらにはかつて味方であった万単位の兵を動員できる織田信雄が敵に回るという圧倒的に不利な状態で戦わなければならなくなってしまいました。

しかも、直前に徳川家の軍事の全容を知る石川数正が徳川家康の下から出奔して豊臣家に下っているため、内部情報まで豊臣秀吉に筒抜けでした。

こうなると徳川家康に勝ち目があるとは到底考えられず、徳川家滅亡は間違いないと思われました。

そんな状況の中、徳川家ひいては日本の歴史を大きく変える事件が起こります。

天正13年11月29日(1586年1月18日)夜、中部地方を震源とする未曾有の巨大地震(天正地震)が発生したのです。

この巨大地震は、日本の歴史を大きく変えてしまったのですが、本稿では、なぜこの地震が歴史を変えたのかについて順を追って説明していきたいと思います。 “【豊臣秀吉が徳川家康討伐を断念した理由】天正大地震により大きく変わった日本の歴史” の続きを読む

【伏見で始まった江戸幕府】徳川家康が豊臣秀吉死後も伏見に残った理由

徳川家康は、三河国衆からのし上がり国替で関東に移された後は江戸に本拠地を置いたことから、その主たる所在地ご東海地方や江戸であったというイメージが強いと思います。

このことは概ね間違ってはいないのですが、江戸幕府の創成期に限って言えば誤りです。

徳川家康は、文禄3年(1594年)9月から慶長5年(1600年)末までの間で2304日中1546日間、また関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの間で2185日中1240日間も伏見に滞在しています。

そのため、徳川家康は、征夷大将軍任命に至る前からその在職期間に至るまで、多くの期間を伏見城に在城して執務しています。

また、江戸幕府初代である徳川家康、2代徳川秀忠、3代徳川家光と3代続けて伏見城で将軍宣下を受け、後に御三家となった9男・徳川義直(後の尾張藩祖) 、10男・徳川頼宣(後の紀伊藩祖)11男・徳川頼房(後の水戸藩祖)が伏見の地で育っています。

以上のことから、江戸幕府は伏見で始まったと言っても過言ではありません。

では、なぜ徳川家康は江戸幕府創成期に伏見にいたのでしょうか。

本稿では、徳川家康がなぜ伏見に残ったのかについて簡単に説明したいと思います。 “【伏見で始まった江戸幕府】徳川家康が豊臣秀吉死後も伏見に残った理由” の続きを読む

【豊臣秀吉の後継ぎ候補者の推移】混乱する豊臣政権後継者選定問題

豊臣秀吉は、男色が当たり前だった時代に女性のみを愛し、ルイスフロイスが記した日本史には側室が300人いたとも記されているのですが、なかなか子宝に恵まれませんでした。

生涯で3人の男児を儲けたとされているものの、長男・次男は早世し、三男・豊臣秀頼は年老いて産まれた子であったために豊臣家に混乱をもたらしました。

本稿では、思うように後継者を定めることができなかった豊臣秀吉が、その時々で誰を豊臣家(羽柴家)の後継者としていたかについて、時系列順に説明して行きたいと思います。

なお、豊臣秀吉は、木下藤吉郎→木下秀吉→羽柴秀吉→豊臣秀吉と名乗りを変遷させていますが、本稿では便宜上「豊臣秀吉」の表記で統一することとします。 “【豊臣秀吉の後継ぎ候補者の推移】混乱する豊臣政権後継者選定問題” の続きを読む

本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?

戦国時代で最も有名な事件といえば「本能寺の変」です。

天下統一を目前にした織田信長が、天正10年(1582年)6月2日、家臣である明智光秀の謀反により横死したという事件であり、教科書はもちろん映画・小説・ドラマなどでも何度も紹介される日本人なら誰でも知っている大事件です。

明智光秀の謀反理由は不明であり、現在まで明らかとなっていないことから様々な説が唱えられています。

他方、あまり話題になっていないことがあります。

それは、数ある京の寺院の中で、発生場所がなぜ「本能寺」だったのかということです。

当時の本願寺は不便な下層エリアに位置しており、一応の防衛構造を持ってはいたものの織田信長が寝所にするには不安がある場所だったこともあり、実は織田信長が本能寺にいたのは偶然だったのです。

以下、本能寺の変の際に織田信長が本能寺にいた理由について簡単に説明します。 “本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?” の続きを読む

【守護大名と戦国大名の違い】

いずれも室町時代における軍事勢力の長の呼称である守護大名と戦国大名の違いを説明できますか。

学術的な細かい定義はおいておいて、ざっくり一言で行ってしまうと、室町幕府によって守護職任命されてその権威をもって分国を支配する者が守護大名であり、自らの軍事力・経済力によって領国を支配する者が戦国大名です。

イメージとしてはそれほど違いがないかのように思えてしまうのですが、権力の背景の違いから、大名の居住地・領国の実務支配者・居城の位置・国人に対する影響力の程度など、実際には多岐に亘る大きな違いが存在しています。

本稿では、この守護大名と戦国大名の違いについて、その成り立ちから簡単に説明したいと思います。 “【守護大名と戦国大名の違い】” の続きを読む

【豊臣秀吉の名乗り変遷】実は最後まで羽柴秀吉だった豊臣秀吉

低い身分から成り上がり、ついには天下人にまで上り詰めた人物として有名な豊臣秀吉ですが、実は死ぬまで羽柴秀吉だったことご存知ですか。

羽柴秀吉から豊臣秀吉に改名したかのようなイメージを持ちがちですが、実際には違います。

豊臣=氏・羽柴=名字(苗字)であり、豊臣氏を下賜された後も羽柴という名字を変更していないため、豊臣秀吉は死ぬまで羽柴秀吉だったのです。

死ぬ直前の名乗りは、豊臣朝臣太閤羽柴秀吉であり、羽柴という名字を最期まで使用しています。

本稿では、戦国時代頃の名前の付け方を踏まえて、豊臣秀吉の名前の変遷について説明したいと思います。 “【豊臣秀吉の名乗り変遷】実は最後まで羽柴秀吉だった豊臣秀吉” の続きを読む

明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか?

天正10年(1582年)6月2日に京の本能寺において織田信長を殺害したことで有名な明智光秀ですが、その前半生の経歴ほとんど明らかになっていません。

また、室町幕府の幕臣を辞して織田家に仕官し、その後に織田家筆頭家老の地位にまで上り詰めた大人物であるにもかかわらず、織田家家臣団に編入された時期やその経緯についても明らかなことはほとんどわかっていません。

そこで、本稿では、明智光秀が織田家家臣団に編入されるに至った時期について、明智光秀・足利義昭・織田信長らの周囲に起こった事実関係を基に考察していきたいと思います。 “明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか?” の続きを読む

【御土居】豊臣秀吉が築いた京を囲む土塁

 

御土居(おどい)は、豊臣秀吉によって作られた京の町を囲む惣構え構造の土塁です。土塁に沿って掘られた堀とあわせて御土居堀とも呼ばれます。

御土居は、聚楽第・方広寺・寺町建造、天正の地割など豊臣秀吉による一連の京改造事業の1つとして建造されました。

目的としては京防衛のためであったと考えられるのですが、防衛設備としては不十分なものであり、現在でもその設置目的については様々な議論がなされています。

なお、現在も御土居の遺構が一部現存し、国の史跡に指定されています。

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【京都奉行】足利義昭・織田信長連合政権の京都統治機関

永禄11年(1568年)9月に、足利義昭と織田信長が上洛を果たし、その後に足利義昭が室町幕府15代将軍に任命されたのは有名な話ですが、その後の京・畿内の統治がどのように行われたのかについては意外と知られていません。

後に織田信長が足利義昭を追放して独占的支配に至ったため、何となく織田信長が足利義昭を傀儡として統治していたようなイメージを持つ方が多いと思うのですが、そうではないのです。

上洛当初の京の統治者は将軍・足利義昭であり、織田信長はその補佐人でしかありません。

しかも、この時点での織田信長の本拠地は美濃国・岐阜であったために織田信長自ら京(畿内一帯を含む)政策の陣頭指揮を執ることはできず、代理人となる奉行人を在京させて足利義昭を補佐していたに過ぎませんでした。

このとき、足利義昭の補佐をするために京に置かれた足利義昭及び織田信長の代理人を京都奉行(足利義昭追放後に置かれた「京都所司代」や江戸時代に置かれた「江戸町奉行」とは別物です。)といいます。

本稿ではこの京都奉行の紹介を兼ねて、足利義昭・織田信長上洛後の京の統治者の推移について見て行きたいと思います。 “【京都奉行】足利義昭・織田信長連合政権の京都統治機関” の続きを読む