【鎌倉時代の東大寺再建】南都焼討後の再建について

奈良時代創建された当初の東大寺は、唐の文化を受けた天平文化を色濃く反映した伽藍でした。

ところが、平家による焼き討ちに遭った後、鎌倉時代に復興した東大寺は、それまでの伽藍に復元することはせず、新たに南宋の文化を色濃く反映した大仏様(天竺様)の伽藍に変更されて再建されました。

本稿では、平安時代末期に創建当初の東大寺が焼失するに至った経緯と、鎌倉時代初期の再建事業・再建内容について簡単に見ていきたいと思います。 “【鎌倉時代の東大寺再建】南都焼討後の再建について” の続きを読む

【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命

鎌倉仏教は、鎌倉時代初期、比叡山延暦を下りた幾人かの高僧によって開かれた一般庶民・武士向けの仏教です。

それまでの仏教は、国家の判断によって導入された皇族・貴族の特権的文化であったのですが、鎌倉仏教では、これを易行・選択・専修を特色とする「簡単な修行を1つだけ選びそれだけを行えば足りる」とすることで一般大衆に門戸を開き、日本全国への爆発的な普及のきっかけとなりました。

この鎌倉仏教の広がりは、大きく分けると他力本願を是とするグループと、自力本願を是とするグループという2つの派閥で広がっていき、他力本願グループは主に庶民層に、自力本願グループは主に武士階級の支持を得ました。

そして、他力本願を是とするグループでは法然・親鸞・一遍・日蓮などを開祖とする宗派が生まれ、自力本願をとするグループでは栄西・道元などを開祖とする宗派が生まれています。

本稿では、この皇族・貴族から庶民・武士へと担い手が変化するに至った革命的ともいえる鎌倉仏教について、その成立に至る経緯から簡単に説明したいと思います。 “【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命” の続きを読む

【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて

市中引き回し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける付加刑でした(独自の刑罰ではなく、あくまでも付加刑です。)。

死罪以上の判決を言い渡された者が馬に乗せられ、罪状を書いた捨札等を持ったものと共に刑場まで連れられて行くという公開連行制度(見せしめ)であり、抑止的効果をも狙ったものでした。

市中引き回しは、元々江戸幕府将軍のお膝元であった江戸で行われた刑罰だったのですが、豊臣家が滅んで大坂が徳川家の直轄地になると、ここを西国統治の拠点と定めた江戸幕府が大坂に江戸の統治システムを持ってきます。

その結果、大坂でも江戸で行われていたものと同様の刑罰システムが採用され、その一環として市中引き回しも採用されることとなったのです。 “【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて” の続きを読む

本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?

戦国時代で最も有名な事件といえば「本能寺の変」です。

天下統一を目前にした織田信長が、天正10年(1582年)6月2日、家臣である明智光秀の謀反により横死したという事件であり、教科書はもちろん映画・小説・ドラマなどでも何度も紹介される日本人なら誰でも知っている大事件です。

明智光秀の謀反理由は不明であり、現在まで明らかとなっていないことから様々な説が唱えられています。

他方、あまり話題になっていないことがあります。

それは、数ある京の寺院の中で、発生場所がなぜ「本能寺」だったのかということです。

当時の本願寺は不便な下層エリアに位置しており、一応の防衛構造を持ってはいたものの織田信長が寝所にするには不安がある場所だったこともあり、実は織田信長が本能寺にいたのは偶然だったのです。

以下、本能寺の変の際に織田信長が本能寺にいた理由について簡単に説明します。 “本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?” の続きを読む

【守護大名と戦国大名の違い】

いずれも室町時代における軍事勢力の長の呼称である守護大名と戦国大名の違いを説明できますか。

学術的な細かい定義はおいておいて、ざっくり一言で行ってしまうと、室町幕府によって守護職任命されてその権威をもって分国を支配する者が守護大名であり、自らの軍事力・経済力によって領国を支配する者が戦国大名です。

イメージとしてはそれほど違いがないかのように思えてしまうのですが、権力の背景の違いから、大名の居住地・領国の実務支配者・居城の位置・国人に対する影響力の程度など、実際には多岐に亘る大きな違いが存在しています。

本稿では、この守護大名と戦国大名の違いについて、その成り立ちから簡単に説明したいと思います。 “【守護大名と戦国大名の違い】” の続きを読む

【豊臣秀吉の名乗り変遷】実は最後まで羽柴秀吉だった豊臣秀吉

低い身分から成り上がり、ついには天下人にまで上り詰めた人物として有名な豊臣秀吉ですが、実は死ぬまで羽柴秀吉だったことご存知ですか。

羽柴秀吉から豊臣秀吉に改名したかのようなイメージを持ちがちですが、実際には違います。

豊臣=氏・羽柴=名字(苗字)であり、豊臣氏を下賜された後も羽柴という名字を変更していないため、豊臣秀吉は死ぬまで羽柴秀吉だったのです。

死ぬ直前の名乗りは、豊臣朝臣太閤羽柴秀吉であり、羽柴という名字を最期まで使用しています。

本稿では、戦国時代頃の名前の付け方を踏まえて、豊臣秀吉の名前の変遷について説明したいと思います。 “【豊臣秀吉の名乗り変遷】実は最後まで羽柴秀吉だった豊臣秀吉” の続きを読む

明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか?

天正10年(1582年)6月2日に京の本能寺において織田信長を殺害したことで有名な明智光秀ですが、その前半生の経歴ほとんど明らかになっていません。

また、室町幕府の幕臣を辞して織田家に仕官し、その後に織田家筆頭家老の地位にまで上り詰めた大人物であるにもかかわらず、織田家家臣団に編入された時期やその経緯についても明らかなことはほとんどわかっていません。

そこで、本稿では、明智光秀が織田家家臣団に編入されるに至った時期について、明智光秀・足利義昭・織田信長らの周囲に起こった事実関係を基に考察していきたいと思います。 “明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか?” の続きを読む

【南禅寺が五山之上という別格扱いにされている理由】

南禅寺(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山であり、臨済宗寺院である京都五山・鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院として日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つとされています。

もっとも、南禅寺が五山之上という別格扱いにされた理由は、宗教的な理由ではなく、後醍醐天皇の政治的思惑と足利義満のわがままによるものです。

本稿では、南禅寺が五山之上に位置することに至った経緯・理由について簡単に説明します。 “【南禅寺が五山之上という別格扱いにされている理由】” の続きを読む

【鎌倉幕府成立時期はいつなのか?】初の武家政権の段階的な成立過程について

日本最初の武家政権として誰もが知っている鎌倉幕府ですが、その成立時期については諸説あります。

その理由は、事実認識の違いというわけではなく、鎌倉幕府が段階的に成立していったため、どの段階に達したことをもって幕府成立といえるかの判断が人によって異なるためです。

具体的に言うと、鎌倉幕府が元々何も持たなかった流人の源頼朝が伊豆国で挙兵して鎌倉に関東に影響を及ぼす私的武装団を組織し(1180年)、この武装団が公的に容認され(1183年閏10月)、武装団による関東支配権が認容され(1185年)、その支配権が東北に及び(1190年)、武装団の長である源頼朝が右大将に任命され(1190年11月)、恒久的な諸国守護権が認められ(1191年3月)、長である源頼朝が征夷大将軍に任命され(1192年7月)、朝廷までも事実上の支配下に置く(1221年7月)という成立過程を経ているため、どの段階をもって武家政権の成立=鎌倉幕府成立といえるかについての認識が人によって異なるからです。

本稿では、前記鎌倉幕府の成立過程を簡単に紹介していきますので、どの段階をもって鎌倉幕府が成立したと言えるかについて考えてみていただければ幸いです。 “【鎌倉幕府成立時期はいつなのか?】初の武家政権の段階的な成立過程について” の続きを読む

【平城京】奈良時代を支えた奈良盆地北端の都

平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代に大和国北部(奈良盆地北部、現在の奈良市・大和郡山市)におかれた日本の都です。

唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城であり、和銅3年(710年)、それまでの都であった藤原京から遷都された後、短期間の中断期間を経て、延暦4年(785年)に長岡京に遷都されるまで都として政治の中枢を担いました。 “【平城京】奈良時代を支えた奈良盆地北端の都” の続きを読む