羽柴秀吉は本能寺の変をいつ・どうやって知ったのか

日本全国統一戦を進めていた織田信長が明智光秀の謀反によって横死した本能寺の変は、その後、中国大返しと山崎の戦いの勝利によって羽柴秀吉が天下人の階段を駆け上がっていくきっかけとなった歴史を変える一大事件でした。

もっとも、この本能寺の変が起こった際、羽柴秀吉は毛利家の城であった備中高松城の水攻めを行っている最中であり、本能寺の変の詳細を知るべき状況下にはなかったはずです。

かかる状況下において運命を手繰り寄せ、羽柴秀吉が、後のサクセスストーリーの始まりとなる本能寺の変発生の事実を毛利方よりも早く正確に獲得した経緯について説明していきたいと思います。 “羽柴秀吉は本能寺の変をいつ・どうやって知ったのか” の続きを読む

【豊前国人一揆】黒田官兵衛に対する豊前国衆の反乱

豊前国人一揆は、豊前国6郡を得て入封した黒田官兵衛に対し、不満を持った豊前国人衆が蜂起して起こした内乱です。

その発生原因は、豊前国人衆を黒田家の配下に組み込んだこと、黒田官兵衛が早急な検地を進めたことにあったのですが、同じタイミング・同じ態様で一揆が起こった肥後国では、一揆を鎮めることが出来なかったとして佐々成政が切腹処分とされていますので、黒田官兵衛にとってもかなり危ない事件となっています。

本稿では、黒田官兵衛に危機をもたらした豊前国人一揆について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【豊前国人一揆】黒田官兵衛に対する豊前国衆の反乱” の続きを読む

【清洲会議】山崎の戦い後の織田家四宿老の話合い

清洲会議・清須会議(きよすかいぎ)は、天正10年(1582年)6月27日、織田家の宿老であった柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興によって開かれた織田家の継嗣問題及び領地再分配を決めるための会議です。

清洲会議により、織田家新当主となった三法師を、前記4宿老と、織田信雄・織田信孝・徳川家康の合計7名で支えるという枠組みを作ったのですが、羽柴秀吉によるクーデターによって半年足らずで清洲会議体制が瓦解しています。 “【清洲会議】山崎の戦い後の織田家四宿老の話合い” の続きを読む

【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年

低い身分に生まれながら天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉。

織田信長に仕えて初めて城を得てから亡くなるまでの間、その時々の必要性に応じて何度もその居城を移しています。

豊臣秀吉の居城として大坂城が突出して有名ですが、実は豊臣秀吉が初めて城を得てから死ぬまでの約25年の間で主として大坂城に在城していたのはほんの僅かです。3~4年に過ぎません。

羽柴秀吉は、人生のほとんどを別の城で過ごしています。

本稿では、そんな豊臣秀吉の居城遍歴を追っていきたいと思います。 “【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年” の続きを読む

【徳川家康の改名・改姓の歴史】

戦国武将の中で最も成功した人物と言えば徳川家康。

余りにも有名な武将・徳川家康ですが、その生涯において何度も名を変えていることをご存知ですか。

「徳川家康」というのは、元服後4つ目の名です。

以下、徳川家康の改名・改姓の歴史を見ていきましょう。 “【徳川家康の改名・改姓の歴史】” の続きを読む

【甲相駿三国同盟】今川義元・武田信玄・北条氏康の巨大軍事同盟

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)をご存知ですか。

戦国期の巨大3勢力である、今川義元・武田信玄・北条氏康において結ばれ、三者三様のそれぞれの思惑を吸い上げて天文23年(1554年)に完成し、多大な成果を上げたものの、新勢力の台頭に翻弄され永禄10年(1567年)の今川家による塩止めにて破綻した同盟です。

本稿では、そんな戦国の巨大軍事について、その成立に至る経緯からみていきたいと思います。

なお、本稿がどの段階の話であるかよくわからない場合には、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【神君伊賀越え】徳川家康が九死に一生を得た三河国への逃避行

天下統一を果たして太平の世を築いた徳川家康。

もっとも、徳川家康の天下統一は決して順風満帆であったわけではなく、生涯何度も命の危機に晒されています。

絶体絶命だったと言われるものだけでも3つもあります。

三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、神君伊賀越えです。

本稿では、このうち、神君伊賀越えについて見ていきます。 “【神君伊賀越え】徳川家康が九死に一生を得た三河国への逃避行” の続きを読む

【第二次信長包囲網】反織田信長勢力の結集と崩壊

足利義昭を奉じて上洛し、圧倒的な軍事力で次々と周辺勢力を取り込んでいった織田信長ですが、第一信長包囲網の最終期に浅井長政・朝倉義景を追って比叡山延暦寺を取り囲んだ際(志賀の陣)、各地で反織田信長の挙兵が続発します。

室町幕府15代将軍である足利義昭は、この反織田信長勢力の勢いを見て、これに便乗して自らに対する織田信長の影響力を相対的に低下させようと画策します。

足利義昭は、元亀2年(1571年)ころ有力大名等に反織田信長の決起を求める御内書の宣下をし、これに呼応する形となる抵抗勢力と織田信長とのいたちごっこが始まります。 “【第二次信長包囲網】反織田信長勢力の結集と崩壊” の続きを読む

【第一次信長包囲網】織田信長の畿内制圧と信長包囲網に至る経緯

足利義昭を奉じて上洛し、畿内の実権を握った織田信長。

もっとも、その後の織田信長は抵抗勢力との果てしない戦いを繰り広げることとなります。

本稿では、信長の上洛と、その後の第一次信長包囲網に至るまでの経緯について簡単に紹介したいと思います。 “【第一次信長包囲網】織田信長の畿内制圧と信長包囲網に至る経緯” の続きを読む