【和歌山城(日本100名城62番)】徳川御三家・紀州徳川家の居城

言わずと知れた徳川御三家の1つ紀州徳川藩の居城・和歌山城。

余り知られていませんが、御三家でありながら江戸幕府に対する藩主の謀反を疑われて惣構え構造の完成を見なかった城でもあります。

とは言え、その縄張りの見事さ、石垣の妙、重要文化財として残る岡口門、庭園や復元された御橋廊下の美しさなど一見の価値があることに疑問の余地はありません。

そこで、本稿は、和歌山城観光をより楽しむための前提となる和歌山城の歴史知識を簡単に説明します。

和歌山城築城の経緯

豊臣秀長による和歌山城築城(1585年)

和歌山城の始まりは、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が、天正13年(1585年)の紀州征伐で功を挙げ、その論功として紀伊国・和泉国64万石を与えられたことに始まります。

新天地に移ることとなった豊臣秀長は、雑賀城を廃して新たな居城を築城することとし、当時「若山」と呼ばれた現在の和歌山城のある場所を選定して縄張りを行い、藤堂高虎を普請奉行、羽田正親、横浜良慶をその補佐として和歌山城を完成させます(このときに、若山から和歌山に改められています。)。

もっとも、このときの和歌山城は現在のような巨大城郭ではなく、その城域築城範囲は山嶺部や岡口に及び程度であったと考えられています。

その後、さらに四国征伐で功を挙げた豊臣秀長は、大和国・河内国を加増され、それまでの領地を合わせて計100万石を超える大領を治める大大名となり、その本拠を大和国に大和郡山城に移します。

桑山家の和歌山城

このとき、豊臣秀長は、制圧したばかりで政治情勢が安定していなかった紀州の抑えとしてため、賤ヶ岳の戦いで功を挙げた桑山重晴を家老として3万石にて和歌山城代に任命し治めさせます。

その後、慶長元年(1596年)に桑山重晴が出家・隠居し、その嫡孫であった桑山一晴が和歌山城代を引き継ぎます。

そして、慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の戦いに際し、東軍に与した桑山一晴が、正式に紀伊国・和歌山2万石にて和歌山城主となったのですが、すぐに大和新庄藩に転封となり和歌山を離れます。

浅野家の和歌山城(1600年10月)

慶長5年(1600年)10月、関ヶ原の戦いで東軍に属した浅野幸長が軍功を認められ、37万6560石を与えられて紀州藩主として和歌山城に入城します。

浅野幸長は、和歌山城入城の改修を行い、本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営し、大手門を岡口門から一之橋門に変更するなどし、また慶長10年(1605年)頃、下見板張りの天守を建築します。浅野幸長が、砂の丸・南の丸・二の丸西側4分の1を除くほとんどの内曲輪を整備したと考えられます。

さらに、本町通りを大手筋として城下町の整備も行います。

その後、浅野長晟が石垣造に改修するなどしましたが、元和5年(1619年)浅野家が広島藩に加増転封となり、和歌山城を離れます。

紀州徳川藩の和歌山城(1619年)

浅野家に代わり、元和5年(1619年)10月、徳川家康の10男・徳川頼宣が紀伊国全域と伊勢国の一部計55万5千石で入城します。南海の鎮となる御三家の紀州徳川家の成立です。

このとき、徳川頼宣は、江戸幕府より銀2000貫を受領し、これをもって元和7年(1621年)より和歌山城の大規模改修と城下町の拡張を開始します。

徳川頼宣は、二の丸の大奥部分を拡張するために西内堀の一部を埋め立て、南の丸・砂の丸を内曲輪に取り入れるなどの改修を行います。なお、南の丸・砂の丸は、徳川頼宣により新たに造成された箇所です。

もっとも、江戸幕府に反乱を起こした由井正雪が徳川頼宣の密書を持っていたこと、和歌山城の改修予定の規模があまりに大きなものであったため、徳川頼宣に江戸幕府より謀反の嫌疑をかけられました。

そのため、和歌山城の改修は、当初の予定よりも規模が縮小され、外堀拡張により総構え構造とする予定も見送られました。

なお、余談ですが、このときの謀反の嫌疑の結果、紀州徳川家は御三家であるにもかかわらず対防衛の必要性ありと疑われ、その抑えのためにこの頃に、紀州から大坂・京に向かう紀州街道の途中にある岸和田城が小藩ノ規模に相応しくない2重の外堀と巨大な総構え構造を持つ巨城となるよう大規模整備されるに至っています。

 

和歌山城の縄張り等

和歌山城は、現在の和歌山市内の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)を利用して築かれました。

虎伏山は、東西にラクダのコブのような2つの峰を持っており、この東西の峰を利用し、西峰を天守曲輪として連立式天守を東峰を本丸御殿(後にその機能は二の丸御殿に移っています。)とすることにより本丸を形成します。

そして、その北側に二の丸を、さらにその外に大きく三の丸が配する構造となっています。

そして、和歌山城は、この曲輪構造を、北部を流れる紀の川を天然の堀として利用して守る梯郭式平山城となっています。

外曲輪(三の丸)

三の丸は、内堀の外に広がる土塁と外堀に囲まれた、藩の施設や藩士の武家屋敷が立ち並ぶ曲輪です。

①京橋門

大手門(一之橋門)から北に伸びたところにあった櫓門。北堀(現・市堀川)に面しており、物見櫓もあったとされており、京橋の側に石碑が建っています。

②本町門

京橋からさらに北にあり、真田堀に面したところにあった櫓門で城下町の境としており、参勤交代の際は必ずこの門を通ったといわれています。

③武家屋敷

三の丸には、紀州藩の重臣である水野家、安藤家、三浦家などの上流藩士の邸宅が建ち並んでいました。

廃藩置県の後は、和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所・和歌山家庭裁判所・和歌山地方検察庁をはじめとする公的機関が置かれ、その他学校、商業施設、オフィス街などとなっています。

④北内堀

北内堀は、外曲輪である三の丸と内曲輪とを隔てる堀であり、江戸期には堀幅が21間(約41m)ありました。

そして、北内堀の南側石垣上には、東に月見櫓、中央やや西寄りに月見櫓、西角に駿河櫓という2階建ての櫓で結ばれていました。

もっとも、北内堀は、明治44年(1911年)に市街電車の複線化のために埋め立てられ、また昭和15年(1940年)には道路拡張工事がなされたため、現在の堀幅は当時より大幅に縮小され約25mとなっています。

内曲輪(二の丸より内側の曲輪)

内曲輪は、最大幅約73mもの巨大な内堀と砂の丸の石垣により守られた和歌山城の中心部分です。

(1)二の丸

二の丸は、藩の政治の場・生活の場であり、多くの御殿が建てられ、その用途に応じて表、中奥、大奥と呼ばれていました。

また、二の丸の西側には、西の丸と通じる御橋廊下が架けられていました。

①一之橋と大手門(復元)

 

和歌山城の内曲輪に入るための最初の門で、高麗門形式で、土塁や多門が連なります。

西の石垣上には月見櫓が建てられていました。

この門の北側が三の丸、南側(内側)からが内曲輪です。

豊臣秀長・桑山重晴の時代までは南の丸西側にある岡口門が大手門だったのですが、浅野幸長が入城し和歌山城を大改修した際にこの門を大手門に変更し、その後紀州徳川藩でもそのまま大手門として利用されました。

江戸時代中頃までは、橋を「市之橋」、門を「市之橋御門」と呼んでいたのですが、寛政8年(1769年)に橋を「一ノ橋」、門を「大手御門」と改称されました。

大手門は、明治42年(1909年)に倒壊したものの、昭和58年(1983年)に古写真などを基に復元されました。

また、翌年には、大手門の北側に架かる一之橋(間口約11m)も復元されています。

②二の丸御殿

初代徳川頼宣と14代徳川茂承以外の藩主は、二の丸御殿に住んでいました。

二の丸御殿は江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれ、表は、藩の紀州藩の藩庁としてのスペースで、藩主との謁見や儀式を行うとともに、藩の政庁として役人が執務を行う場所でした。

中奥は、藩主が執務を行う公的スペース兼生活空間で、藩主の居間や家老・側近の詰所でもありました。

大奥(上図)は、藩主の私的スペースで、側室や奥女中の生活の場であり、男性は藩主しか入れませんでした(なお、大奥があったのは、江戸城・和歌山城・名古屋城のみです。)。

なお、二の丸御殿は、明治18年(1885年)に大坂城へ移築され、昭和6年(1931年)より大阪市迎賓館(紀州御殿と呼ばれました。)として使用されましたが、昭和22年(1947年)米軍施設として使用中に失火により焼失しています。

現在、二の丸御殿の表・中奥に相当する場所は広場として開放され、大奥に相当する場所は芝生が養生され整備されています。

③ 御橋廊下(復元)

藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸をつなげる傾斜のある橋です。

藩主が移動するのを気づかれないために、壁付になっていました。

平成18年(2006年)3月に、江戸時代の図面をもとに復元され、現在は誰でも通ることができるようになっています。

(2)西の丸

西の丸は、藩主の隠居所として自然風雅を楽しむ場所として設けられました。

書院や能舞台、南側には内堀を利用した西の丸庭園が設けられ、その他数寄を凝らした建物が建てられました。もっとも、文化10年(1813年)に大奥の失火による火事によって西の丸御殿は全焼しています。

南東隅の堀上には御橋廊下を架け、二の丸に通じています。

①西の丸庭園

和歌山城西之丸庭園は、江戸時代初期に西の丸御殿とともに造られた日本庭園で、紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所でした。

城の北西麓という地形を活かし、鳶魚閣や二段の滝が設けられましたが、戦災で天守などとともに焼失しました。

その後、図面などを基に昭和47年(1972年)に鳶魚閣が再建されました(もっとも,その後の調査により、鳶魚閣は実際には現在の場所ではなく、池の中央付近にあったと推測されています。)。

(3)砂の丸

砂の丸は、徳川頼宣により新たに造成された曲輪で、その北側には紀州藩の財政を担う勘定方が置かれていました。

また、砂の丸内に乗馬調練場があったそうです。

①吹上門

かつての中消防署の前にあったとされる門で、その西側には吹上御門もあったとされますが明治期に埋め立てられました。

現在は鳥居が建っています。

②追廻門

砂の丸の乗馬調練場と門外の扇の芝馬場を結ぶ旧型の高麗門です。

赤門であったと見られ、和歌山城がの二の丸の「御座の間(藩主の居所)」から見たときに裏鬼門(坤・南西)の方角に当たるため、魔除けのために赤く塗られたと推測されています。

(4)御蔵の丸

東堀沿いの石垣には、かつて多聞櫓が建てられていたため、城兵の昇降用の長大な雁木が残っています。

(5)南の丸

砂の丸は、徳川頼宣により新たに造成された曲輪です。

現在は、和歌山城公園動物園が運営されています。

①不明門

「あかずの門」とも言われ、急を要する場合のみ開かれ、通常は閉じられたままであったという。

和歌山城南側の三年坂に面した場所にあり、現在は和歌山城駐車場のゲートが置かれています。

②岡口門と土塀(重要文化財)

浅野時代には大手門でしたが、浅野時代の後期に大手門から搦手門として修復されました。

1621年(元和7年)に徳川頼宣が行った城の大改修の際に再建された櫓門が現存しています。なお、現在の門櫓は切妻屋根ですが、当初は門櫓の両側に続櫓が存在していました。

(6)松の丸

松の丸櫓台から初代・頼宣が紀州富士(龍門山)を眺め、故郷の駿河国を偲んだといわれています。

本丸

①本丸御殿(虎伏山の東の峰)

本丸御殿は、不等辺五角形に拓かれた虎伏山の東の峰(東西約29m・南北約53m)に築かれました。

本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったために使い勝手が悪く、狭く拡張性がないことから、ほとんどが空屋敷となって次第に使用されなくなり、その役割は二の丸御殿にとって変わられました。

②天守曲輪(虎伏山の西の峰)

天守曲輪は、虎伏山の西の峰に築かれた天守を配置するための曲輪で、菱形に近い平面をしており、基壇の面積は約2640㎡あります。

天守群(外観復元)

最初の天守の創建年は不明ですが、浅野幸長創建説(1600年説)と徳川頼宣創建説(1619年説)とがあります。

創建時の壁面は、下見板張り(黒板張り)でしたが、寛政10年(1798年)漆喰が塗られて白壁に変更されます。

その後、弘化3年(1846年)に落雷により焼失し、通常は天守再建許可がでないところ徳川御三家という特別の立場から嘉永3年(1850年)に、楠門に入る階段の位置などのわずかな変更をしたのみでほぼ元の形で再建されました。

①構造

天守は、大天守から時計回りに、多門(渡櫓)、楠門(天守二の門)、二の門櫓、多門(渡櫓)、乾櫓、多門(渡櫓)、御台所、小天守と繋がる連立式天守となり、その見事さから姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられています。

嘉永3年(1850年)再建当時の大天守は3重3階で、天守台平面が菱形であるため、初重に比翼入母屋破風を用いて2重目以上の平面を整えています。

かつての天守群は昭和20年(1945年)の和歌山大空襲で焼失しているため、現在のものは、嘉永3年(1850年)の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫である栄三郎が所蔵していた天守図と『御天守御普請覚張』を参考に、昭和33年(1958年)に東京工業大学名誉教授藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリート構造による外観復元とされたものです。なお、文献や図には天守群の高さが記入されていなかったため、焼失前に撮影された写真に写る他の建造物との高低比から天守群の高さが算出されました。

②大天守

③楠門(天守ニの門)

戦災で焼失した天守曲輪で唯一、木造で復元されました。

④二の門櫓

⑤乾櫓

⑥御台所

⑦小天守

 

和歌山城の朽廃と近現代の復興

廃城(1871年)

1871年(明治4年)、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)により廃城となり、陸軍省の管轄となって多くの建造物が解体もしくは移築されました。

明治18年(1885年)、二の丸御殿が大坂城へ移築されます。

1901年(明治34年)に本丸・二の丸一帯が、和歌山公園として一般開放されました。

旧国宝指定(1935年)

昭和6年(1931年)に国の史跡に指定され、昭和10年(1935年)には、大天守、小天守、北西隅櫓、西南隅櫓、楠門(櫓門)、北東多門(単層櫓)、北西多門(単層櫓)、西多門(単層櫓)、南多門(単層櫓)、東倉庫、西倉庫の11棟が国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定されました。

戦災焼失(1945年7月9日)

1945年(昭和20年)7月9日のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃(和歌山大空襲)により天守などの指定建造物11棟すべてが焼失してしまいました。

再建

1957年(昭和32年)、戦災を超えて残った岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定されます。

翌1958年(昭和33年)、市民からの強い要望により、東京工業大学名誉教授・藤岡通夫の指指導の下、天守群が鉄筋コンクリートにより再建されました。

1983年(昭和58年)には1909年(明治42年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元された。

平成18年(2006年)4月、二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下が復元されました。

 

参考(和歌山城石垣の変遷)

和歌山城は、豊臣期の豊臣秀長の築城に始まり、浅野幸長、徳川頼宣らによる後代の改修を経ているため、その時代によって、使用された石材や積み方の技法の違いが見受けられます。なお、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石があり、模様は約170種類、2100個以上の石に確認されており、その大半が和泉砂石です(他の城と同様に転用石も認められています。)。

豊臣秀長・桑山重晴の時代は、現在の岡公園や和歌浦等で採れる緑色片岩(紀州青石)を中心とした自然石(結晶片岩)を切り出してそのまま積んだ「野面積み」の石垣が作られています。

そのため、豊臣秀長・桑山重晴時代に築かれた山嶺部や岡口付近ではこの野面積みの石垣が多く見られます。

浅野幸長の時代には、友ヶ島等に石切場を整備して用いる石材を砂石(和泉砂石)に代え、石を打ち欠いて加工しはぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られています。

そのため、浅野幸長の時代に築かれた、山嶺部・岡口付近・砂の丸・南の丸以外の箇所では、この打ち込みハギの石垣が多く見られます。

さらに、徳川期には熊野の花崗斑岩を用いて、切石で精密に積んだ「切込みハギ」の石垣が作られています。

そのため、徳川期に築かれた、砂の丸・南の丸では、この切込みハギの石垣が多く見られます。

 

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