【池田城(摂津国)】有岡城攻めの際の織田軍の陣城

池田城(いけだじょう)は、大阪府池田市にあった日本の城です。

建武元年(1334年)前後に現在の池田市にある五月山南麓の丘陵地に、豊島の土着豪族池田教依が築いた後は代々池田氏が城主を務めて拡張を続けました。

荒木村重が織田信長から離反した際、これを討伐するために編成された織田軍の陣城となったことでも有名です。

池田城築城

池田城の立地

池田城は、東西に延びる湯山街道と、南北に延びる猪名川の合流点に近く、水陸交通の結節点として発展した町場である池田の地にある、標高315.1mの五月山の南麓に東西に延びる台地縁辺部に位置する標高50mの高台を利用したに築かれた平山城です。

当時の常識からすると、このような小高い丘ではなく、背後にある五月山に本格的な山城を築くはずではないかとも思われるのですが、五月山に城郭遺構は認められていないため、あえてこの場所が選定されたものと考えられます。

池田城築城(1334年頃?)

池田城は、建武元年(1334年)前後に築城されたと言われていますが、正確なところは不明です。

その後、周辺の荘園の諸職を得て湯山街道沿いの池田から成長し、豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた国人領主であった池田氏の居城として使われました。

築城当初は、主郭部分(本丸に相当する部分)と、これに小さな曲輪が取り付けただけの小規模な城でした。

この頃から主郭の中に枯山水風の庭園が築かれていたことから、当初から池田城が戦闘防御施設兼生活の場所として利用されていたことが伺えます。

池田城拡張

元々、池田城は、主郭とそれに付随する小曲輪があるだけの小規模な城だったのですが、複数回に及ぶ落城を経験した池田城では、その対策として落城後の復興に際してその都度、堀を広げ土塁を設けるなどして防御力の強化がすすめられていきます。

永正5年(1508年)の大物崩れに関連した戦いの後の復興の頃には、主郭に加えて二郭も存在していたようです。

その後、永禄11年(1568年)に織田信長に攻撃されて落城した後、池田城に大変革が起こります。

足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、その後畿内掃討戦を展開し、池田勝正が守る池田城を攻撃してこれを陥落させます。

このとき、敵対したものの池田勝正の武勇を評価した織田信長は、池田勝正に6万石を与えて臣下に組み込むと共にそのまま池田城を任せます。

また、これ以降、池田城にも織田家による築城技術が取り入れられていきます。

織田信長の陣城になる(1578年11月)

瞬く間に畿内を制圧した織田信長でしたが、すぐに畿内各地での三好三人衆との争いが始まります。

これに池田家の内紛が加わり、織田信長に与した池田勝正が、三好三人衆についた池田知正とその重臣であった荒木村重らのクーデターによって池田城(池田家の重臣池田21人衆の1人)から追放されます。

その後、下克上でのし上がって池田城主となった荒木村重は、元亀4年(1573年)3月29日に織田信長に忠誠を誓って単独の摂津守護職を認められます。

こうして摂津国全域を支配下に置いた荒木村重は、居城を池田城から有岡城(このとき、伊丹城から有岡城に改名しています。)に移し、一旦池田城の機能が失われます。

その後、天正6年(1578年)に荒木村重が織田信長に反旗を翻し有岡城に籠城します。

これに対し、織田信長は、高山右近が守る高槻城中川清秀が守る茨木城などを無血開城させるなどして有岡城に迫りますが、有岡城は守りが堅く攻城戦が長期化します。

そのため、織田信長は、同年11月27日に「古池田」、池田城に陣を張って有岡城を囲みます(信長公記)。

なお、池田城は、このときに織田信長の手によって大改築がなされ最終形態になったものと考えられます。

池田城の縄張り

池田城は、大阪府池田市城山町周辺の標高50mの高台に位置し、五月山の南麓の東西に延びる尾根を利用して築かれた平山城です。

西側を崖、北側を杉ヶ谷川で守る構造となっており、取り入れ、開けた東側と南側は堀(最大幅で25.7m、深さ6.5mという大規模なもの)と土塁を配置して防御する梯郭式構造となっています。

そのため、池田城は梯郭式平山城に分類されます。

廃城後現在に至るまでの間に宅地化が進んだため、残念ながらその遺構のほとんどが失われています。

杉ヶ谷川(北側防衛)

西側の崖(西側防衛)

三郭

三郭は、16世紀半ばに主郭から台地続きの東側に開削されて築かれた広大な曲輪です。

三郭内は生活痕跡が乏しく、広い空き地が広がっていたと考えられる曲輪です。

なお、三の丸南西部(現在の逸翁美術館敷地付近))には、池田城の大手が設けられていました。

二郭

二郭は、16世紀初頭(永正5年/1508年ころ)、防御力が弱い東南側を補強されるため、東側及び南側に配された曲輪です。

二郭内には多くの建物跡や遺物が残されており、生活痕跡が強く見られる曲輪です。

主郭(本曲輪)

主郭は、築城当初に開かれた池田城の最重要曲輪です。

台地縁辺部に方形として形成され、後に土塁・堀が整備されていきました。

① 内堀・土塁

② 木橋(復元)

③ 虎口(復元)

主郭虎口は、主郭の南東部に設けられた主郭への入り口です。

池田城の主郭虎口は、元々は直線的なシンプルな構造だったのですが、織田信長の手によって当時の最先端技術が組み込まれ、堀上に設けられた木橋を突破しさらにその後2回の屈折を超えなければならなくなるという強い防衛力を果たす構造に改修されています。

なお、現在は、往時の虎口の北側に位置する東中央部に木橋と大手門が復元されています(虎口も復元されていますが、これも往時とは場所が違います。)。

④ 井戸(復元)

⑤ 礎石(復元)

⑥ 排水溝(復元)

⑦ 枯山水(復元)

⑧ 模擬天守

池田城に天守が築かれたことはありませんが、現在は観光目的で模擬天守が築かれています。

四郭(外郭)

池田勝正が織田信長の臣下に下った後、当時の最先端技術が組み込まれ、広大な外郭が設けられます。

そして、この外郭の中央部に横断する形として能勢街道が外郭内に取り込まれ、この街道に沿って神社や町屋家屋が立ち並んでいたと考えられています。

能勢街道が池田城内に取り込まれたことにより織田家が戦闘状況に陥った場合、池田城で能勢街道を封鎖することが出来ることとなり、移動や兵站上極めて有利な状況となりました(なお、能勢街道が池田城に取り込まれた時期については、池田勝正の時代であったのか、その後の荒木村重の時代であったのかは不明です。)。

池田城廃城

池田城廃城

池田城は、有岡城攻めの際の陣城として長期間に亘る攻城戦の攻撃起点となります。

その後、長期間に亘る戦いの末、天正7年(1579年)11月に有岡城は落城します。

有岡城が落城したことにより池田城の陣城としての役目が終わったため、天正8年(1580年)ころ、池田城は廃城とされたと言われています。

池田城の今

廃城となった池田城ですが、主郭の周囲の堀はよく残されており、その部分については往時を偲ぶことができます。

他方、その他の城域については宅地化が進んでいるため遺構は失われています。

また、主郭内は都市公園として整備され、城郭風の建築が設けられて城風のイメージを醸し出しつつ市民の憩いの場となっています。

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