長きに亘って繰り広げられた源氏と平氏の戦い(治承・寿永の乱)のクライマックスは誰もが知っている壇ノ浦の戦いです。
数年前まで平家にあらずんば人にあらずと唄うほど栄華を極めた平家が、屋島を追われて海上に追い込まれ、遂には次々に海に飛び込んで死んでいった悲しい最期を迎えた戦いでもあります。
本稿では、この平家が滅亡することとなった壇ノ浦の戦いについて見ていきましょう。 “【壇ノ浦の戦い】平家滅亡に至った治承寿永の乱のクライマックス” の続きを読む
日本の歴史をできる限りをわかりやすく
長きに亘って繰り広げられた源氏と平氏の戦い(治承・寿永の乱)のクライマックスは誰もが知っている壇ノ浦の戦いです。
数年前まで平家にあらずんば人にあらずと唄うほど栄華を極めた平家が、屋島を追われて海上に追い込まれ、遂には次々に海に飛び込んで死んでいった悲しい最期を迎えた戦いでもあります。
本稿では、この平家が滅亡することとなった壇ノ浦の戦いについて見ていきましょう。 “【壇ノ浦の戦い】平家滅亡に至った治承寿永の乱のクライマックス” の続きを読む
志度合戦(しどかっせん)は、屋島の戦いに敗れて屋島を失った平家が、一旦東側に逃れて四国での再起を試みた戦いです。
もっとも、志度合戦の決着はあっけなく、度重なる敗戦と屋島の陥落により士気の下がった平家軍は、源義経率いる源氏軍に対し、本格的な戦いをするまでもなく敗退し、結果として四国を源氏に明け渡す結果に至りました。
本稿では、そんな屋島の戦いと壇ノ浦の戦いの架け橋となった志度合戦について見ていきたいと思います。 “【志度合戦】屋島の戦い直後の平家が四国を失った戦い” の続きを読む
屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年(1185年)2月19日に起こった、源頼朝方(源義経)と平家との直接対決の1つです。
平家が滅んだ壇ノ浦の戦いの直前の戦いでもあり、何と言っても「那須与一の扇の的」が有名です。
本稿では、そんな屋島の戦いについて、当時の情勢を追いつつ見ていきたいと思います。 “【屋島の戦い】源義経率いる150騎の奇襲での平家拠点陥落” の続きを読む
一ノ谷の戦いに勝利して福原から平家を追い払った源氏方でしたが、その後も水軍力により瀬戸内に勢力を維持する平家に悩まされ続けます。
困った源頼朝は、瀬戸内の平家の力を削ぐべく、山陽道及び九州の平氏勢力の討伐を決断します。
この山陽道及び九州討伐を任されたのが源範頼でした。
源義経の陰に隠れ認知度が必ずしも高いと言えない源範頼ですが、陸路を通って山陽道を制圧し、九州の平氏勢力と平家本拠地である彦島との分断を成功させ、壇ノ浦の戦いの下準備を整える功績を挙げています(もっとも、少し遅れたタイミングで屋島を華々しく攻略した源義経にスポットが当たりがちですが。)。
本稿では、そんな源範頼の山陽道・九州遠征について見ていきましょう。 “【源範頼の山陽道・九州遠征】平家本拠地・彦島を孤立させた行軍” の続きを読む
木曾義仲に京を追われた平家は、九州に落ち延びるのですが、そこも追われなんとか讃岐国・屋島にたどり着きます。
屋島で勢力を蓄えて福原に入り、いよいよ京を目指そうというところから源平の戦いのクライマックスに入っていきます。
本稿では、そんなクライマックスの前哨戦となる平家都落ちから水島の戦いまでの流れ、言うなれば一ノ谷の戦いのお膳立てについて見ていきたいと思います。 “【平家都落ち】大宰府に逃れた平家が再度京を狙うまで” の続きを読む
一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年(1184年 )2月7日に起こった、源頼朝方(源範頼・源義経)と平家との直接対決の第1段の戦いです
一般に一ノ谷の戦いといわれますが、実際の合戦は、生田口・塩屋口・夢野口などの広範囲に亘って行われており、福原・須磨の戦いとでも言った方が正しいかもしれません。
また、この戦いは、様々な逸話が生まれ、「梶原の二度駆け」、「鵯越の逆落とし」、「熊谷直実による平敦盛討ち取り」など後世にまで語り継がれるエピソードが目白押しです。
以下、一ノ谷の戦いについて、戦いに至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【一ノ谷の戦い】平家復権の夢が打ち砕かれた源平の総力戦” の続きを読む
室町時代の初期頃に60年もの長きに及ぶ内乱期となったことで有名な南北朝時代ですが、その争いは中央(京や吉野付近)だけで起こっていたわけではありません。
中央で起こった朝廷の分裂は全国に伝播し、全国各地の諸勢力が南朝側と北朝側とに分かれて紛争が頻発するようになりました。
この南北朝の争いは、東北地方でも起きており、初期の段階では鎮守府将軍北畠顕家vs奥州総大将斯波家長という構図で繰り広げられていきます。
本稿では、東北地方で起きた南北朝の初期の争いについて見て行きたいと思います。 “【奥州の南北朝の戦い・初期編】鎮守府将軍北畠顕家vs奥州総大将斯波家長” の続きを読む
中先代の乱(なかせんだいのらん)は、鎌倉幕府滅亡に際して死亡した第14代執権・北条高時の遺児である北条時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱です。
先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれています。
中先代の乱は、建武の新政の崩壊、南北朝時代の始まり、足利尊氏による室町幕府成立などのきっかけとなった極めて歴史的意義の大きな戦いです。 “【中先代の乱】足利尊氏が建武政権から離反するきっかけとなった戦い” の続きを読む
青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)は、南北朝時代の延元3年/暦応元年(1338年)1月28日から1月29日にかけて、美濃国・青野原で発生した、南朝方の北畠顕家軍と、北朝方(足利尊氏方)の土岐頼遠らとの戦いです。
後に、天下分け目の関ヶ原の戦いが行われたのと同じ場所で行われた、南北朝時代の決戦です。
なんとかこの戦いに勝利した南朝方の貴公子・北畠顕家でしたが、被った損害も大きく、その後の敗死に繋がってしまう重要な戦いでした。
以下、南北朝時代の関ヶ原とも言える青野原の戦いについて、その発生原因から見ていきましょう。 “【青野原の戦い】北畠顕家の運命を変えた南北朝時代の関ヶ原” の続きを読む
石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、以仁王の令旨を奉じて平家打倒のために立ち上がり、伊豆目代の山木兼隆を討ち取って勢いに乗るはずだった源頼朝が、平家方の大軍に大敗した戦いです。
治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役の1つで、源頼朝の命が風前の灯火となった戦いでもあります。
以下、挙兵直後の苦しい時期の源頼朝の大敗北について見ていきましょう。 “【石橋山の戦い】挙兵直後の源頼朝が大敗した戦い” の続きを読む