【豊臣秀吉が徳川家康討伐を断念した理由】天正大地震により大きく変わった日本の歴史

小牧・長久手の戦いにおいて痛み分けに終わった豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉の名乗りでしたが、本稿では便宜上「豊臣秀吉」の表記で統一します)と徳川家康でしたが、その後も勢力を拡大し続けた豊臣秀吉は、天正13年(1585年)11月、天下統一事業の障害となる徳川家康を討伐するための作戦行動を進めていきます。

この時点の徳川家は、動員兵数が豊臣家の半数に満たない上、小牧・長久手の戦いのときのような秀吉包囲網もなく、さらにはかつて味方であった万単位の兵を動員できる織田信雄が敵に回るという圧倒的に不利な状態で戦わなければならなくなってしまいました。

しかも、直前に徳川家の軍事の全容を知る石川数正が徳川家康の下から出奔して豊臣家に下っているため、内部情報まで豊臣秀吉に筒抜けでした。

こうなると徳川家康に勝ち目があるとは到底考えられず、徳川家滅亡は間違いないと思われました。

そんな状況の中、徳川家ひいては日本の歴史を大きく変える事件が起こります。

天正13年11月29日(1586年1月18日)夜、中部地方を震源とする未曾有の巨大地震(天正地震)が発生したのです。

この巨大地震は、日本の歴史を大きく変えてしまったのですが、本稿では、なぜこの地震が歴史を変えたのかについて順を追って説明していきたいと思います。

痛み分けに終わった秀吉・家康の直接対決

豊臣秀吉と徳川家康の最初の対立

本能寺の変で織田信長が横死した後、謀反人・明智光秀を討った豊臣秀吉が力をつけた豊臣秀吉が、織田信長宿老であった柴田勝家を破り、織田信長三男の織田信孝を切腹させるなどして織田家の乗っ取りを進めていきました。

そして、豊臣秀吉が織田家乗っ取りの総決算として織田信長二男の織田信雄の排除に取り掛かったところで、織田信雄が、豊臣秀吉に対抗するために天正壬午の乱を有利に進めて大きく勢力を強めた徳川家康に接近したことから豊臣秀吉と徳川家康が対立することとなりました。

この結果、織田信雄と徳川家康が反豊臣秀吉を掲げて挙兵したのですが、その際、同じく豊臣秀吉の勢力拡大に危機感を持っていた長宗我部元親・北条氏政・佐々成政・雑賀衆らもこれに呼応して蜂起したため、秀吉包囲網が構築されることとなりました。

小牧・長久手の戦い

後に小牧・長久手の戦いと呼ばれるこの戦いは、豊臣軍が、織田信雄の本拠地であった尾張国に攻め込む形で始まったのですが、機先を制していち早く小牧山城を確保した徳川家康が優位な立場をとることから始まりました。

その後、徳川家康が、徳川家康の拠点の1つである三河国攻撃を目指した豊臣方の池田恒興・森長可らを巧みな戦術で打ち取るなどの局地的戦果を挙げたものの(長久手の戦い)、徳川方に豊臣家の物量を覆すほどの決定力はありませんでした。

他方で、豊臣秀吉としても、尾張国を中心に続いていた徳川家康と豊臣秀吉との戦いが秀吉包囲網により全国に波及し、連動した戦いが北陸・四国・関東など全国各地で行われた結果、全戦力を投入して徳川家康を討ち果たすことができませんでした。

この結果、互いに決定力を欠き、戦線が膠着していたずらに時間だけが過ぎていくこととなりました。

豊臣秀吉と織田信雄との和睦

尾張国戦線が膠着して大きな動きがなくなったところで、豊臣秀吉が奇策に出ます。

徳川家康に手を焼いた豊臣秀吉が、天正12年(1584年)11月11日、織田信雄に対し、伊賀国と伊勢半国の引き渡しを条件に講和を申し入れたのです。

織田信雄が徳川家康に無断でこの申し出を受諾してしまったため、総大将の脱落により戦いの大義名分を失ってしまいます。

そのため、徳川家康は、同年11月17日に小牧山城を出て帰国することとなり、その結果小牧・長久手の戦いが痛み分けで終わります。

この点、小牧・長久手の戦いを総合的に見ると、戦術的には局地戦で勝利を重ねた織田信雄・徳川家康連合軍の勝利と言えるのですが、戦略的に見ると美濃国・伊賀国・伊勢国南部において織田信雄の影響力を排除した豊臣秀吉の勝利と言える戦いとなっています。

豊臣秀吉と徳川家康との和睦

織田信雄との和睦を成立させた豊臣秀吉は、続けて滝川雄利を使者として浜松城に送り、徳川家康の次男である於義丸(後の結城秀康)を豊臣秀吉の養子(豊臣秀吉側の認識は人質)として大坂に迎え入れることで、徳川家康との和睦を果たします。

秀吉包囲網各個撃破

ところが、この織田信雄と徳川家康と豊臣秀吉との講和により、秀吉包囲網を形成していた周辺勢力が困った事態に陥ります。

この講和により尾張方面の安全が確保した豊臣秀吉が、軍を反転させ、包囲網を構成していた勢力の各個撃破作戦を始めたからです。

秀吉包囲網を形成していた各勢力は、個別の勢力としては豊臣家の攻撃を耐え得るほど強大なものではなく、各個攻撃を受けた各勢力が以下のとおり個別撃破されていきました。

紀州征伐(1585年3月)

徳川家康・織田信雄攻めから大阪に戻った豊臣秀吉は、1585年(天正13年)3月、正二位内大臣の叙任を受けた後、同月より10万人もの兵を動員して大坂城をうかがう紀伊国の根来寺・雑賀衆の討伐を開始します。

これに対し、雑賀衆は得意の鉄砲を駆使して豊臣軍に対抗しますが、多勢に無勢で勝負とならず、わずか1ヶ月で豊臣軍に降伏します。

四国征伐(1585年6月)

続けて、豊臣秀吉は、四国で勢力を拡大していた長宗我部元親に対し、讃岐国及び伊予国を差し出して豊臣家に下るよう申し入れます。

これに対し、長宗我部元親が伊予国一国であれば応じるが、2国の譲渡はできないと回答をしたため(長元記)、領土配分問題が解決できずに和睦交渉が決裂します。

そこで、豊臣秀吉は、天正13年(1585年)6月、四国出兵を決定します(四国征伐)。

当初、同年6月3日に豊臣秀吉自ら兵を率いて、四国に向かう予定とされたのですが、越中国の佐々成政がなお健在であったこと、病を得たことなどから、豊臣秀吉の出陣は見送られます。

代わって、弟の豊臣秀長を総大将、甥の豊臣秀次を副将と定め、①豊臣本軍が淡路から阿波へ、②宇喜多軍が備前から讃岐へ、③毛利軍が安芸から伊予へ進行するという3方向作戦にて四国へ進軍することとなりました。

四国に上陸した豊臣軍が、破竹の勢いで長宗我部元親のいる土佐国・岡豊城に向かって進軍していったことから長宗我部方の指揮は一気に低下し、同年8月6日までに長宗我部元親が豊臣秀長の示す停戦条件(豊臣方の仲介者は蜂須賀正勝)を呑んで降伏し、四国征伐が終わります。

富山の役(1585年8月)

さらに、豊臣秀吉は、天正13年(1585年)8月、越中にて抵抗を続ける佐々成政討伐を決定します。

同年8月4日に織田信雄隊が京から越中に向かって出陣し、また同年8月6日には加賀国鳥越に布陣していた前田軍が佐々軍と交戦します。

その後、同年8月7日には、豊臣秀吉自ら軍を率いて京を出陣し、越中に向かっていきました。

道中で佐々方の守りを蹴散らしながら進む豊臣軍が富山城に取り付き、10万人の兵でこれを包囲したところ、同年8月26日に佐々成政が織田信雄を仲介として降伏を申し入れことで大きな合戦に至ることなく富山の役が終わりを迎えます。

徳川領国の疲弊

天候不順による徳川領の疲弊

以上の豊臣秀吉による快進撃の一方で、徳川領では、小牧・長久手の戦いが始まる前である天正11年(1583年)7月に発生した3ヶ月間にも及ぶ大雨により領内が疲弊し(家忠日記では50年来の大水と記載)、さらに小牧・長久手の戦いによる負担がさらに経済状況を悪化させていました。

そのため、徳川領では、小牧・長久手が終わる頃には田畑の荒廃により大規模な飢餓が広がっていくような状況であり、領国の立て直しが急務となっていました。

第一次上田合戦(1585年8月)

豊臣秀吉が越中国の佐々成政討伐(富山の役)に向かっていた天正13年(1585年)8月、豊臣秀吉を牽制する意味もあって、徳川家康は、豊臣方に与する真田家討伐に軍を派遣します。

甲斐国から諏訪道を通って北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開した徳川軍は、合計1200人の兵で真田方は約1200人であったと言われ、上田城(真田昌幸)、戸石城(真田信幸)、矢沢城(矢沢頼康)への攻撃を試みます。

もっとも、真田方の巧みな戦術や、上杉家からの援軍などにより城攻めが難航し、戦線が膠着してしまいました(なお、徳川軍は、この後同年11月の石川数正出奔により戦線が維持できなくなり、撤退をしています。)。

豊臣秀吉による徳川討伐準備

石川数正出奔(1585年11月13日)

小牧・長久手の戦い後の政治状況を有利に進めた豊臣秀吉は、徳川家康に対して人質を差し出して臣従するよう要求します。

この豊臣秀吉からの追加の人質要求に対し、徳川家中では、これを拒絶すべしとする武闘派(本多忠勝など)と、応じるべしとする穏健派(石川数正など)に分かれて議論が錯綜します。

小牧・長久手の戦いの際には勝利をした徳川方でしたが、このような劇的な勝利を繰り返すことは容易ではなかった上、同戦後にさらに戦力差が大きく開いてしまったため、徳川家は苦しい立場に立たされます。

この状況下において議論が繰り返された結果、最終的には、徳川家康の判断により豊臣秀吉の申し出を拒絶し、敵対することに決まります。

ところが、この決定に対し、徳川家滅亡の危険を察知した宿老の石川数正が、天正13年(1585年)11月13日、徳川家から出奔し、10万石を条件として豊臣秀吉の下に下るという事態に発展します。

徳川家の軍事機密を多く知る数正の出奔は徳川家にとって大きな痛手でとなり、家中の動揺が頂点に達します(参州実録御和談記)。

大垣城に兵糧蔵を建築(1585年11月18日)

石川数正を迎え入れて徳川軍の全容を理解した豊臣秀吉は、すぐさま得た情報を基に徳川領侵攻作戦を立案します。

また、豊臣秀吉は、徳川領侵攻準備のため、天正13年(1585年)11月18日、最前線基地となる大垣城に兵糧蔵を建築した上で、15万人分・5000俵とも言われる大量の兵糧の備蓄を開始します(一柳文書)。

徳川家康討伐を決定(1585年11月19日)

その上で、豊臣秀吉は、天正13年(1585年)11月19日、徳川家康討伐を宣言します。

なお、豊臣秀吉から真田昌幸に宛てられた書状に、年内は日がないので年が明けた天正14年(1586年)正月15日までに徳川領侵攻を開始すると記しています(真田昌幸宛書状)。

豊臣軍が大垣城に集結

徳川領侵攻のため、豊臣秀吉は、400万石程度と言われた自領から召集した兵のみならず毛利家・宇喜多家・制圧したばかりの四国勢に動員を命じ、小牧・長久手の戦いを遥かに超える兵の準備を進めていきました。

そして、豊臣秀吉は、これらの兵を兵站基地と定めた大垣城に向かわせ、同城を中心として前線となる城に10万人とも言われる兵を集結させていきました。

これに対し、徳川家では、140万石程度と言われる直轄領から4万人程度(1万石あたり250人と仮定)を動員すると共に、娘の嫁ぎ先であった北条家に援軍要請を行なって迎撃準備を進めていきました。

以上の状況を見ると、徳川家側は、動員兵数が豊臣家の半数に満たない上、小牧長久手の戦いのときのような秀吉包囲網もなく、さらにはかつて味方であった万単位の兵を動員できる織田信雄が敵に回るという圧倒的に不利な状態で戦わなければならなくなってしまいました。

徳川家康に勝ち目があるとは到底考えられません。

徳川攻め決定(1585年11月)

以上の状況下で、天正13年(1585年)11月28日、豊臣秀吉の使者が岡崎城を訪れます。

このとき、豊臣秀吉の使者は、同城に入っていた徳川家康に対し、拒めば豊臣秀吉が大軍を率いて徳川領に侵攻するとして脅しをかけた上、それを避けるために自らの意思で京に上って豊臣秀吉に臣従するよう説得します。

これに対して、徳川家康が、この申し出を拒否したため、豊臣秀吉と徳川家康との対決が決定するに至りました。

天正大地震

天正大地震発生(1585年11月29日)

豊臣秀吉は、徳川領侵攻については自ら指揮をとることを決め、京から出陣してまずは前線基地となっていた大垣城を目指して東進していきました。

ところが、東進していた豊臣秀吉が、道中の坂本城に入っていた際にまさかの事態が起こります。

天正13年11月29日(1586年1月18日)夜、中部地方を震源とする巨大内陸地震が発生したのです。

なお、機械時計のなかった時代であるため正確な時間は不明なのですが、亥刻(家忠日記)、亥下刻(多聞院日記)、子刻(当代記)、4半時過(貝塚御座所日記)などと記載された資料が残されているため夜の23時頃であった考えるのが合理的と思われます。

この地震は、現在の岐阜県から三重県に亘る4つの断層(養老断層・根尾谷断層・阿寺断層・御衣断層)が連動して動くというマグニチュード8(7.8から8.2の間で諸説あり)・最大震度7とも言われる内陸直下型地震であったと考えられており、東海・近畿・北陸に亘る地域に大きな被害をもたらしました。

豊臣秀吉方諸城に大きな被害

そして、この大地震は、西日本を中心に勢力を強めていた豊臣家支配地域に特に甚大な被害をもたらしました。

例を挙げると、飛騨においては、帰雲城城主の内ケ島氏理とその一族郎党は帰雲山の崩壊に巻き込まれ、城もろとも一夜にして滅亡するほどでした。

また、越中国・木舟城を治めていた前田利家の弟である前田秀嗣夫妻が死亡しました。

さらに、近江国・長浜城でも御殿が崩壊し、山内一豊の一人娘であった6歳の与祢が長浜城にて死亡してしまいました(一豊公紀)。

この大地震は、地震そのものによる被害が大きかったのみならず、その後各地で発生した大津波より更なる大きな2次被害が発生しました。

さらに、地震発生が真冬の雪深い時期であったため、寒さや雪が障害となって復興の妨げとなり、更なる3次被害に発展していきました。

豊臣秀吉が徳川家康討伐を断念

地震による豊臣方の被害

天正地震発生時に近江国坂本城に滞在していた豊臣秀吉は、天正地震に驚愕し、直ちに大坂城に逃げ帰って被害状況の確認を行います。

ここで、豊臣秀吉は、天正地震によって兵站基地としていた大垣城が倒壊・焼失し、そこに集めていた15万人分の兵糧などが失われたことを聞かされます。

そればかりか、対徳川最前線となる近畿・中部地方にある領地に甚大な被害が出ているとの報告が次々と届けられます。

こうなると、豊臣秀吉に求められるのは領内復興であり、徳川家康征伐を行う余裕はなくなります。

徳川家康征伐を断念

他方、徳川家康が領する三河以東の被害は相対的にみると被害は大きくありませんでした(三河以東は震度4以下であったと言われています)。

この結果、豊臣秀吉は、自領に甚大な被害が出ている状況下でほぼ無傷の徳川家康(しかも、徳川家は関東の覇者である北条家にあり、その北条家は伊達家とも同盟関係にありました。)を屈服させることは困難であると判断します。

そこで、豊臣秀吉は、武力による徳川家康征伐を諦め、外交政策により徳川家康を臣従させる方法へと政策変更することとします。

徳川家康懐柔へ政策変更

織田信雄による仲裁の動き

そこで、豊臣秀吉は、天正14年(1586年)1月、織田信雄を三河国に派遣して徳川家康と面談させ、豊臣秀吉と徳川家康との仲裁を始めます。

その結果、同年2月8日、豊臣秀吉が徳川家康に対し、徳川家康討伐中止を宣言したため、和睦の動きがまとまり始めます。

豊臣秀吉が妹と母を人質として差し出す

この和睦の動きを逃すまいとした豊臣秀吉は、天正14年(1586年)5月、徳川家康を上洛させるため、その身の安全の保証として、自分の妹である当時44歳であった旭姫(朝日姫)を徳川家康の正室として差し出します。

なお、旭姫は、このとき既に夫(夫としては、佐治日向守【改正三河後風土記】・副田甚兵衛【武家事紀】など諸説あり)がいたのですが、豊臣秀吉は旭姫を当時の夫と離縁させた上で徳川家康に差しています。

この結果、浜松城において徳川家康と旭姫との婚儀が行われたのですが、まだ暗殺の可能性が否定できない徳川家康はなかなか上洛しようとしません。

困った豊臣秀吉は、同年9月、追加で生母である大政所(仲)を追加人質として岡崎城に送ります。

徳川家康としては、それまでは徳川家康に追加の人質を出すように迫っていた豊臣秀吉が、立て続けに自分の近親者を人質として送って来るという真逆の対応をしてきたことに悩まされます。

徳川家康は、同年9月26日、浜松城で上洛の可否について行われた評議の結果、ついに上洛すること(豊臣秀吉に臣従すること)を決めます。

徳川家康が豊臣秀吉に下る(1586年10月)

豊臣秀吉に会うために浜松城を出立した徳川家康は、天正14年(1586年)10月25日に京に入った後、同年10月27日に大坂城で豊臣秀吉に謁見し、諸大名が見守る中で臣従の礼をとります。

これにより、徳川家が豊臣家に下ったことが世に知らしめられ、徳川家が豊臣家により征伐されることもなくなりました。

徳川家康を臣従させることに成功した豊臣秀吉はその後、九州の島津家、関東の北条家を立て続けに打ち負かし、遂に1590年(天正18年)に天下統一を成し遂げます。

他方、結果的には秀吉は家康を軍事力にて完全に屈服させることには失敗しており、不完全な主従関係を維持したまま豊臣政権を確立させ、豊臣秀吉死後に家康の台頭を許してしまうこととなってしまったのですが、これ以降の話は長くなるので別稿に委ねたいと思います。

 

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