北条政村(ほうじょうまさむら)は、鎌倉幕府の独裁的権力者となった第2代執権・北条義時の五男です。
母である伊賀の方が鎌倉幕府を乗っ取ろうとしたクーデター計画した際に、北条政村を神輿として担ぎあげたために粛清の危機にさらされたのですが、兄である北条泰時に救われたことから、以降北条泰時及びその子孫(北条得宗家)に対して忠誠を誓います。
そのため、北条政村は、北条得宗家を支えるために執権・連署等の要職を歴任し、北条一門の宿老となって政村流北条氏の祖となっています。
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北条政村の出自
出生(1205年6月22日)
北条政村は、元久2年(1205年)6月22日、北条義時の五男として生まれます。母は、当時の北条義時の正室(継室)であった伊賀の方です。
北条政村は、五男であったにもかかわらず、通称は四郎と呼ばれます(北条義時の四男である北条有時の通称が、なぜか六郎とされたためです。)。
北条義時にはすでに4人の男子がいたのですが、長男の北条泰時は側室の子で、次男の北条朝時・三男の北条重時の母は正室だったものの比企氏の娘であったために比企能員の乱の後に離別してされ、四男の北条有時は側室の子であったため、北条政村は,北条義時の嫡男となってもよい立場として生まれます。
もっとも、母が現正室である一方で、北条政村が生れたときにはすでに北条義時の長男として北条泰時が鎌倉幕府内で力をつけていたことから、北条政村が北条義時の嫡男として扱われることはありませんでした。
元服(1213年12月28日)
建保元年(1213年)12月28日、御所にて三浦義村を烏帽子親として北条政村の元服の儀が行われ、烏帽子親である三浦義「村」と、北条政村の祖父である北条時「政」からそれぞれ一字を貰い受けて、北条政村と名乗ります。
伊賀氏の変で謀反人になりかける
父・北条義時死去(1224年6月13日)
貞応3年(1224年)6月13日昼頃、鎌倉幕府2代執権であり、鎌倉幕府の実質的トップであった北条義時が死亡します。なお、北条義時の死については、病死説のほか、暗殺されたとする説もあり(明月記・保暦間記など)、その死因ははっきりとはわかっていません。
北条義時が死亡した際、北条義時の長男・北条泰時は六波羅探題として京に滞在し、北条政村は鎌倉にいたのですが、絶対的権力者の死は、次の権力者を目指す者たちの戦いを生みます。
そこで、京にいた北条泰時は、北条義時死亡の報を聞いた翌日である貞応3年(1224年)6月17日未明(丑刻)、急ぎ六波羅を出立して鎌倉に向かいます。
なお、同年6月18日、北条泰時・北条時房不在のまま北条義時の葬儀が行われたのですが、このときの序列は、北条朝時(次男)・北条重時(三男)>北条政村(五男)・北条実泰>北条有時(四男)とされています。
伊賀氏の変
他方、鎌倉にいた伊賀の方(北条義時の継妻・北条政村の母)が、その兄である伊賀光宗と共に、娘婿の一条実雅(藤原実雅)を鎌倉殿に据えた上、北条政村を北条家の長(執権)職に就けて伊賀一族で鎌倉幕府の権力を握ろうと画策を始めます。
言わば鎌倉幕府を伊賀家のものにしようとするクーデター計画です。後妻が娘婿を将軍にしようとするという構造は、先代の北条義時の際に起こった牧氏の変と同一です。
鎌倉を目指して東進していた北条泰時は、伊賀氏のクーデターの動きを聞き、京から鎌倉に直行することはせずに途中で本領のある伊豆国・北条に向かい、貞応3年(1224年)6月26日、北条時房・足利義氏と共に由比ヶ浜の別邸に一泊した後、同年6月27日、鎌倉にあった本邸に入り軍備を整えます。なお、この行為により、北条泰時が北条政村を討つという風説が流れたそうです(吾妻鏡)。
その後、北条泰時は、尼将軍・北条政子からの呼び出しに応じ、同年6月28日、北条政子の自宅に赴き、そこで「軍営御後見」(執権の別名)に就任することとなります(吾妻鏡)。
これは、北条泰時が北条義時の後を継ぐということを意味するものであり、伊賀氏による北条政村を北条家の長とするという計画がとん挫したことを意味する人事でした。
このことを聞いた伊賀光宗は、無血クーデターが失敗に終わったことを知り、軍事クーデターで対抗しようと考えて北条政村の烏帽子親であり御家人の中で屈指の実力を誇る三浦義村を味方につけようと試みます。
ところが、北条政子は、同年7月5日に伊賀光宗と三浦義村が密談していると知ったため、同年7月17日に三浦義村邸を直接訪問して三浦義村にその事実関係を問い質したことから、同年7月18日に三浦義村が北条泰時邸を訪問して釈明する事態に発展し、伊賀氏によるクーデター計画の全容が明らかとなります。
なお、同年閏7月1日に北条泰時邸において三寅・北条政子臨席の宿老会議が開催され、そこに三浦義村が召喚されて改めて事実確認がなされ、事態の収拾がなされることとなりました。
伊賀一族の処断(1224年閏7月)
こうして伊賀氏の陰謀(伊賀氏の変)は頓挫して終わったのですが、鎌倉幕府内において、クーデター謀議者の処罰についての話し合いが行われます。
貞応3年(1224年)閏7月3日、北条政子・北条時房・大江広元らが出席して会議が行われ、伊賀の方と伊賀光宗は流罪とし、一条実雅は京に移して朝廷の裁きに任せるとの判断が下されます。
他方、伊賀の方と伊賀光宗に担ぎ上げられて謀反人と評価された北条政村は、北条泰時の計らいにより処罰を免れます。
なお、伊賀氏謀反の風聞については北条泰時が否定しており、吾妻鏡にも伊賀氏が謀反を企てたとの記載が存在せず、単に北条政子が伊賀氏を処分したことが記載されているに過ぎないことから、伊賀氏の変はその発生自体に異論があり、北条義時の死により自らの影響力が低下することを恐れた北条政子が、北条義時の継室の実家である伊賀氏潰すためにでっち上げた事件とする説もあります。
得宗家を支える一門衆となる
北条政村は、伊賀氏の変で神輿として担がれ謀反人とされたにもかかわらず兄・北条泰時の温情によって許された恩に報いるため、その後、終始、北条得宗家に忠実な姿勢を貫きます。
また、二度とそのような危険にさらされないようにするため、慎重で思慮深い性格を形成していきます。
このような北条政村の姿勢は鎌倉幕府内(北条得宗家)において高く評価され、以下のとおり重用されていきます。
評定衆の1人となる(1239年10月)
延応元年(1239年)10月、35歳となった北条政村は、評定衆の1人に選ばれ、さらにその翌年である仁治元年(1240年)には評定衆の筆頭に就いています。
なお、北条政村の邸宅は、北条氏常盤亭跡(ほうじょうしときわていあと、現在の神奈川県鎌倉市常盤)であったと推測されています。
引付頭人兼務(1249年12月9日)
北条時頼執権時の建長元年(1249年)12月9日、御家人の領地訴訟の迅速・公正をはかるため、評定衆の下に引付衆が設けられたのですが、北条政村はその長(引付頭人)に選ばれます。
連署就任(1256年3月30日)
北条義時以降その嫡流である得宗家が鎌倉幕府の独裁者として君臨していたのですが、第5代執権として権力を手にしていた得宗家の北条時頼が、康元元年(1256年)3月11日、連署であった北条重時が出家してこれを辞任したのを機に、北条重時の異母弟であった北条政村に白羽の矢を立てます。
こうして、52歳となった北条政村は、同日、引付を退任して連署に就任します。
第7代執権就任(1264年8月11日)
その後、北条時頼は、康元元年(1256年)11月22日に病を理由として執権を辞したのですが、自らは病のため執権職を退くが、嫡子北条時宗が幼少だったために一旦極楽寺流の北条長時(第6代執権)に執権を譲ることとするも、北条長時は北条時宗へ繋ぐために北条長時を傀儡して実権を手放さなかったことです。
そのため、北条時頼は、執権職を北条長時に譲って出家したにもかかわらず、その後のフィクサーとして権力を保持し続けたのです。
イメージとしては、天皇職を譲位して上皇(治天の君)として院政を敷くという関係に類似しています。
これは、執権以外の人物が実権を有することを意味し、鎌倉幕府の事実上のトップ=執権という構造が崩れ去ります。
この結果、執権と得宗が分離し、幕府の公的地位である執権よりも北条一門の惣領に過ぎない得宗に実際の権力が移動して執権職が名目的地位に成り下がってしまいました(そのため、この時点から執権が得宗家から輩出させる必要もなくなります。)。
その後、文永元年(1264年)7月3日、北条時頼の傀儡となっていた第6代執権・北条長時が病を理由として出家したため、文永元年(1264年)8月11日、北条時頼が次の傀儡として北条政村を第7代執権に任じます。
こうして、北条政村は、同日、60歳にして第7代執権に就任します(なお、役割は、絶対的権力者であった北条時頼の嫡男である当時14歳であった北条時宗が成長するまでのつなぎです。)。
宗尊親王更迭(1266年6月)
文永3年(1266年)6月(ないし7月)、25歳となった宗尊親王が、その正室である近衛宰子と僧の良基と密通した事件を口実として謀叛の嫌疑をかけられた際、北条政村(執権)・北条時宗(連署)らによる寄合で将軍の解任と京への送還が決定されるという事件が起こります。
なお、この騒動の際に御家人たちが鎌倉に馳せ集まり、名越流北条氏の北条教時が更迭に反対して武装した軍勢を率いて示威行動を行ったのですが、北条政村によってその軽率さを叱責され静止されています。
執権退任・連署再任(1268年3月5日)
文永5年(1268年)になり次期執権として成長を待っていた北条時宗が18歳となったことから、同年3月5日、64歳となった北条政村は、北条時宗に執権職を譲ります。
こうして執権職を辞した北条政村は、そのまま1ランク下がった連署に就任して(侍所別当兼任)執権を補佐する立場にスライドします。なお、執権が連署にスライドした例は他になく、極めて珍しい人事でした。
北条政村の最期
出家(1273年5月18日)
その後も北条政村は得宗家の補佐を続けたのですが、執権・連署を歴任した重要人物であったにもかかわらず、北条政村の晩年の状況等については明らかとなっていません。
そして、北条政村は、文永10年(1273年)5月18日に常葉上人を戒師として出家し、常盤院覚崇を称します。
なお、出家に際し、連署の職は、兄・北条重時の子である北条義政が引き継いでいます。
北条政村死去(1273年5月27日)
その後、北条政村は、文永10年(1273年)5月27日に死去します。享年は69歳でした。
北条政村の死に際して亀山天皇の使者が弔慰のため下向したとされていますが(大日本史)、北条政村がどこに葬られたのか、墓の所在などは明らかになっていません。