【保元の乱】摂関家が凋落し武士が台頭する契機となった朝廷内乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に、天皇家・藤原摂関家・武士が崇徳上皇派と後白河天皇派とに分かれて争った政変です。

誤りをおそれず一言でいうと,保元の乱は、鳥羽上皇の死亡により空席となった治天の君の席を巡る崇徳上皇と後白河天皇との争いです。

院政を行うものを決めるという天皇家の争いに藤原摂関家が肩入れしたことにより複雑化し、ここに武士が参戦したことにより武力による代理戦争に発展します。

結果としては、後白河天皇派が勝利し、崇徳上皇が讃岐国に配流されて終わったのですが、藤原摂関家から謀反人を出したとしてその地位が地に落ちたこと、朝廷の政争を武力で解決したことで武士の存在感が増したことなどの結果をもたらし、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの1つとなった大事件です。

本稿では、そんな保元の乱について、発生に至る経緯から見て行きたいと思います。

保元の乱に至る経緯

天皇家の内紛

(1)鳥羽上皇と崇徳天皇の悪関係(白河上皇の院政期)

保元の乱の遠因は、白河法皇が治天の君として院政を行い絶大な権力を握っていた崇徳天皇治世に遡ります。

崇徳天皇治世は、系図的には、白河上皇が曾祖父、堀河上皇が祖父、鳥羽上皇が父、崇徳上皇が子という縦四代の関係性となっていました。

もっとも、崇徳天皇が、白河上皇と鳥羽上皇の妻・待賢門院との不倫の結果生まれた子であったため、鳥羽上皇は、崇徳上皇を「叔父子」と呼び忌み嫌っていました(そのため、実際は、鳥羽上皇からすると、崇徳上皇は、妻が産んだ子でありながら子ではなく叔父であったのです。)。

この複雑な関係が様々な問題を引き起こしていきます。

(2)鳥羽上皇の策略(鳥羽上皇の院政期)

その後、白河上皇が崩御したことにより、政治の実権を鳥羽上皇が握ることとなるのですが、鳥羽上皇(このころまでに出家していますので、以下、「鳥羽法皇」とします。)は嫌いな崇徳天皇を何とかして貶めてやろうと策をめぐらします(特に、崇徳天皇が将来院政を行って権力を握ることだけは絶対に阻止するつもりです。)。

白河上皇が存命であったときは我慢していた鳥羽法皇は、白河上皇が崩御して自分に権力が来たときから崇徳天皇に牙をむけます。

鳥羽法皇は、まず永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇の異母弟を養子にするとそそのかして崇徳天皇を退位させて、藤原得子(美福門院)との間の実子である体仁親王を近衛天皇として即位させます(崇徳天皇は、近衛天皇を養子にして皇位を継がせると天皇の父となって治天の君として院政を行う権利を得ますので、喜んで譲位に同意します。)。

ところが、ここで鳥羽法皇が予想外の一手を打ちます。

近衛天皇は、崇徳上皇(退位したため、この時点では上皇となっています。)の中宮・藤原聖子の養子であったために崇徳上皇の「皇太子」だったはずなのですが、譲位の宣命に「皇太弟」と記したのです(愚管抄)。

その結果、公的には、近衛天皇は、崇徳上皇の子ではなく弟とされてしまします。

これは、崇徳上皇にとって大問題となります。なぜなら、院政は治天の君である天皇の「父」が行うもので、天皇の「兄」では院政を行うことができないからです。

これにより鳥羽上皇が院政を行う可能性が閉ざされました。

とんでもない嫌がらせです。

当然ですが、権力掌握の道が閉ざされた崇徳上皇の失望は大きく、鳥羽法皇と崇徳上皇の関係はさらに悪化します。

また、鳥羽法皇の寵愛を受けた近衛天皇と崇徳上皇との関係も劣悪となります。

この関係悪化に、朝廷内の貴族達の権力争いが加わり、朝廷では待賢門院派(崇徳上皇派)と美福門院派(鳥羽法皇派)とに二分され、熾烈な権力争いが繰り広げられるようになります。

そして、この両派の対立は朝廷内人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してからは左大臣も空席となったため、大臣ポストが一つのみ(内大臣・藤原頼長)という状況になったため、ここでも少ないポストと事実上の権力を巡る摂関家内の争いも誘発します。

(3)待賢門院派(崇徳上皇派)と美福門院派(鳥羽法皇派)の争い

その後、鳥羽法皇・近衛天皇方は、閑院流三条家や中御門流、村上源氏の公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、勢力を拡大していきます。

他方、翌永治元年(1141年)に得子呪詛の嫌疑で崇徳上皇の母・待賢門院が出家に追い込まれたため、崇徳上皇の外戚である閑院流徳大寺家の勢力は後退します。

(4)摂関家の内紛

ときの関白は藤原忠通であったのですが、後継者に恵まれなかったため異母弟の藤原頼長を養子に迎えていました。

ところが、康治2年(1143年)に藤原忠通に待望の実子・藤原基実が生まれると、自身の摂関の地位を養子・藤原頼長ではなく、実子・藤原基実に継承させようと望むようになり、次第に、兄(養親)・藤原忠実と、弟(養子)・藤原頼長とが対立することになっていきます。この藤原忠通と藤原頼長の争いは、それぞれが娘(藤原忠通の娘=藤原聖子、藤原頼長の娘=藤原多子)を近衛天皇に嫁がせることにより、天皇家をも巻き込んだ争いに発展していきます。

もっとも、いずれもが近衛天皇の子を産むことはなかったため、この争いに決着はつかず、さらに鳥羽法皇が、藤原忠通を関白に留任させながら、藤原頼長に内覧の宣旨を下したことにより、関白と内覧が並立する前代未聞の人事となり、藤原忠通と、藤原頼長との対立はもはや修復不能な段階に入っていきます。

(5)近衛天皇崩御(1155年7月23日)

そんな中、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に冒され、久寿2年(1155年)7月23日に崩御します。

近衛天皇には子がありませんでしたので、近親者から次期天皇を擁立必要があり、候補としては重仁親王(崇徳上皇の子)・守仁親王(鳥羽法皇の孫・崇徳上皇の甥)などの名があがります。

崇徳上皇を天皇の父にして院政を始めさせたくない鳥羽法皇が、重仁親王の即位を全力で阻止しました。

他方、年少である守仁親王を、父親である雅仁親王を飛び越えて即位させるのは妥当ではないとの意見も出ていました。

そこで、王者議定の結果、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王を後白河天皇として即位させることになりました。

この結果、またも子を天皇にすることが出来ず、完全に院政への道が断たれた崇徳上皇の怒りが収まりません。

この崇徳上皇の怒りに、摂関家での勢力争いに敗れつつあった藤原頼長が同調します。

こうして、鳥羽法皇派(美福門院派=鳥羽法皇・後白河天皇・藤原忠通など)に対する反対勢力として、崇徳上皇派(待賢門院派=崇徳上皇・藤原頼長など)の勢力が確立していきます。

(6)鳥羽法皇崩御(1156年7月2日)

そして、ついに崇徳上皇派(待賢門院派=崇徳上皇・藤原忠通など)が立ち上がるきっかけとなる事件が起こります。

保元元年(1156年)5月22日、美福門院派のトップである鳥羽法皇が病に倒れたのです。

美福門院派は、鳥羽法皇の権威を盾に崇徳上皇・藤原頼長らを抑圧していたため、この鳥羽法皇の病は美福門院派にとっての重大な政治的危機となります。

危機を感じた美福門院派は、まず身の安全を図るため、病床の鳥羽法皇が源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて差し出させます。

その上で、同年6月1日、鳥羽法皇のいる鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏の源義朝・源義康に警護させます(『兵範記』7月5日条)。

そして、同年7月2日申の刻(午後4時頃)、絶対的権力を誇った鳥羽法皇は崩御しました。

なお、臨終の直前に崇徳上皇が鳥羽法皇の直前に見舞いに訪れたのですが、鳥羽法皇が側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したためだったため対面が許されず(古事談)、これを聞いた崇徳上皇が憤慨して鳥羽田中殿に引き返したとの逸話が残されています。

美福門院派と待賢門院派の衝突

(1)美福門院派による武士招集

鳥羽法皇が崩御すると、後白河天皇が、待賢門院派(崇徳上皇派)の排除のための行動を開始します。

まず、美福門院派(後白河天皇派)は、保元元年(1156年)7月5日、平清盛・平維繁・源義朝・源義康などを手配した上で、京中の武士の動きを停止する措置を取ります(『兵範記』7月5日条)。

これにより、後白河天皇は、京の軍事力を掌握します。

(2)藤原頼長に謀反の疑いをかける

その上で、後白河天皇は、同年7月8日、藤原忠実・藤原頼長が摂関家荘園から軍兵を集めることを停止する御教書(綸旨)を発布し、さらに蔵人・高階俊成と源義朝の随兵を東三条殿に乱入させて没官します。

この没官は、謀反人に対する財産没収の刑を意味しており、藤原頼長に謀反の罪がかかったことを宣言したものです(藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞でした。)。

もっとも、このころに藤原忠実・藤原頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功し優位に立った後白河天皇らが、藤原忠実・藤原頼長を挑発したものと考えられます。

対応の遅れた藤原頼長は追い詰められ、崇徳上皇派(待賢門院派)は、武力蜂起以外に局面を打開する以外に道がなくなります。

もっとも、上皇や公卿が武力など持っていようはずがありません。

挙兵するためには、武士を手配する必要があります。

待賢門院派(崇徳上皇派)は、後白河天皇が集めた武士の対立勢力となる源為義・源為朝・平忠正などに自分達に味方するよう招集をかけます。

崇徳上皇が白河北殿を占拠

また、崇徳上皇は、強行な行動をとりつつある美福門院派(後白河天皇)の動きを見て鳥羽・田中殿にそのまま留まっていれば拘束される危険もあると考え脱出を決行します。

そして、脱出後に本拠地とするために選んだ場所は白河でした。

白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったのですが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を得るには絶好の場所であると考えたからです。

そして、崇徳上皇は、保元元年(1156年)7月9日夜中、少数の側近に連れられて鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所(白河北殿)に押し入り占拠します(兵範記)。

そして、同年7月10日、この白河北殿に、謀反人の烙印を押されて立場の危うくなった藤原頼長が宇治から参戦してきます。

また、さらに貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・藤原経憲らが、武士では平家弘・源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・源頼憲らが集結してきます。

武士の代理戦争となる

こうして天皇家の権力争いに端を発した朝廷内の紛争は、藤原摂関家を巻き込み、さらにそれぞれの陣営が武士(源氏・平氏)の勢力を招集したために事態が複雑化しています。

具体的には、美福門院派(後白河天皇・藤原忠通)が平清盛・源義朝・源義康らを招集したこと、待賢門院派(崇徳上皇派)が源為義・源為朝・平忠正らを招集したことにより、皇位と朝廷内での地位を巡る政治紛争が、源氏・平氏のお家騒動を誘発し、武士の代理戦争へと繋がっていきます。

河内源氏を例に見ると、棟梁・源為義とその子・源義朝の関係が悪かったのですが(大蔵合戦によりその関係は完全に決裂しています。)、源為義が待賢門院派についたため、対する源義朝が美福門院派につくなどという、それぞれのお家騒動の結果で加勢する派閥を決めるような状態となります。

保元の乱

待賢門院派(崇徳上皇派)の無策

白河北殿に集まった待賢門院派(崇徳上皇派)において、勢い付く美福門院派に対する対応を協議するための軍議が開かれます。

この軍議の場において、源為朝は、まともに戦うと勢力の劣る待賢門院派(崇徳上皇派)に勝ち目はないため、後白河天皇のいる高松殿へ夜襲をかけて勝利に繋げるべきであるとの献策をします。

ところが、戦の何たるかを知らない藤原頼長は、勢力が劣っているのであれば藤原信実率いる興福寺の悪僧集団などの大和からの援軍を待つべきとして、源為朝の献策を退けます。

美福門院派(後白河天皇派)の作戦

他方、美福門院派(後白河天皇派)でも軍議が開かれ、ここでも源義朝・藤原信西が、崇徳上皇のいる堀川北殿への夜襲を献策します。

これに対し、ここでも藤原忠通が逡巡したのですが、源義朝らがこれを押し切ります。

白河北殿夜襲(1156年7月11日)

軍議の結果に従い、保元元年(1156年)7月11日未明、後白河天皇の武士達が高松殿から3軍に分かれて出陣し、崇徳上皇のいる白河北殿を目指します(なお、後白河天皇は神鏡剣璽とともに東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めます。)。

そして、源義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、源義康率いる100余騎が近衛大路を、平清盛率いる300余騎が二条大路を、それぞれ東に向かって進んでいきます。

もっとも、平清盛率いる軍だけ何故か遅延したため、先行して到着した源義朝・源義康らが、同日寅の刻(午前4時頃)頃、白河北殿に攻撃をしかけ戦いが開始します(保元物語では白河北殿の門での激闘とされていますが、実際には鴨川を挟んでの攻防であった可能性もあります。)。

このとき、待賢門院派(崇徳上皇派)の源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍の有力郎等・藤原忠直・山田是行や、源義朝軍に50名を超える死傷者を出したため、美福門院派(後白河天皇派)は一旦の撤退を余儀なくされます。

その後、美福門院派(後白河天皇派)の第二軍(源頼政・源重成・平信兼)が到着するのを待って、白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った上で再攻撃を仕掛けます。

このとき放たれた火が、辰の刻(午前8時頃)に白河北殿に燃え移り、これを見た待賢門院派(崇徳上皇派)は総崩れとなります。

兵が逃亡していく状態となった崇徳上皇や藤原頼長(合戦で首に矢が刺さる重傷を負っています。)は、もはや勝ち目がないと悟って御所を脱出し、戦いは美福門院派(後白河天皇派)の勝利におわります。

戦いに勝利した美福門院派(後白河天皇派)は、残敵掃討のため法勝寺を捜索するとともに、円覚寺にあった源為義の住居を焼き払います。

また、戦勝の報を聞いた後白河天皇は、高松殿に還御します。

他方、待賢門院派(崇徳上皇派)の敗北を聞いた藤原忠実は、宇治から南都(奈良)へ逃亡します。

保元の乱の後

論功行賞

待賢門院派(崇徳上皇派)を駆逐した美福門院派(後白河天皇派)は、直ちに朝廷内での権力構造を作り変えます。

まず、乱のあった保元元年(1156年)7月11日のうちに藤原忠通を藤氏長者とする宣旨を下します。

もっとも、藤氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権がって天皇が任命することはなかったため、外部からの介入を不満北に感じた藤原忠通は、吉日に受けるとして一旦これを辞退しています。

次に、戦功のあった武士に恩賞を与えます。

平清盛は播磨守、源義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に補任され、また、源義朝と源義康は内昇殿を認められています。

戦後処理

(1)崇徳上皇配流

逃亡していた崇徳上皇は、保元元年(1156年)7月12日に出家をした上で、翌同年7月13日、仁和寺に出頭して同母弟の覚性法親王に後白河天皇に対する取り成しを依頼します(この崇徳上皇の出頭により藤原教長や源為義など上皇方の貴族・武士もまた続々と投降しています。)。

もっとも、覚性法親王がこれを断ったため、崇徳上皇は寛遍法務の旧房に移されて源重成の監視下に置かれることとなりました。

そして、同年7月23日、崇徳上皇は、讃岐に配流されることとなり、8年後の長寛2年(1164年)に京に戻ることなく死去しています。

(2)敗れた貴族達の処理

① 藤原頼長

藤原頼長は、合戦で首に矢が刺さる重傷を負い、命からがら木津川をさかのぼって南都まで逃げ延び、助けを求めて藤原忠実に対面を求めるも拒絶されます。

藤原忠実は、自身にも連帯責任が及ばないよう、保元の乱とは無関係であることを示すために頼長を見捨てたのです。

そのため、藤原頼長は、やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、この頃にはもはや手のほどこしようもない程に衰弱しており、そのまま保元元年(1156年)7月14日に死去しています(『兵範記』7月21日条)。

② 藤原教長

保元元年(1156年)7月14日、待賢門院派(崇徳上皇派)方の中心人物であった藤原教長が右大弁らによる取調べを受けます。

そして、厳しい取調べの結果、藤原教長は源為義に対して再三の説得工作を行い自軍に参加させるといった中心的な役割を担ったことの自白を強要されられます。

その結果、藤原教長は、常陸国信太の浮島(現在の茨城県稲敷市浮島)に配流されました。

③ 藤原忠実

直接の武力蜂起には参加しなかったものの藤原忠実もまた当初から藤原頼長と並ぶ謀反の張本人と名指しされていました。

もっとも、摂関家の事実上の総帥である藤原忠実の管理する所領は膨大なものであり、藤原忠実が処罰されることによりこれらが没収されることになれば摂関家の財政基盤が大きく揺らぐこととなります。

そこで、美福門院派(後白河天皇派)について勝利した藤原忠通も、父・藤原忠実の赦免を申し入れます。

これに対し、後白河天皇は、藤原忠通が、天皇からの任命により、藤氏長者となることを受諾することを条件として義絶の際に忠実が取り上げた京極殿領と、泰子の死後に藤原忠実が回収した高陽院領)百余所の荘園目録が送られることとなります。なお、ここで、保元物語によると、このとき藤原忠実の断罪を理由として摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする藤原忠通の間でせめぎ合いがあったとされています。

結局、保元元年(1156年)7月19日、それまでの慣例を無視して、天皇が藤氏長者の人事に介入することで摂関家領荘園はが藤原忠実から藤原忠通に譲渡され没収を免れることとなりました(もっとも、藤原頼長領は没官され、後白河天皇の後院領として、後の長講堂領の基軸となっています。)。

そして、全ての権力と経済的基盤を失った藤原忠実でしたが、高齢と藤原忠通の奔走により罪名宣下を免れ、洛北知足院に幽閉の身となりました。

また、その他の待賢門院派(崇徳上皇派)に加担した貴族達も流罪処分とされ、同年8月3日にそれぞれの配流先へ下っていきました。

(3)敗れた武士達の処理

① 源為義・平忠正斬首

武士に対する処罰はさらに厳しく、保元元年(1156年)7月28日に平忠正が、同年7月30日に源為義と平家弘が一族もろとも斬首されます。

薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活したことについては、疑問の声も上がったのですが(愚管抄)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はおらず、信西の考えるままに刑が執行されました。

② 源為朝配流

保元の乱の後、逃亡に成功していた源為朝も、保元元年(1156年)8月26日、潜伏先の近江国で源重貞に捕らえられます。

もっとも、源為朝はその武勇を惜しまれたため、減刑されて伊豆大島に配流とされるに止まりました(保元物語)。

摂関家の凋落と武士の台頭

以上のとおり、美福門院派と待賢門院派の対立として始まり、美福門院派の後白河天皇の勝利で終わった保元の乱ですが、この乱が朝廷の支配の終焉と武士支配の始まりをもたらすきっかけとなります。

朝廷内の対立が、武力によって解決され得ることが明らかとなってしまったからです。

結局、力が強いものが勝つということになります。

また、この保元の乱が摂関家の凋落をもたらしたことも、理由の1つです。

美福門院派について勝利をおさめた藤原忠通は、関白の地位こそ保持したものの、藤氏長者であった藤原頼長領が没官となったために摂関家の勢力が大きく削がれ、また、武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体された上に、氏長者の宣旨による任命や所領や人事についても天皇に決定権を握られることとなったため、摂関家の政治力は大幅に後退し、政治の中心から外れて行きました。

信西の台頭

没落していく摂関家に代わって政治の主導権を握ったのは後白河天皇の乳母の夫でもある信西でした。

信西は、保元元年(1156年)閏9月18日、保元新制を発布して朝廷の新制度を定めるという国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るうなどしてその権勢を高めて行きます。

また、信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることとなり、この対立が再度の政変と武力衝突である平治の乱へと繋がって行きます。

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