山中城(やまなかじょう)は、関東一円を支配した北条家3代目の北条氏康が、本拠地・小田原城の西側の守りとするため、小田原城の約18km西側に位置する伊豆国田方郡山中(現在の静岡県三島市山中新田)築いた城です。小田原城の支城として箱根旧街道(東海道)を押さえる西の要の城であり、箱根十城にも数えられています。
完全土造りの城で、障子堀や畝堀、角馬出しなどの北条家の築城技術の全てを注ぎ込み、圧巻の土木工事を経て造られた傑作です。
残念ながら完成をみる前に山中城の戦いが起きたために、最大限の運用をすることなく落城した悲運の城でもあります。
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山中城築城の経緯
山中城築城(1558~1570年頃?)
山中城の築城時期は定かではありませんが、永禄年間(1558年〜1570年)に北条氏康によって築かれたと言われています。
武田や上杉に何度も小田原城を脅かされた北条氏康は、その周囲の支城を整備していったのですが、その一環として小田原城の西側防御力強化を図り、箱根旧街道を進軍してくる敵を封じるため、小田原城の約18km西側に築かれたのが山中城です。
山中城の防衛構造
山中城は、箱根旧街道を東進してくる軍勢を迎え撃つために築かれた城ですので、当然箱根旧街道を進軍してくる敵を攻撃するための縄張り構造となっています。
具体的には、箱根旧街道の南側に配置された出丸群(すりばち曲輪・岱崎出丸・御馬場曲輪)と、北側に配置された本城曲輪群(三の丸・二の丸・本丸等)で挟撃して箱根旧街道を進軍してくる敵を殲滅する構造です。
この構造は北条方の他の城でも見られ、例えば小仏峠から武蔵国への侵入経路を守る八王子城でも主要曲輪群と太鼓曲輪群とで街道を挟み込むという山中城と同じ防衛構造をとっています。
山中城改築(1589年~1590年)
豊臣秀吉による小田原征伐軍を迎え撃つため、北条氏政の指示の下でに急ピッチで城の改修が行われます。
もっとも、この改築は間に合わず、完成前に山中城の戦いを迎えています。
縄張り:街道南側出丸曲輪群
畝堀(一之堀)
山中城・出丸曲輪群には、箱根旧街道からやってくる攻城兵が出丸群に取りつくのを防ぐために、出丸曲輪群の北側(箱根旧街道との間)に空堀(畝堀)が張り巡らされています。
すり鉢曲輪
山中城の出丸曲輪群の最西部にある曲輪ですので、山中城が攻められる場合に最初に敵と対峙する曲輪です。
凹んだ中央部から外周の土塁部まで傾斜で連なっており(中心部は緩やかで、外周に近づくと強い傾斜となっています。)、上方から見るとすり鉢のような形に見えることから「すり鉢曲輪」と呼ばれています。
箱根旧街道を通ってくる敵は北側と西側から攻撃してきますので、その被害を最小限とするため虎口は南側に設置され、東側には幅8mの長方形の曲輪を従えて武者溜りとしていました。
岱崎出丸
標高547~557mの地点に築かれた、広さ2万0400㎡に及ぶ広大な曲輪です。
地名である岱崎の名をとって「岱崎出丸」と呼ばれます。
豊臣秀吉による小田原征伐に備えて、天正17年(1589年)から急ピッチで増改築を始めたのですが合戦には間に合わなかったようです。
小田原征伐の際には、山中城の副将を務めた間宮豊前守康俊が守り、壮絶な死闘の上守備兵全員が討ち死にしたと伝えられています。
御馬場曲輪
縄張り:街道北側本城曲輪群
三の丸
三の丸部分も、当時は曲輪が配置され防衛拠点となっていたはずですが、箱根旧街道が中を通っていたことと、街道沿いに民家が立ち並んだことから三の丸の曲輪は破壊され、現在では三の丸の名残しか残っていません。
なお、三の丸跡にある宗閑寺(そうかんじ)境内には、山中城の戦いで討ち死した豊臣方の武将・一柳直末の墓があります。
① 堀(東堀・西堀)
三の丸の東西には畝・あぜ(障子)は設けられていないものの、その深さ・幅・角度で異彩を放つ空堀が張り巡らされています。
② 田尻の池
二の丸下にある田尻の池は、築城時には148㎡の面積を誇り、元々は東側にある箱井戸と共に湿地帯の中にある1つの池だったのですが、山中城築城に際して堀を掘って出た土で区切られたものです。
田尻の池の西側が馬舎と伝えられていることから、田尻の池の水は馬の飲料水や洗い場等の用途で用いられたものと考えられています。
③ 箱井戸
田尻の池が馬用に使われたのに対し、箱井戸は城兵の飲料水として用いられたと言われています。一段高い箱井戸を上水とする運用ですね。
西の丸
西の丸は、山中城の西側の防衛拠点となる3400㎡もの広さを有する広大な曲輪です。
西の丸西端に盛土を積み上げて見張り台を設置し、ここを中心として北・東・西の三方をコの字型にして畝堀と土塁が築かれています。
山中城の戦いの際に、別働隊であった徳川家康の攻撃によって陥落した曲輪です。
① 西木戸
② 畝堀
西の丸内部に攻城兵が取りつくのを防ぐため、西の丸曲輪群の周囲を二の丸に向かう南側を除いて畝堀で取り囲んでいます。
③ 障子堀
前記西の丸を囲む畝堀の中で、山中城の最も有名な観光スポットとなっている障子堀がその北側部に配置されています。
障子堀は、空堀の中を障子状に区切り、上部を移動する敵兵の通路を制限すると共に、穴に落ちた敵を登らせないようにする工夫がなされた畝堀をさらに発展させた複雑な堀です。ベルギーワッフルみたいな形として有名です。
④ 土橋・木橋
西櫓の曲輪を囲む西櫓堀は、約9m間隔による8本の畝によって9区画に区切られています。
そして、そのうちの第9区画(北側区画)に隣接する一段高い平坦面から4本の柱穴が検出されたことから、ここに西櫓(角馬出し)に入るための木橋が架けられていたことが推定されています。
なお、南側は土橋が設置されていました。
⑤ 西櫓(角馬出し)
西の丸から障子彫りを越えた先の前方に突き出た土塁と堀で囲まれた長方形の広場です。
西側の防衛拠点となると共に、防衛と合わせて西櫓に付随する南側土橋と北側木橋を使って反撃すための起点として使われた曲輪です。
馬出して使うという構造上、両端には防衛設備が橋だけとなっていて防衛力の強い曲輪ではないため、相手方に奪われることも想定して奪還しやすいよう西の丸曲輪の側には土塁も堀も設けられていません。
なお、北条家特有のこの四角形の馬出しは、武田家の円弧を描く丸馬出しと対比して「角馬出し(かくうまだし)」と呼ばれています。
⑥ 掘立柱建物
発掘調査の結果、西の丸に掘立柱建物が建てられていたことが明らかとなっています。
⑦ 物見台
二の丸(北条丸)
① 元西櫓
元西櫓は、西の丸と二の丸の間に位置する面積約640㎡の小曲輪です。
堀を掘った土を約1mの高さに盛土の上整地して造られています。
「元」西櫓と命名されているところ、西の丸に「西櫓(角馬出し)」が設置されていることから、山中城築城時には二の丸が山中城の西側端の防衛拠点であったためにその西端に物見の櫓を設置していたが、その後に西の丸が増設されてその機能が西側に移行したと推認すると考えられます(私見ですが)。
② 空堀・木橋
元西櫓と二の丸(北条丸)との間には空堀(畝堀)が配置され、木橋が架けられていました。
③ 虎口
④ 二の丸櫓台
本丸
標高578mにある面積1740㎡の曲輪で、言うまでもなく山中城の最重要曲輪です。
虎口は南側に設置され、北に天守台と北の丸、西に二ノ丸(北条丸)を従え、南側の兵糧庫と接しています。
本丸の周囲には土塁と深い堀が築かれています。
① 本丸西橋
二ノ丸と本丸の間には堀が巡らされており、橋が架けられています。
この橋は、半分が土橋、半分が木橋というとても興味深い造りとなっています。
② 本丸北橋
③ 武器庫・兵糧庫
④ 天守台
⑤ 腰曲輪
北の丸
北の丸は、本丸のすぐ北側にある曲輪です。
北の丸は敵方の進行ルートの逆の最も小田原城に近い方向にあるため、小田原城から駆け付けてきた後詰を城内に招き入れるための役割も果たしていた曲輪だと考えられます。
北の丸野北東角部は高台となっています。
山中城の廃城
山中城の戦い(1590年3月29日)
沼田騒動とそれに続く名胡桃城事件をきっかけとして北条家と豊臣秀吉との関係が決裂すると、豊臣秀吉が北条討伐の準備を始めます。
対する北条方も急ピッチで防衛準備を始め、その一環として小田原城の西側防衛のため山中城の大改修を始めます。
もっとも、山中城の改修は豊臣軍の到着までに終えることができず、天正18年(1590年)、未完成のまま豊臣軍を迎えてしまいます。
東海道を東進してきた豊臣秀次率いる6万8千人の軍勢が山中城に押し寄せ、同年3月29日、中村一氏・田中吉政・堀尾吉晴・一柳直末らを主将として山中城攻撃を開始します。
これを迎える北条方の守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊らで、その兵数は3千人に過ぎませんでした。
兵力差も大きいのですが、山中城が1万人程度の兵で守る規模の城ですので、防衛兵数が圧倒的に足りません。
山中城を維持できないと判断した北条軍は、北条氏勝を小田原に撤退させ、間宮康俊が手勢200を率いて箱根旧街道近辺(三ノ丸~岱崎出丸近辺)で応戦します。
激戦の結果、豊臣方も指揮官の1人であった一柳直末が打ち取られるなど多くの戦死者を出します。
もっとも、大きな戦力差があったこと、山中城が未完成であったことなどから、しばらくすると山中城は力攻めをしてくる豊臣方の大軍に飲み込まれ、わずか半日で落城し山中城の戦いが終わります。
山中城廃城(1590年)
小田原征伐後に関東入封となった徳川家康が、その居城を江戸城に移したため、小田原城防衛の必要性が乏しくなったために廃城とされました。
山中城の現在
現在では、三島市による整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるために盛土による被履の上芝を張って保護するなどの手が入れられているため、畝堀や障子堀の構造が明確に把握でき、北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡となっています(往時の山名城は、関東ローム層むき出しの滑る城だったはずですので、芝がはられた城というのは若干微妙ですが、観光者の安全重視上やむを得ませんね。)。