藤堂高虎(とうどうたかとら)は、何度も主君を変えて出世を繰り返し、伊予今治藩主・伊勢津藩(藤堂家宗家)の初代藩主となった戦国大名です。
何度も主君を幾度も変えたために不忠者のイメージがあるかもしれませんが、自らを重用してくれた豊臣秀長の大和大納言家には最後まで忠義を尽くしており、実は不忠者というわけではありません。
また、藤堂高虎は、黒田孝高・加藤清正と並び称される「築城三名人」として数多くの築城の縄張りを担当し、また高石垣の技術・層塔式天守を考案など当時の築城者の第一人者でもありました。
さらには、外様大名でありながら徳川家康の信頼を得て幕閣にも匹敵する実力を持った稀有な人物でもあります。
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藤堂高虎の出自
出生(1556年1月6日)
藤堂高虎は、弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪であった藤堂虎高の次男として生まれたとされてきました。もっとも、現在では、藤堂家の先祖である藤堂景盛が公家・広橋兼宣に仕える侍であったことが明らかになっており、実際の藤堂家は京にも拠点を有する有力領主であったと考えられています。
母は、多賀良氏の娘であり藤堂忠高の養女でもあった「とら」であり、幼名は「与吉」といいました。
幼少の頃から人並外れた体格を有しており、壮年の乳母の乳では足りず、数人の女性の乳を貰っていたとされています(高山公実録・玉置覚書)。
また、3歳の頃には餅を5〜6個食べることもざらで、ケガをしても痛いと言ったことがなかったと言われています。
さらに、13歳頃には兄である藤堂高則の身長を遥かに超え、最終的には6尺2寸(約190cm)にまで成長します。
初陣(1570年6月28日)
元服して藤堂高虎を名乗ると、足軽として近江国の戦国大名・浅井長政に仕えます。
初陣は、元亀元年(1570年)6月28日に勃発した姉川の戦いであり、父である藤堂虎高と共に磯野員昌隊に属していわゆる「員昌の姉川十一段崩し」に加わるなどの武功を挙げます。
その後、元亀元年(1570年)9月から始まった宇佐山城攻めでも活躍し浅井長政から感状と脇差を受けています。
家督相続(1570年9月)
元亀元年(1570年)9月に兄である藤堂高則が戦死したことから、藤堂高虎は、若くして藤堂家の家督を相続したのですが、天正元年(1573年)に小谷城が陥落して浅井家が織田信長によって滅ぼされたため、主君を失った藤堂高虎は浪人となります。
主君を次々と変える
阿閉貞征に仕える(1573年)
浪人となった藤堂高虎は、浅井家の旧臣であった山本山城主・阿閉貞征に招かれて同人に仕えます。
阿閉貞征家臣時代の藤堂高虎は、渡辺勘兵衛了と交流するなどしたのですが、自分の支持に従わなかった阿閉那多助・広部文平を殺害して阿閉貞征の下から出奔し、再び浪人となります。
阿閉貞征の下を出奔した後の藤堂高虎について、その真偽は不明ですが、出世の白餅という講談・浪曲が伝わっています。
その内容は、以下のとおりです。
近江国を出て三河国・吉田(現在の豊橋市)にたどり着いた藤堂高虎でしたが、あまりの空腹のために吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食してしまいます。
藤堂高虎は、無銭飲食を恥じ、店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪します。
これに対し、彦兵衛は、自らも近江国出身であったこともあって藤堂高虎を不憫に思い、藤堂高虎に対して「故郷に帰って親孝行するように」と諭し、路銀まで与えて送り出します。
その後、大名として出世した藤堂高虎が、参勤交代の途中で吉田屋に立ち寄り、かつての飲食代を支払ったという話です(講談・浪曲「藤堂高虎、出世の白餅」)。
なお、当初「酢漿草」を用いていた藤堂高虎の旗指物が、3つの白い餅を縦に並べた「三つ餅」に変更されているのですが、これは前記人情話にちなんで用いるようになったとも、「城持ち」にかけたとも言われています。
なお、藤堂家では、「藤堂蔦」を家紋とし、後に「蔦」を定紋、「酢漿草」を裏紋または替紋として使用しています。
磯野員昌に仕える
その後近江国に戻った藤堂高虎は、織田家に降伏して近江国高島郡を領していた浅井家旧臣小川城主・磯野員昌に80石で仕えます。
津田信澄に仕える
磯野員昌は織田信長に臣従するに際し織田信長の甥である津田信澄を嗣養子として受け入れさせられていたのですが、次第にその権限を津田信澄に譲渡させられていきます(天正6年2月3日には、磯野員昌が織田信長の意思に背いたとして叱責されて出奔しています。)。
この結果、津田信澄が磯野家を次第に引き継いでいくこととなり、どこかのタイミングで磯野員昌の家臣であった藤堂高虎もまた津田信澄の家臣となります(諸家深秘録)。
もっとも、津田信澄の下では藤堂高虎に対する加恩がなく、また母衣衆の者と喧嘩をして居場所がなくなったことから、藤堂高虎はまたも津田信澄の下から出奔して浪人となります。
豊臣秀長に仕えて大和大納言家家老となる
羽柴秀長に仕える(1576年)
津田信澄の下から出奔した藤堂高虎は、天正4年(1576年)、羽柴秀長(後の豊臣秀長)に300石で仕えます。
そして、羽柴秀長に仕えるに際して、仮名(通称)を与右衛門に改めています(公室年譜略)。
中国攻め従軍
天正5年(1577年)10月、藤堂高虎は、羽柴秀長による但馬国の岩洲城・竹田城攻めに従軍し、居相政貞の案内による竹田城奇襲を成功させた功により1000石加増され足軽大将となります。
また、天正6年(1578年)から始まった三木合戦にも従軍し、天正8年(1580年)正月の鷹の尾城攻めにおいて、当時中国一の剛の者と言われていた別所友之の家老・加古六郎右衛門を討ち取り、その愛馬であった「加古黒」を獲得したエピソードが残されています。
そして、同年正月17日に三木城が落城すると、藤堂高虎もその功を評されて2000石を加増されます。
その後、同年4月に羽柴秀長が再び6400人の兵を率いて但馬攻めを開始して竹田城・水生城・有子山城などの諸城を次々と攻略すると、同年5月には、羽柴秀長が攻略した有子山城主に任じられて但馬国の鎮静化に努めます(なお、戦後、豊臣秀長は但馬国7郡10万5千余石と播磨国2郡を与えられています。)。
このとき、藤堂高虎もまた、但馬国の小代一揆平定に取り掛かる羽柴秀長の指揮下で活躍し、七美郡小路比村の小代大膳ら92名を討つために攻撃を仕掛けたり、蔵垣村の戦いでは落馬の危機にあったりするなどの苦戦を経て、後に羽柴秀長から3000石の加増を受けて鉄砲大将となります。
そして、同年、 一色修理太夫義直の娘を妻に迎えます。
豊臣秀長の下で転戦
本能寺の変が起こった際には羽柴秀長の下で備中高松城水攻めに加わっていたのですが、その後、羽柴軍全軍と共に畿内に戻って山崎の戦いに参戦しています。
なお、天正10年(1582年)12月、豊臣秀長の東寺宛の返書に藤堂高虎が副状を出しているなど藤堂高虎の名が史料に表れるようになってくることから、この頃から有力家臣の立場となっていったことがわかります。
その後も、羽柴秀長の下で武功を挙げ続け、賤ヶ岳の戦いの後には1300石の加増を受けています。
さらに、小牧・長久手の戦いの際には峯城・松ヶ島城攻めに参加し、天正13年(1585年)の紀州征伐では湯川直晴を降伏させるなどの武功を挙げています。
和歌山城普請奉行就任
紀州征伐の功により紀伊国・和泉国64万石を与えられた豊臣秀長が、雑賀城を廃して新たな居城を築城することとし、当時「若山」と呼ばれた現在の和歌山城のある場所を選定して縄張りを行い、同地に築城を開始します。
このとき、豊臣秀長は、藤堂高虎を普請奉行に任命し、羽田正親、横浜良慶をその補佐につけて和歌山城を完成させています(これが藤堂高虎の最初の築城であり。このときに地名が若山から和歌山に改められています。)。
また、豊臣秀長移封に伴い、藤堂高虎にも、紀伊国粉河5000石が与えられました。
大名になる
その後、藤堂高虎は、豊臣秀長が総大将を務めた四国攻めにも従軍して武功を挙げ、戦後5400石の加増を得て、1万石の大名となりました。
また、藤堂高虎は、戦働きだけでなく、和歌山城普請で見せた建築・監督の才も評価されており、京の方広寺に大仏殿を建設する際には材木を熊野から調達する役を命じられています。
また、この頃に横濱一庵や小堀遠州と親しくなり、親戚関係に発展しています。
徳川家康との接点
以上のとおり、豊臣秀長の下で順調に出世を重ねていった藤堂高虎でしたが、徳川家康の娘と池田輝政(池田恒興の子)との結婚の取次ぎを行い、また池田恒興の娘と豊臣秀次との結婚の取次ぎを行うことで、豊臣家と徳川家との橋渡し役を担うようになります。
藤堂高虎は、この過程で、後の天下人たる徳川家康と接点を持つようになります。
また、藤堂高虎は、豊臣秀吉が京に聚楽第を建築し、そこに謁見のための上洛用の徳川家康邸を建築することとなった際、豊臣秀吉が徳川家康邸の建築を豊臣秀長に指示し、これを受けた豊臣秀長が藤堂高虎を作事奉行に任命しました。
このとき、藤堂高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、自らの費用をもって独断で設計の変更を行いました。
この話を聞いた徳川家康は東堂高虎の心遣いに感激し、以降、徳川家康と藤堂高虎との接点が深まっていきました。
そして、この後、藤堂高虎は、徳川家康と直接手紙をやりとりをするようになり、後年の親密な関係の基礎が築かれていきました。
豊臣秀保に仕える(1591年)
天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍し、根白坂の戦いでは島津軍に攻められ苦境に陥った宮部継潤を救援する活躍を見せ、この戦功により2万石に加増されると共に、豊臣秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任しています。
天正17年(1589年)には北山一揆の鎮圧に派遣され、その拠点として赤木城(現在の三重県熊野市紀和町)を築城しています。
天正19年(1591年)1月22日に豊臣秀長が死去すると、その甥であり養子になっていた羽柴秀保(豊臣秀保)に仕えます。
そして、翌天正20年(1592年)から始まった文禄の役には、豊臣秀保の代理として出征しています。
大和豊臣家の断絶(1595年)
ところが、文禄4年(1595年)4月16日に17歳の若さで豊臣秀保が早世します。
まだ若かった豊臣秀保に子はなく、またかつて豊臣秀長の養子であった仙丸もすでに藤堂高虎の養子となって藤堂高吉と名乗っていたために、豊臣秀保の死により大和豊臣家の後継ぎが途絶えます。
そこで、同年5月末には、豊臣秀次の子が大和豊臣家の後継ぎとなることに決まり、その準備として聚楽第から伏見城に移動してその準備に取り掛かります。
ところが、同年7月15日に謀反の罪により豊臣秀次が自害させられたことに伴い、その子の大和豊臣家の相続も取り消され、その結果として大和豊臣家が断絶します。
なお、大和豊臣家が断絶したことを嘆いた藤堂高虎が、かつての大和大納言家当主たちの菩提を弔うために出家して高野山に上ったとの逸話が語られることがありますが、実際には豊臣秀吉の命により豊臣秀次を高野山に送っていったに過ぎず、また一旦は大和豊臣家の相続が決まっていたことからおそらく作り話であると考えられています。
豊臣秀吉に仕える
伊予国板島(宇和島)7万石を領する
その後、藤堂高虎は、伊予国板島(現在の宇和島市)5万石の加増を受け、計7万石の大名となりました。
慶長の役(1597年)
慶長2年(1597年)から慶長の役が始まると、藤堂高虎は水軍を率いてこれに参戦し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げます。
また、南原城の戦いや鳴梁海戦にも参加し、その戦功により帰国後に大洲城1万石を加増されて計8万石の大名となりました。
日本に戻った藤堂高虎は、板島丸串城の大改修を行い、その完成後に城名を宇和島城に改めました。
徳川家康に仕える
徳川家康に接近(1598年)
その後、慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去し、豊臣政権内で武断派と文治派との分裂が起こると、藤堂高虎は武断派大名の1人として行動し、これらの取りまとめを行った徳川家康に急接近していきます。
そして、藤堂高虎は、慶長5年(1600年)の徳川家康による会津征伐に従軍し、その後の河渡川の戦いに参戦するなどして徳川家康麾下の将としての立場を鮮明にしました。
なお、裏切者のイメージが強い藤堂高虎ですが、このときまでは主家を出てから次の仕官をしているために裏切り行為はしておらず、唯一裏切りといい得るがこのときの豊臣方から徳川方への鞍替えです。
関ヶ原の戦い(1600年9月15日)
石田三成と徳川家康との対立が顕在化していくと、近江時代の人脈を利用して脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保らへの内応工作を行います。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦では、大谷吉継を相手に戦い、甥である藤堂高刑が、大谷吉継の家臣・湯浅五助を討ち取る活躍を見せています。
伊予今治藩立藩
関ヶ原の戦いの功績により、戦後、新たに伊予国今治12万石が加増され、計20万石を領する大大名となります。
このとき藤堂高虎は、旧領の板島(宇和島城)には従弟であった藤堂良勝を城代として入れ、自身は板島から今治の地にあった国分山城に本拠地を移して今治藩を立藩します。
そして、今治藩立藩に際し、渡辺勘兵衛了を2万石という破格の待遇で迎えています(なお、渡辺了の長男である渡辺守にも3000石を与えています。)。
もっとも、国分山城が中世山城のために利便性に問題があったため、藤堂高虎は、慶長7年(1602年)、今張浦にて近世城郭建設に着手し、さらに翌年に城下町(現在の今治市街地)建設を始めます。

なお、このときまでの天守は望楼型が主流だったのですが、望楼型は構造上不安定で風や地震に弱く、また必ず屋根裏の階ができるため使い勝手が悪かったため、藤堂高虎は今治城の天守として、新たに矩形の天守台を造成した上でその上に規格化された部材を用いて全体を組み上げるという層塔型を採用しています(今治城が日本最初の層塔型天守です)。
伊勢津藩主として
伊勢国・津藩へ転封(1608年)
その後の慶長13年(1608年)、徳川家康が、豊臣恩顧の大名家であった筒井家が大坂近郊の軍事的要衝地を領していることを嫌い、筒井家を廃して自らの意に沿う大名家を同地に入れ、その者を通じて徳川家による大坂城・豊臣家包囲網の一角を担わせようと考えます。
そこで、徳川家康は、筒井家を改易し、藤堂高虎を空地となった伊賀国内10万石及び伊勢安濃郡・一志郡内10万石に転封します(藤堂高虎の津藩転封)。なお、藤堂高虎が今治から伊賀上野に移った理由としては、慶長の役の際に功を争って対立していた加藤嘉明と不仲であり、藤堂高虎が、加藤嘉明が治める伊予松山藩と隣接する今治の地を嫌ったという私情もあったとも言われています。
このとき伊予国越智郡2万石が藤堂領として残され、養子であった藤堂高吉が今治城主として残ったため、この時点での藤堂領は計22万石となりました。
なお、この後の寛永4年(1627年)に、陸奥会津藩主であった蒲生忠郷が嫡子なく亡くなった際に蒲生家が減封・転封とされる際、ときの将軍・徳川秀忠が空いた会津に藤堂高虎を転封しようとしたのですが、このとき藤堂高虎は老齢のために遠方の守りはできない、代わりに伊予松山の加藤嘉明が適任であると述べてこれを免れています(もっとも、これにより会津に入封された加藤嘉明は、20万石から40万石への大幅加増となり、これに感謝した加藤嘉明と藤堂高虎が和解したとされています「高山公言行録・勢免夫話草」)。
伊賀上野城築城(1611年)
伊賀国に入った藤堂高虎は、伊賀上野城を新たな居城に定め、大和国・紀伊国に睨みをきかせると共に豊臣家包囲網の一角を担うため、慶長16年(1611年)正月からその大改修に着手します。
なお、徳川家康に与する藤堂高虎が伊賀上野城に入ったため、同城がそれまでの筒井家時代の大坂城防衛のための出城という性質から、大坂城攻撃のための橋頭堡となる城という正反対の立場に転じた城となりました。
その後、藤堂高虎は、徳川家康の命を受けて丹波亀山城など次々と豊臣家及び豊臣恩顧大名に対する包囲網となる城の築城を行っていきました。
大坂冬の陣参戦(1614年)
慶長19年(1614年)から始まった大坂冬の陣では徳川方として参加します。
大坂夏の陣参戦(1615年5月)
また、慶長20年(1615年)から始まった大坂夏の陣では、徳川河内路軍の先鋒隊として従軍します。
そして、同年5月6日午前5時頃、藤堂軍右先鋒となった藤堂良勝・藤堂良重らが若江に布陣した木村重成軍に対して攻撃をしかける形で開戦します。
もっとも、この戦いは、木村重成軍の激しい抵抗にあい、藤堂高刑・藤堂良勝・藤堂良重・桑名吉成ら600人が討死するという大惨敗を喫します(若江の戦い)。
また、八尾に布陣した長宗我部盛親・増田盛次軍に対しても、藤堂軍の渡辺了が独断専行による攻撃を仕掛けることで戦いが始まり、結果的は藤堂軍の勝利に終わったものの、渡辺了が7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃を仕掛けたため損害もまた拡大しています(八尾の戦い)。
なお、このとき繰り返された独断攻撃により渡辺了が藤堂高虎や藤堂家重臣らから疎まれるようになり、後に渡辺了が藤堂家を出奔し浪人となる契機となりました。
27万石を領する
大坂の陣で豊臣家が滅亡したため、藤堂高虎にも、その功績として伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石になり、また同年閏6月には従四位下に昇任しました。
徳川家康の遺言
元和2年(1616年)4月1日、病状が悪化した徳川家康は、堀直寄を呼び、国家に万一のことがあれば藤堂高虎を一陣(外様先鋒)、井伊直孝を二陣(譜代先鋒)とせよと遺言したとされています(忠勤録)。
同年4月17日に徳川家康が死去したため、藤堂高虎は、以降第2代将軍徳川秀忠に仕えることとなります。
32万3000石を領する(1617年)
その後、元和3年(1617年)に新たに伊勢国度会郡田丸城5万石が加増されます。
また、弟である藤堂正高が拝領していた下総国内3000石を津藩領に編入したことにより津藩の石高は計32万3000石となりました。
なお、元和5年(1619年)に徳川頼宣が紀州藩主となったことにより田丸5万石は津藩から召し上げられて紀州藩領となり、その替地として津藩には替地として大和国内及び山城国内から計5万石が与えられています。
藤堂高虎の最期
眼病を患う(1623年)
藤堂高虎は、元和9年(1623年)頃から眼病を患います。
また、その他体調の悪化から死期が迫るのを感じつつあった藤堂高虎は、寛永5年(1628年)、大坂の陣の戦没者供養目的で南禅寺三門を再建し、そこに釈迦三尊像及び十六羅漢像を造営・安置しています。
公家成(1625年)
藤堂高虎は、寛永2年(1625年)、従四位下・和泉守に叙せられます。
これは、豊臣譜代が翌寛永3年(1626年)の徳川秀忠・徳川家光上洛に際して一斉に公家成する1年前の出来事であり、かつ豊臣譜代大名の中で最初の公家成であったことから、藤堂高虎が他の豊臣譜代とは一線を画した信頼を得ていたことがわかります。
藤堂高虎死去(1630年10月5日)
藤堂高虎の眼病は悪化を続け、寛永7年(1630年)には失明してしまいます。
そして、藤堂高虎は、寛永7年(1630年)10月5日、江戸の藤堂藩邸にて死去します。享年は74歳でした。
亡くなった後に藤堂高虎の遺体を確認すると、体中疵だらけで、玉疵・鑓疵もあり、右の薬指・小指はちぎれて爪もなく、左の中指も一寸ほど短くなっていて、右足の親指の爪もなかったとされており(平尾留書)、戦場を駆け巡ってきた人生が垣間見える体であったそうです。
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