【日本へのキリスト教伝来→信仰拡大→弾圧の歴史】

キリスト教が日本に伝わったのは、1549年にイエズス会宣教師であったフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航したことに始まると言われています。

仏教や神道などの多神教的考えが一般的であった当時の日本において一神教であるキリスト教の理解は難しく、その布教に苦労したのですが、セットになっていた南蛮貿易の利や天下人への階段を登っていた織田信長が庇護したことなどから次第に日本国内に広がっていきました。

もっとも、仏教・神道と衝突したこと、南蛮貿易において日本人が奴隷商品として海外に売られていると噂が広がったこと、イエズス会がキリスト教布教を植民地政策の一環と捉えているとの噂が広がったことなどから次第に否定的な意見が広がっていきました。

そして、豊臣秀吉によりバテレン追放令が発布されたことで布教が禁止されるに至り、文禄5年(1596年)に起こったサン=フェリペ号事件をきっかけとして本格的な弾圧が始まりました。

その後、江戸時代に入ると、江戸幕府が禁教令を出してキリスト教禁止を徹底したため、江戸時代を通じて表面的にはキリスト教の信仰が失われることとなってしまいました。

キリスト教日本伝来経緯

宗教改革(16世紀)

16世紀、キリスト教の本場であったヨーロッパの神聖ローマ帝国において、マルティン・ルターが唱えた贖宥状への批判をきっかけとして、ヨーロッパ中で教皇位の世俗化・聖職者の堕落などに対する不満が爆発します。

この民衆の不満は、教会体制上の革新運動に発展し、旧教(ローマ・カトリック教会)から新教が分離する事態へと至りました(宗教改革)。

このとき、新教として、プロテスタントが興り、ルターによるルター教会・チューリッヒのツヴィングリ・ジュネーヴのカルヴァンなど、各都市による改革派教会などが次々と成立していきました。

他方、プロテスタントの拡大によりヨーロッパ中で権威・信者を失った旧教(カトリック)は、信者からの献金額が低下し、経済的な大打撃を被ることになりました。

宗教改革後のカトリック教会の世界戦略

信者を失って経済的に苦しくなったカトリック教会は、ヨーロッパで失われた経済力をアメリカ大陸やアジアで信者を獲得することで補完するという世界戦略を打ち立てます(なお、この頃、カトリック国であるスペインとポルトガルが勝手に世界の植民地区割りをしており、両国の取り決めにより日本はポルトガルの支配領域とされていました。)。

そして、この世界戦略一環として行われたカトリック教会のアジア進出は、まずは、すでに植民地化が進んでいたインドや東南アジアにカトリック宣教師が大量に送り込まれ、布教活動が進められていきました。

日本への鉄砲伝来(1543年)

カトリック教会による布教活動は、貿易及び植民地獲得という経済活動とセットで行われながら次第にその範囲を拡大させていき、やがて東南アジアを経てさらに中国にまで広がっていきました。

さらに、その後、スペイン・ポルトガル両国の取り決めに従って、日本にもポルトガル船が向かってきました。

そして、天文12年(1543年)8月25日、100人余りの乗客とポルトガル商人が乗った船が、大隅国種子島西村の小浦(現在の前之浜)に漂着することでついに日本にも到達します。

日本に到着したこのポルトガル船には火縄銃が乗せられていたところ、これに興味を持った種子島領主・種子島時堯が当該商人から火縄銃2挺を買い求めました。

そして、その後、日本国内で製造技術・火薬調合法・射撃法などが学ばれたことにより軍事的な大変革が起こり(鉄炮記)、日本の戦争を一変させる新兵器が生れることとなります。

もっとも、当時の日本では火薬の材料となる硝石が採れなかったため、この鉄砲を利用するために大名達がこぞって南蛮人との貿易を求めるようになります。

南蛮貿易の始まり(16世紀後半)

その結果、この直後から主に九州各地でカトリック国であるスペイン・ポルトガルとの貿易が始まることとなりました(ちょうど、1549年に明国との勘合貿易が途絶えてしまったため、スペイン・ポルトガルが明に代わる主要貿易相手国となるに至ったのです。)。

なお、スペイン・ポルトガルは、日本以外の国では南蛮貿易についてカトリックの布教や植民地化と同時並行で行っていたのですが、日本が余りにもスペイン・ポルトガル本国から遠く離れていたため、日本への布教については、本国からの経済的・軍事的支援がなされることはなく、日本が直接的な植民地政策の対象とされませんでした。

イエズス会の主な宣教師の布教活動

以上の結果、キリスト教布教は南蛮貿易とセットで始まることとなったのですが、南蛮貿易がもたらす莫大な利益を目にした大名達が、利をもたらす宣教師たちを歓迎していくようになります。

そして、来日した宣教師たちもまた、布教を始めようとする土地の大名などの有力武将と会見し、南蛮貿易の利益などを訴えて布教許可を取り、その庇護を受けることにより布教を進める方法をとるようになりました。

以下、主要な来日宣教師の活動の概略を説明します。

フランシスコ・ザビエル(1549年~1551年)

(1)ポルトガルからインドへ

日本に最初にキリスト教を伝えたのは、フランシスコ・ザビエル(スペイン名ハビエル→現地の呼び名シャビエル→日本読みザビエル)です。

フランシスコ・ザビエルは、1525年に名門パリ大学に留学し、1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラらと共に7人でイエズス会を創設したイエズス会の発起人の1人です(モンマルトルの誓い)。

新設されたイエズス会に目をつけた当時のポルトガル王であったジョアン3世が、ヨーロッパで失われた信者の穴埋めをするために当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに行き信者を獲得するよう命じたのが日本布教の端緒となりました。

王命に従ってヨーロッパを出たフランシスコ・ザビエルは、1542年5月6日にゴアに到着し、同地を拠点としてインド各地で布教活動を行います(1545年9月にマラッカ、1546年1月にはモルッカ諸島でも布教活動をしています)。

その後、マラッカに戻ったフランシスコ・ザビエルは、1547年12月、罪人として日本を追われて逃れてきた薩摩国または大隅国出身の武士・ヤジロウ(安次郎)に出会い、彼の話を聞いて日本行きを決断することとなりました。

(2)鹿児島上陸(1549年8月18日)

その後、1548年11月にゴアで宣教監督となったフランシスコ・ザビエルは、1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父・フアン・フェルナンデス修道士・中国人マヌエル・インド人アマドール・日本人3人(ヤジロウ含む)を連れてジャンク船に乗り込んでゴアを出発し、日本に向かいました。

そして、ザビエルら一行は、明国上川島(現在の広東省江門市台山)を経由した後、ヤジロウの案内で薩摩半島の坊津湊(現在の鹿児島県南さつま市)に寄港して同地を治めていた島津貴久から上陸許可を獲得し、天文18年(1549年)7月22日に現在の鹿児島市祇園之洲町に上陸を果たしました。

日本に降り立ったフランシスコ・ザビエルは、同年9月、伊集院城(一宇治城・現在の鹿児島県日置市伊集院町大田)に赴いて島津貴久に謁見し、キリスト教布教許可を獲得し、以降、薩摩国において布教活動を開始します。

(3)京に向かう

ところが、その後、仏教僧侶の話を聞いた島津貴久がキリスト教禁教の意向を持ち始めたことから(仏教徒とキリスト教徒との対立を気遣った島津貴久のはからいであるとの説もあります)、フランシスコ・ザビエルは、同地での布教が困難となると判断して薩摩国を離れることとしました。

薩摩を出たザビエルは、天文19年(1550年)8月に平戸に入った後、同年11月に周防国に入って無許可布教を始めます。

周防国内において布教活動を続けていたフランシスコ・ザビエルは、しばらくした後、周防国を治める大内義隆に謁見する機会を得たのですが、そこで大内義隆に対して衆道(男色)を罪とするキリスト教の教えを説いたためにその怒りを買う結果となってしまいました。

領主の怒りを買ったために周防国にいられなくなってしまったフランシスコ・ザビエルは、京に向かうために同年12月17日に周防を発ち、岩国から海路に切り替えて東進し、に上陸することとなりました。

そして、天文20年(1551年)1月、フランシスコ・ザビエル一行は、堺の豪商であった日比屋了珪の支援を受けて京に入り、同地で小西隆佐の歓待を受けた後、後奈良天皇及び室町幕府第13代征夷大将軍足利義輝への拝謁を請願します。

ところが、このときは足利義輝が三好長慶に追われて京から脱出していたため、将軍との謁見は不可能でした。

また、フランシスコ・ザビエルは、度重なる戦乱で疲弊しきっている京の惨状を目にして、同地を治めていたはずの天皇の権威が為政者としての権威を失っていたことを認識したため、布教の許可をもらっても無意味と考えて天皇の庇護の取り付けを取りやめました。

以上の結果、フランシスコ・ザビエルは、京にて日本の為政者(天皇または将軍)から布教許可を取り付けるという目的を達することができませんでした。

(4)山口での布教活動(1551年4月)

失意のうちに京を出たザビエルは、一旦平戸に戻った後、再度大内氏の城下町であった山口に戻り、天文20年(1551年)4月下旬に再び大内義隆に謁見し、天皇に捧呈するために用意していた献上品を渡すことで布教許可を獲得します。

また、献上品を喜んだ大内義隆が廃寺となっていた大道寺をフランシスコ・ザビエルの住居兼教会として与えたことから、これが日本最初の常設教会堂として使用されるに至りました。

フランシスコ・ザビエルは、与えられた大道寺において、一日二度の説教を行い、その結果として約2ヵ月で信徒数は約500人もの信者を得ることに成功しました。

(5)豊後国での布教活動(1551年9月)

周防国で布教活動を続けていたフランシスコ・ザビエルでしたが、豊後国府内(現在の大分市)に新たなポルトガル船が来着したとの報告を受けます。

この話を聞いたフランシスコ・ザビエルは、遅れて日本に到着した宣教師達の助けとなるために豊後国に赴く決断をします。

そこで、フランシスコ・ザビエルは、周防国での布教活動をトーレスに委ね、自らは同地を発って、天文20年(1551年)9月、豊後国に入ります。

豊後国に入ったフランシスコ・ザビエルは、同地を治める大友義鎮(後の大友宗麟)に迎えられて布教の許可を獲得し、その保護の下で豊後国内での布教活動を始めました。なお、1552年に貿易目的で肥前国の平戸に来日した後、日本とマカオを行き来して巨万の富を手にしたルイス・デ・アルメイダが、府内にとどまり、同年に私財を投じて乳児院を、1557年に外科・内科・ハンセン病科を備えた日本初の西洋医学総合病院を建てています。

日本での布教活動を続けたフランシスコ・ザビエルでしたが、一旦ゴアに戻ることとし、豊後の布教をトーレス神父とフェルナンデス修道士らに任せた上で、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼し、自身は、同年11月15日、日本人青年4人(ベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を連れて日本から出国します。

なお、その後の1552年2月15日にゴアに到着したフランシスコ・ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた後、中国での布教を目指して広東・上川島に上陸したのですが、本土を目前にして病没してしまいました。

ガスパル・ヴィレラ(1556年~1570年)

ザビエルからの依頼に応え、優秀な人材が南蛮から日本に送られるようになります。

弘治2年(1556年)、ガスパル・ヴィレラが豊後国府内(現大分県大分市)に上陸し、同地で布教活動を開始します。

その後、平戸に移ったガスパル・ヴィレラは、永禄元年(1558年)からバルタザール・ガーゴ神父に代わって平戸での布教を担当し約1500人に洗礼しました。

もっとも、同地で仏教徒と対立し、領主松浦隆信によって退去を命じられたため、府内に戻ります。

そして、府内においてコスメ・デ・トーレスの指示を受け、京に向かうこととなりました。

永禄2年(1559年)、日本人ロレンソに連れられて京に入り、翌永禄3年(1560年)、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見して砂時計を献上し、大友義鎮・伊勢貞孝の口添えもあって京でのキリスト教宣教許可の制札を獲得しました。

四条坊門姥柳町に定住して布教を始めたガスパル・ヴィレラでしたが、永禄8年(1565年)に足利義輝が暗殺されたことにより(永禄の変)、その庇護を受けていたガスパル・ヴィレラもまた三好家によって京から追放され、当時自治として安全が保障されていた堺に逃れた後、永禄8年(1566年)に九州に戻っています。

そして、元亀元年(1570年)にインドに渡り、その2年後にゴアで病没しています。

ルイス・フロイス(1563年~1597年)

(1)肥前来航(1563年)

ルイス・フロイスは、永禄6年(1563年)、当時大村領であった肥前国彼杵郡・横瀬浦(現在の長崎県西海市北部)に上陸します。

同地で活動を開始したルイス・フロイスでしたが、大村純忠と後藤貴明の争いによって横瀬浦が破壊される事件が発生したことから、他の宣教師達と共に平戸に近い度島に避難し、同地で日本語や日本文化を学んで布教活動の準備を進めていきました。

そして、永禄7年(1564年)、コスメ・デ・トーレスの指示を受けたアルメイダ修道士が、度島を訪れてルイス・フロイスに京に向かうよう指示したため、その指示に従ってルイス・フロイスは京に向かうこととなりました。

(2)上洛(1565年)

ルイス・フロイスは、永禄7年12月29日(1565年1月31日)に入京し、室町幕府の庇護を受けて同地で布教活動を行っていたガスパル・ヴィレラ・日本人修道士ロレンソ了斎らに合流します。

もっとも、室町幕府第13代将軍であった足利義輝が永禄の変により殺害されるたため(永禄の変)、庇護者を失ったルイス・フロイスを含めた宣教師たちが京を追われることとなり、堺の町への避難を強いられました。

ルイス・フロイスは、ガスパル・ヴィレラらと共に堺の町に入り、同地で共に布教を始めたのですが、永禄8年(1566年)にガスパル・ヴィレラが九州に戻ってしまったため、以降、ルイス・フロイスが畿内地域の布教責任者を務めることととなりました。

(3)織田信長の庇護下に入る(1569年)

その後、織田信長が、足利義昭を奉じて上洛、畿内周辺から三好家勢力を駆逐します。

織田信長は、比叡山延暦寺延暦寺焼討)や石山本願寺石山戦争)との戦いを繰り返していたことにより既存の仏教勢力に対して強い不信感を持っていたため、ルイス・フロイスは事態が好転したと判断します。

そこで、ルイス・フロイスは、永禄12年(1569年)に上京し、当時新たに建設中であった二条御所に赴いて織田信長と対面を果たします。

この時点ではキリスト教についての深い知識を持っていなかった織田信長でしたが、堕落した仏教に失望していたことや、日本にはない技術・思想等に興味を示し、ルイス・フロイスに対して畿内でのキリスト教布教を許可します

織田信長の庇護を受けたルイス・フロイスは、畿内において、オルガンティノらと共に布教活動を行っていきました(その後、僧侶たちが生き延びるために寺院を宣教師に売却するなどしたため、購入した宣教師がこれを礼拝所として利用することで活発な布教活動が行われました。)。

その後、天正8年(1580年)に巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーニが来日したため、ルイス・フロイスは一旦九州に戻り、通訳としてその視察に同行し、安土城で織田信長にも再度拝謁しています。

(4)執筆活動

ルイス・フロイスは、天正11年(1583年)に本国から日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられたため、布教から離れ、全国をめぐって見聞を広めるなどして執筆活動に注力していきました。

このこともあり、ルイス・フロイスは、「イエズス会日本通信」・「日欧文化比較(ヨーロッパ文化と日本文化)」・「日本史」などの多くの著作を残しているのですが、織田信長の庇護の下で活動していたためその著作中においては異教徒であるにもかかわらず織田信長を好意的に描いています。なお、ルイス・フロイスが記した日本史は、原本は不明で写本のみが複数見つかっており、発見された写本では現時点では1549年のサビエルの来日から1593年までの記録が残されています。

(5)伴天連追放令後

天正10年(1582年)に織田信長が横死し、その後、家中の争いを制した豊臣秀吉が台頭してきます。

当初、豊臣秀吉は、織田信長の対イエズス会政策を継承してこれを保護していたのですが、キリシタン勢力拡大による仏教や神道への攻撃や、日本人の奴隷売買などに危機感を抱くようになり、天正15年(1587年)6月19日には伴天連追放令を出してキリスト教宣教と南蛮貿易の禁制文書を発給しました。

この結果、布教を禁じられたルイス・フロイスは、畿内を出て加津佐に逃れ、その後、大村領長崎に落ち着きます。

その後、天正18年(1590年)、ヴァリニャーニが天正遣欧使節を伴って帰国したため、ルイス・フロイスもこれに同行して再度上洛し、聚楽第で豊臣秀吉と会見しています。

また、文禄元年(1592年)には、ヴァリニャーニとともに一時マカオに渡った後、文禄4年(1595年)に長崎に戻ると 、「二十六聖人の殉教記録」を執筆します(慶長2年/1597年完成)。

その後、慶長2年(1597年)5月24日、大村領長崎のコレジオにて65歳の生涯を終えました

オルガンティノ(1570年~1609年)

(1)京での布教活動

オルガンティノは、元亀元年(1570年)5月15日、天草志岐に上陸します。

来日したオルガンティノは、まずは日本語や日本の文化(天正元年/1573年~天正2年/1574年は法華経を研究)を学び、天正5年(1577年)からはルイス・フロイスと共に京での布教を担当しました。

明るく気さくな人柄であり、また米を食べ袈裟用の着物を着るなどの適応主義を採用したことから京の人に受け入れられ、オルガンティノ着任後わずか3年で畿内の信者数を10倍に増やしたと言われています(1500人→1万5000人)。なお、オルガンティノの人柄は、オルガンティノと共に来日したものの日本文化に否定的・日本人に差別的な当時の南蛮人の典型思想を持っていたため日本人に嫌われて九州布教責任者を解任されたたカトリック教会司祭・フランシスコ・カブラルとは対照的なものでした。

(2)南蛮寺・セミナリヨ建設

オルガンティノは、天正4年(1576年)に京に聖母被昇天教会(南蛮寺)建設し、さらなる布教を進めます。

その後、天正8年(1580年)には、織田信長から安土に土地を与えられ、同地にセミナリヨ(神学校)を建設しています。

セミナリヨ完成後には、オルガンティノはセミナリヨの院長として働き、高山右近が治める高槻のキリシタンなどがキリスト教を学びました。

もっとも、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に安土城が焼かれたため、安土のセミナリヨは放棄されました。

天正11年(1583年)、新たに天下人の階段を登る豊臣秀吉に謁見し、新たなセミナリヨの土地を願って一旦は大坂に用地が与えられたものの、最終的には高山右近領である高槻に建設されることとなりました。

(3)伴天連追放令後

天正15年(1587年)6月19日に伴天連追放令が出されると、京の南蛮寺・高槻のセミナリヨが打ち壊されてしまいます。

このとき信仰を捨てなかった高山右近は改易され、オルガンティノは高山右近とともに表面上棄教した小西行長領である小豆島に逃れ、同地から京の信徒を指導する形を取りました。

天正16年(1588年)に高山右近が加賀国に招かれたことにより小豆島を離れると、オルガンティノもまた小豆島を離れて九州に向かいました。

天正19年(1591年)、帰国した天正遣欧少年使節と共に豊臣秀吉に拝謁し、前田玄以のとりなしによって再び京在住を許されました。

慶長2年(1597年)に日本二十六聖人殉教事件が起こり、京で同人らの耳朶が切り落とされると、オルガンティノが大坂奉行からこれを受け取り、涙を流しました。

その後、オルガンティノは、慶長10年(1605年)に長崎のコレジオに移った後に病を患い、慶長14年(1609年)に76歳で没しました。

ヴァリニャーニ(1579年~1582年、1590年〜1603年)

(1)適応主義

ヴァリニャーニは、天正7年(1579年)7月25日、肥前国口ノ津港 (現在の長崎県南島原市) に上陸します。

日本に降り立ったヴァリニャーニは、ヨーロッパのやり方を押し通すフランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会とは異なり、日本文化に自分たちを適応させるという「適応主義」と呼ばれる方法をとって日本での布教を開始します(当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルによるアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしているとして、同人を日本から追放しています。)。

その後、巡察師として日本各地を訪れたヴァリニャーニは、大友宗麟・高山右近・織田信長らと次々に謁見を果たし、織田信長から黒人を見たいと言われた際には、後に「弥助」と名付けられた1人の黒人奴隷を織田信長に献上しています。

(2)日本人司祭育成

日本人の資質を高く評価したヴァリニャーニは、日本国内への布教を加速させるため、日本人司祭の育成が必要であると考えました。

そこで、日本人司祭育成のために教育機関を設けることとし、天正8年(1580年)に肥前国有馬(現在の長崎県南島原市)と近江国安土(現在の滋賀県近江八幡市安土町)に小神学校(セミナリヨ)を設立します。

また、同年、豊後国臼杵にイエズス会入会の初期修練のための施設となる修練院(ノビシャド)を設置しました。

さらに、天正9年(1581年)には、豊後国府内(現在の大分市)大神学校(コレジオ)を設立しました。

これらの学校では、ラテン語・日本語、哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育のみならず、日本の古典までもが必修科目とされ、明治以降の学校教育の先取りともいえる教育が行われました。

加えて、ヴァリニャーニは、ポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的・経済的援助を求める目的に加え、将来の日本布教の中心となりうる少年たちに直接ヨーロッパを見せ、さらなる布教の推進剤にしようと考え、少年たちをヨーロッパに送る天正遣欧使節を企画しました。

そして、イエズス会員に伴われてヨーロッパに向かった四人の少年たち(伊東マンショ、原マルティノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)は、ヨーロッパ各地で熱狂的な歓迎を受け、使節の企画は大成功を収めました。

(3)再来日

ヴァリニャーニは、天正18年(1590年)、帰国することとなった遣欧使節を伴って最来日し、天正19年(1591年)には、聚楽第で豊臣秀吉に謁見しています。

なお、ヴァリニャーニは、慶長8年(1603年)に出国し、慶長11年(1606年)にマカオでその生涯を終え、同地の聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されています。

キリシタン大名の誕生と増加

九州の主なキリシタン大名

天文18年(1549年)に来日し、九州から布教活動を開始することとにったフランシスコ・ザビエルは、まずは各地領主に領内での布教の許可を求めました。

このとき、領内での布教を円滑に進めるため、大名自身に対する布教も積極的に行いました(この方法は、後から来日した宣教師たちにも引き継がれています。)。

もっとも、当初は、言語の相互不理解があったことに加えて、日本では「外来の宗教と言えば仏教」という考えが強かったこと、ザビエルらが仏教発祥の地であるインド(天竺)から来たこと、ヤジロウが聖書のデウス(神)を「大日」と訳したことなどから、キリスト教は仏教の一派と誤解され、「天竺教」「南蛮宗」などと呼ばれました(そのため、宣教師達は、仏教用語をできるだけ廃した「原語主義」を採用していくこととなります)。

この点、宣教師達は、布教許可を求める際、領主の歓心を得るために南蛮貿易や武器・弾薬・硝石などの提供を申し出たことから、これらの獲得を目的としてキリスト教に入信する者が現れ始めました。

当然ですが、領主がキリスト教徒となった場合(キリシタン大名)、当該領内ではキリスト教の布教が容易となります。

(1)大村純忠(1563年)

大村純忠は、肥前国の一部を治めた戦国大名です。

永禄4年(1561年)に平戸・宮の前で、ポルトガル商人と日本人商人が争論となり、ポルトガル人が殺傷される事件(宮ノ前事件)が起こり、住居を追われることとなったポルトガル人が新しい港を探し始めました。

永禄5年(1562年)、イエズス会宣教師がポルトガル商人に対して大きな影響力を持つことを知った大村純忠が、自領内の横瀬浦の提供をイエズス会に申し出ました。

その後、南蛮貿易により横瀬浦が潤っていくのを見た大村純忠は、キリスト教に傾頭していくようになります。

そして、大村純忠は、永禄6年(1563年)に家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領内においてキリスト教の信仰を奨励していきました。

その結果、最盛期の大村領内では6万人ものキリスト者数が生まれたと言われています。

その後、大村純忠は、天正10年(1582年)にヴァリニャーニと対面し、甥の千々石ミゲルを名代とする天正遣欧少年使節の派遣を決めています。

(2)大友義鎮(1578年7月)

大友義鎮(宗麟)は、豊前国・筑前国両国守護職及び九州探題を務めた九州北部の大大名です。

天文20年(1551年)9月に、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルを受け入れたことからキリスト教との関わりが始まりました。

永禄10年(1567年)に豊前国・筑前国で国人衆が蜂起する事件が発生した際には、宣教師達に火薬の原料である硝石の輸入を要請しています。

その後、天正6年(1578年)7月に宣教師フランシスコ・カブラルから洗礼を受け、ドン・フランシスコと呼ばれました。

もっとも、大友義鎮(宗麟)にキリスト教の教義に対する信仰意思はあまりなく、洗礼により得られる通商利益・軍事支援が目的であったと考えられています。

(3)有馬晴信(1580年)

有馬晴信は、肥前国の一部を治めた戦国大名であり、大村純忠の甥にあたります。

大村純忠の勧めもあり、天正8年(1580年)に洗礼を受けてドン・プロタジオと呼ばれました。

天正10年(1582年)には大友宗麟や大村純忠とともに天正遣欧少年使節の派遣に協力しています。

また、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いの際には、戦いに先立って長崎近傍にある浦上をイエズス会に寄進して誓願を立て、合戦では教皇から贈られた聖遺物を胸に懸けて大きな十字架を描いた軍旗を掲げて戦いました。

最盛期には領内に数万人のキリシタンを抱えたと言われ、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が禁教令を出した後も密かに信仰を守り続けたと言われています。

西国の主なキリシタン大名

キリスト教宣教師が上陸した九州から始まったキリスト教布教でしたが、その教義やキリシタン大名の活躍ぶりに感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていくようになります。

(1)高山友照・高山右近(1563年7月)

永禄6年(1563年)、室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝の庇護を受けて布教活動をしていたガスパル・ヴィレラが堺を訪問した際、キリスト教の拡大を畏れる仏僧たちが宣教師の追放を松永久秀に要求しました。

独断で将軍の庇護を受けた宣教師を追放することができなかった松永久秀は、宣教師と仏教に造詣が深い者を議論させることにより宣教師から問題発言を引き出し、それを理由として宣教師を追放しようと考えます。

そこで、松永久秀は、ロレンソ了斎(イエズス会修道士・元琵琶法師)と清原枝賢(儒者・明経博士)との間で議論させ、その内容を仏教に造詣の深い高山友照と結城忠正に審査させることとしました。

ところが、この議論を聞いていた審査役の高山友照と結城忠正が、ロレンソ了斎が語るキリスト教の教えに感化されてしまいました。

その結果、高山友照が、同年7月、当時の高山家の本拠地であった沢城にロレンソ了斎を招いて自らが洗礼を受けると共に、家族や150人の家臣をも洗礼に導きます。

また、このとき、当時12歳程の子供であった高山右近もまたキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト(ユストゥス・ユスト)という洗礼名を与えられました。

こうして、キリスト教徒となった高山友照と高山右近は、支配地域となった摂津国三島郡高山庄近辺で積極的な布教活動を展開し、同地におけるキリスト教の信者を増やしていきました。

(2) 小西行長(1584年)

小西行長は、高山右近の勧めにより、天正12年(1584年)、洗礼を受けてキリシタンとなりました。

その後、翌天正13年(1585年)に小豆島で1万石を与えられると、同島にグレゴリオ・デ・セスペデスを招いてキリスト教の布教を行います。

そして、天正15年(1587年)にバテレン追放令が出されると、表向きはこれに従う形を取りながら、これに抗って改易となった高山右近を匿うなどしています。

(3)蒲生氏郷(1584年ころ)

山崎の戦い後に行われた清洲会議の際の織田領再分配により北伊勢を与えられた蒲生氏郷は、天正12年(1584年)ころに大坂にて洗礼(ルイスフロイス・耶蘇会年報)、または天正13年(1585年)に大坂にてオルガンティノから洗礼を受け(十六・十七世紀イエズス会日本報告書)、レオンの霊名を称したとされています。

もっとも、蒲生氏郷領となった伊勢には伊勢神宮とはじめとする神道・仏教勢力が強く、蒲生氏郷の洗礼がこれら勢力の危機感を高めました。

(4)黒田官兵衛(1585年ころ)

羽柴秀吉の参謀として常にその傍にあった黒田官兵衛が、天正11年(1583年)ころから小西行長の影響を受けてキリスト教に興味を持ち始めます。

そして、天正12年(1584年)に播磨国宍粟郡5万石を与えられて同地に入った黒田官兵衛に対し、近くの領主であった前野長康(三木城主)・高山右近(明石城主)・蒲生氏郷らによる勧誘が行われました。

そして、黒田官兵衛は、天正13年(1585年)ころに洗礼を受け、「シメオン」の洗礼名を与えられました。

キリスト教に対する反発

違和感からの反発

島国である日本では、16世紀までにアジア人以外の人種を見たことがある人はほとんどいませんでした。

そのため、当時の東アジアでは、南蛮人が牛馬を生きたまま皮を剥いだ上で素手で食べる化物であると信じられていました。

そこで、当時の日本人の中には、欧米人の体格を持つ宣教師に恐怖を感じ、また嫌悪感を持つ人が少なからずいました。

その結果、宣教師達が子どもを食べるためにやって来たなどという噂まで広がり、宣教師に対する嫌がらせや投石が発生するに至りました(そのため、1553年、大友宗麟が豊後で投石禁止布告を発しています。)。

また、同じポルトガル人であっても宣教師と商人では全く考え方が異なっており、日本人が、日本人に溶け込もうとした宣教師と、日本人を蔑視しつつ最大限の利益を上げようとした商人とを混同したことによる反発も起こりました。

穢れの忌避

1561年に平戸に救貧院を設立し、また1583年の長崎を始めた重病患者を対象とした病院を運営するなどしたイエズス会宣教師達は、必然的に当時の被差別階級の人達と関わっていくこととなりました。

もっとも、当時の日本ではこれらの階級の人々を社会的に穢れた人としていたため、彼らと接触する宣教師達も同じ扱いとされました。

この結果、イエズス会宣教師達もまた、意図せずして武士や僧侶など上流階級から汚れた底辺の存在とみなされ、忌避され疎外されるに至りました。

信仰強制に対する反発

大村純忠から始まるキリシタン大名たちの中には、領民にもキリスト教の信仰を強い、領内の寺社を破壊したり先祖の墓所を打ち壊したりするなど、過激な信仰態度をとる者が出始めました。

この流れはさらに進み、僧侶・神官を殺害したり、改宗しない領民を殺害したりするなどの事件にまで発展し、各地で家臣や領民の反発を招きます。

イエズス会への土地寄進への反発

(1)長崎・茂木寄進(1580年)

後に日本で最初にカトリックに改宗した大名となった大村純忠は、1560年代初頭にイエズス会を横瀬浦に招きます。

その結果、同地に教会が建設されポルトガル船が来航するようになったのですが、1563年、旧来の勢力からの反発を受け横瀬浦のキリスト教施設が破壊されてイエズス会宣教師が同地を追われる事件が起こります。

横瀬浦を出た宣教師達は、当時雑木林に覆われた無人の岬であった長崎について港湾として優位性を高く評価し、1579年秋、大村純忠に対して同地の寄進の申し出を行います。

この申し出に対し、大村純忠は、宗教的迫害や戦乱から逃れたキリスト教徒のための定住地を設立するため、天正8年(1580年)6月9日付で長崎新町と茂木の寄進状を発行し、これらの地の無期限使用権・入港税徴収権限と治外法権をイエズス会に付与しました(この結果、イエズス会が港湾税・入港税という恒久的な税収を確保するに至ります)。

また、1579年に約400戸の集落にすぎなかった長崎でしたが、ポルトガル船と南蛮貿易の拠点となったことにより大発展し、1590年には5000人の町へと発展し、その後1万5000人規模の大都市となりました。

(2)浦上寄進(1582年)

また、天正10年(1582年)には、有馬晴信がイエズス会に浦上の地を寄進しています。

そして、1582年、イエズス会日本支部の責任者となったガスパール・コエリョは、長崎に居住するポルトガル商人から資金を調達してフスタ船の建造を開始し、長崎沿岸の巡回を強化すると共に、長崎へ入港するキャラック船などの曳航などを機能化させました。

以上のとおり、横瀬浦を追われた反省から、イエズス会は長崎港一帯の防備強化を進めていったのです。

寺院破壊に対する反発

前記のとおり、宣教師による布教の場となる教会は、主にキリシタン大名などから放棄された寺院などの寄付を受けて転用されるのが一般的でした。

また、新築・改築に際しても、ヴァリニャーニなどが日本の建築伝統を尊重して熟練した日本人建築家と協議することを推奨し、建設における適応性を確保しました。

ところが、もっとも、伝統的宗教施設を封建的抑圧の象徴と見なした農村部や漁村の改宗者達が、過激な偶像破壊を引き起こして寺社仏閣の焼き討ち行為を起こすようになります

(もっとも、大規模な破壊行為を記した一次資料は乏しく、良好な仏像等が残存していることから、少なくともイエズス会主導による広範な寺社仏閣・偶像破壊の事実は立証されていません)。

この下層階級改宗者の過激な行為は、支配階級の改宗を優先するイエズス会による布教活動を複雑化させました。

奴隷貿易に対する反発

当時の日本においても、経済的理由による身売りや敵国に敗れて捕虜・隷属状態となるなどの奴隷制に類似した社会的境遇は存在していました。

そのため、南蛮貿易を行うポルトガル商人達も、これらの境遇となった日本人達を商品として仕入れ、海外に出荷することで利益を得ていました。

これに対し、日本での布教を目指すイエズス会の宣教師達は、奴隷貿易を廃止するために様々な活動をしたのですが、権力に乏しい宣教師達に奴隷貿易を中止させる力はありませんでした。

豊臣秀吉によるキリスト教制限

日本人迫害の風聞

ルイス・フロイスが織田信長から布教許可を得た後、織田政権下では宣教師に対する好意的対応を取っていました。

この方針は、織田家から政権を引き継いだ豊臣秀吉にも踏襲され、その後も自由な布教が許されていました。

以上のとおり、比較的寛容に扱われてきたキリスト教でしたが、事態を一変させる事態が発生します。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州征伐を進めている途中で、豊臣秀吉の下に宣教師やキリシタン大名が寺社仏閣を焼き討ちし、仏教徒を迫害しているとの報告が上がったのです。

さらに、多くの日本人が奴隷商品化された上でイエズス会領となって要塞化された長崎から世界に出荷されているとの噂が広がっていることがわかったのです。

バテレン追放令(1587年)

これらの話を聞いた豊臣秀吉は激怒し、天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉に謁見するため長崎から筑前箱崎に赴いていた布教責任者ガスパール・コエリョを召し出し、宣教師を追放すると共に京にあった教会(南蛮寺)を破却させるよう命じました(バテレン追放令発布)。

困ったガスパール・コエリョは、九州のキリシタン大名である有馬晴信らに豊臣秀吉と戦ってこれを打ち滅ぼすよう要請したのですが、この時点で豊臣秀吉に逆らって勝ち目があるはずがありませんので、有馬晴信らはガスパール・コエリョの要請を無視しました。

豊臣秀吉は、さらに天正16年(1588年)に大村純忠と有馬晴信がイエズス会に寄進していた長崎・茂木・浦上を引き上げ直轄領とするに至りました。

この結果、イエズス会は、公の布教活動を控えるようになったのですが、他方で、豊臣秀吉は、ポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、またキリスト教の迫害までは行わなかったため、バテレン追放令は大きな影響力を生じず、以降も布教活動が黙認され、1590年代にはキリスト教が復権するようになっていきました。

サン・フェリペ号事件(1596年)

ところが、その後にスペイン領・フィリピンからフランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化していきます。

スペイン人宣教師達は、それまでのイエズス会のポルトガル人宣教師による社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくというやり方とは異なるアプローチを試み、直接貧しい人々の中へ入っての宣教を始めました。

このとき、スペイン人宣教師達は、イエズス会のような日本文化への適応政策をとらず、自分たちの方法を押し付ける方法で布教活動を進めたため、豊臣秀吉をはじめとする為政者たちを刺激し、そのことがポルトガル人宣教師達にもマイナスに作用するようになっていきました。

そんな中、文禄5年(1596年)土佐国にスペインのガレオン船であるサン=フェリペ号が漂着する事件があり、その乗組員が、スペイン国王は宣教師を世界中に派遣して布教とともに征服を事業としている、その方法は、その土地の民を教化した上でその信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するという流れを取る、日本もその対象であると述べたことから、大問題に発展します(実際にこの話があったのかは不明)。

この話を聞いた豊臣秀吉は驚愕し、同年12月8日に再び禁教令発令し、スペイン人の庇護により畿内で活動していたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人・修道士3人、日本人信徒20人が捕らえられて長崎に送られ、慶長元年12月19日(1597年2月5日)に処刑されるに至りました(日本二十六聖人の殉教)。

江戸幕府によるキリスト教禁教

オランダとの貿易開始(1609年)

豊臣秀吉が没した後、天下人の地位を承継した徳川家康は、キリスト教そのものには無関心であったため、当初はキリスト教布教を黙認しました(宣教師やキリスト教を排除する理由はない一方で、積極的に保護する理由もありませんでした)。

そして、慶長5年(1600年)、オランダ船のリーフデ号が日本に漂着したために、徳川家康が乗組員(ヤンヨーステンやウィリアムアダムスなど)を江戸に招いて面談します。

この頃のオランダは、アジアへの進出を開始していたのですが、既に航路を開拓していたスペイン・ポルトガルに対抗するため、1602年に14あった貿易会社を統合して東インド会社(VOC)を設立し、バタヴィアを本拠地として同社によってアフリカ喜望峰の東からマゼラン海峡の西までの広大な範囲の貿易を一定に担うこととしたのです。

そして、徳川家康もまた海外貿易による実利と最新の世界情報を求めていたたため、貿易と宗教を切り離して活動しており貿易の見返りとして布教を求めまなかったプロテスタント国のオランダ・イギリスを好意的にとらえ、両国との貿易開始の検討を始めます。

そして、徳川家康は、慶長9年(1604年)にポルトガル商人による生糸価格の独占を防ぐことにより銀の海外流出を抑制する目的で糸割符制度を導入した後、慶長14年(1609年)にはキリスト教の布教を行わないことを条件として朱印状を発行し、平戸藩領に平戸オランダ商館を設置してオランダ東インド会社との貿易を開始します。

幕府領に禁教令発布(1612年)

慶長17年(1612年)、本多正純の寄力であった岡本大八(洗礼名パウロ)が、肥前国のキリシタン大名・有馬晴信を欺くために徳川家康の朱印状を偽造したことが発覚するという大事件が起こります(岡本大八事件)。

この事件の当事者2名がいずれもカトリック信者であったことから、徳川家康はキリスト教を危険視し始め、慶長17年(1612年)及び翌慶長18年12月22日(1614年1月31日)に、キリスト教を禁ずる法令(禁教令)を発布してキリスト教を禁教してしまいました。

これにより、当時約70万人いたとされるカトリック信者や南蛮商人に対する弾圧が始まりました。

イギリス・スペインの貿易撤退

慶長18年(1613年)9月1日にオランダに続いてイギリスが通称許可を得て対日貿易を開始したため、この時点での日本と貿易する西欧国は、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダの4カ国となったのですが、キリスト教を制限するため、江戸幕府は、元和2年(1616年)に西欧船の寄港地を平戸・長崎に制限します(二港制限令)。

この後、元和9年(1623年)、イギリスがオランダとの競争に敗れて対日貿易から撤退し、平戸商館を閉鎖して引き上げます。

また、寛永元年(1624年)にはスペイン船の来航が禁止されたことから、この時点での日本と貿易する西欧国は、ポルトガル・オランダの2カ国となりました。

出島完成(1636年)

このころ江戸幕府によるマカオ商船による司祭の書状運搬が禁止されていたのですが、寛永11年(1634年)、キリシタンの国外追放に伴って長崎からマカオに移住していた日本人司祭であるパオロ・ドス・サントスの書状がマカオ商船内で発見されます。

また、これに関連して、長崎奉行であった竹中重義の密貿易も発覚し、これらの事件によって、マカオが禁教後にも密かに布教支援をしていたこと、長崎奉行が腐敗していたことなどが明らかとなり、江戸幕府はポルトガルと断交を本格検討していきます。なお、寛永12年(1635年)には、日本人の海外渡航・帰国までもが全面禁止とされます。

そこで、江戸幕府は、同年、ポルトガル人を管理する目的で出島の建設を開始し、銀200貫(約4000両)の費用を費やして寛永13年(1636年)に約1万5000㎡の出島(建設当初の呼び名は築島)を完成させます。

島原の乱(1637年)

1637年に島原藩・唐津藩による残酷な収税に抵抗する形で肥前島原と肥後天草で農民一揆が起こったのですが、同地がかつてキリシタン大名であった有馬晴信・小西行長の旧領であったことからキリシタンが多い場所であったため、キリシタンによる大規模反乱であると喧伝されました(島原の乱)。

オランダの軍事支援を得たりして最終的には乱の鎮圧に成功した江戸幕府でしたが、キリスト教を脅威と見てその根絶に取りかかります。

このとき、国内的には、寛永15年(1638年)に「切支丹制札」を各地に掲示させ、懸賞金をつけてキリスト教徒を密告させることを奨励していきました。

また、対外的には、貿易と布教とを一体化して進めるカトリック国・ポルトガルとの断交を指向するようになりました。

ポルトガルと断交(1639年)

そして、寛永15年(1638年)春に島原の乱を鎮圧した江戸幕府は、再び同じようなキリスト教徒の反乱を防止する目的でキリスト教の禁教を徹底し、長崎滞在中のポルトガル使節の参府を禁じて出島に監禁した上で、キリスト教の布教を進めるポルトガルとの関係断絶を試みます。

そして、江戸幕府では、寛永16年(1639年)に江戸に参府したオランダ商館長のフランソワ・カロンから、オランダ植民地であった台湾経由で中国産生糸の輸入が可能であると聞かされたことから、ポルトガルとの断交を決断します。

そして、江戸幕府は、寛永16年(1639年)、ポルトガル人を出島から退去させた上で、長崎奉行や西国大名に対してポルトガル船の来航の禁止と九州沿岸の防備体制の確立を求めた通達(第五次鎖国令)を発布し、ポルトガルとの決別を明確化しました。

これに対し、翌寛永17年(1640年)には貿易再開を求めるポルトガルは、江戸幕府に使節団を送って関係の改善を求めましたが、江戸幕府は、使節団員61名を処刑することで断交の意思を示しました。

鎖国体制

ポルトガルとの断交の結果、日本と貿易する西欧国は、キリスト教の布教を行わないプロテスタント国家であるオランダのみとなります。

ここで、江戸幕府は、オランダからキリスト教が漏れ広がる危険を排除するため、1641年、オランダの商館を平戸からポルトガルが去った後の長崎出島に移転させ、商船の統制・制限を行うようになりました。

なお、西欧の貿易相手が長崎出島のオランダ商館(窓口は幕府)に限定されたことから、以降の貿易国は、オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌに限られることとなり、後に「鎖国」状態と呼ばれる体制が完成に至ります。

仏教を利用した民衆統制

江戸幕府は、開幕直後から一般民衆と強く結びついた仏教寺院を江戸幕府の統治機構に組み込み、そのシステムを利用して民衆を統治しようと考えます。

そこで、慶長6年(1601年)の「高野山法度」への下付をはじめとして、以降、慶長13年(1608年)から元和2年(1616年)にかけて主な宗教団体である天台宗・真言宗・新義真言宗・修験道・曹洞宗・臨済宗・浄土宗・日蓮宗などに対して次々と「個別に」発布していき、この寺院諸法度を用いて各宗教団体の本山に対して介入し、各宗教団体とそこに属する僧侶の統制を行いました。

また、江戸幕府は、寛永8年(1631年)、新寺建立禁止令を発して新寺の創建を禁止し、同年時点で存在する宗教団体を統制すれば足りるようになり、新たに設立される宗教団体を監視する必要がなくなりました。

さらに、寛永9年(1632年)に宗派毎に改めて本末関係を結ばせ、各宗派の本山に対して「本末帳」の作成を命じて末寺を調査させ(後に、元禄5年/1692年にも本末帳の作成がなされています。)、既存の寺院の統制を確立させました。

そして、本寺に末寺の僧侶の任命・僧階の付与・住職の任免・色衣の着用許可・上人号の執奏などをおこなう権限を与え、また末寺に対する本山行事への出仕命令し・本山費の徴収権を持たせたことから、末寺は本寺に絶対服従を強いられるようになったのです。

これにより、宗派ごとに本寺とか本山とよばれる大寺が、小寺を末寺とよんでその指揮下に置いて保護・統制する制度(本寺末寺の制度)が完成したため、江戸幕府は、本山を寺院法度で統制すれば、各宗派の「触頭(ふれがしら)」を通じてその意向を宗派の末寺に対して周知徹底させることができ、それにより末寺に至るまでのその宗派を統制することが可能となりました。

その上で、宗門改帳により把握した一般庶民「全員」を日本全国にあるどこかの寺院に所属させて(檀家にして)その変更を禁止し、当該寺院の住職に当該人物が当該寺院の檀家であることを証明させ、住居移動や旅行の際には寺院に配された宗門改帳(後に宗門人別帳)に基づいて当該寺院の檀家であること=仏教徒であることを証する「寺請証文」を必要とするという制度でした(檀家制度)。

そして、その上で江戸幕府は、檀那寺にキリシタン改の責任を追わせ、これにキリシタンとされた人物の親族の監視を担わせることで禁教(宗教統制)を徹底させていきました。

隠れキリシタン

以上の方法で、江戸幕府のキリスト教禁教が完成し、表面的にはキリスト教が失われました。

もっとも、草の根レベルでの禁教が成功したわけではなく、民衆の一部では宣教師たちの教えを口伝えに伝え、水方や帳方といった信徒組織を形成することで、親から子、子から孫へと密かに信仰を伝えられていきました(隠れキリシタン)。

他方で、隠れキリシタンが発覚した場合には、信仰共同体が崩壊する「崩れ」がたびたび起こるなど、苦しい時代を迎えることとなってしまいました。

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