【中国国分】豊臣政権確立の第一歩となった中国地方の国境画定

中国国分(ちゅうごくくにわけ)は、天正11年(1583年)以降に羽柴秀吉と毛利家との間で行われた山陽道・山陰道における国境線の画定をいいます(広義ではそこで画定された国境線内の羽柴・毛利両陣営の具体的な領土配分も含みます)。

中国地方国境線については、天正10年(1582年)6月に備中高松城を包囲していた羽柴軍がその囲みを解く際に抽象的な取り決めをしたのですが、それを具体化するための交渉が必要でした。

そのため、天正11年(1583年)から具体的な領土配分(国境線画定)交渉が繰り返され、最終的に合意に至った結果が中国国分です。

中国国分の結果、毛利家・宇喜多家という西国巨大大名2家が羽柴秀吉に下ってこれを支える形となったこと、及びその後に羽柴領内で多くの家臣に領地が与えられたために羽柴秀吉の求心力が増大したことなどから羽柴政権(豊臣政権)確立の第一歩ともなった出来事でもありました。

本稿では、豊臣政権樹立のスタートともいえる中国国分について、その成立経緯から順に簡単に説明していきたいと思います。

中国国分に至る経緯

織田家による中国攻め(1577年)

多方面攻略作戦を展開して全国統一を志向する織田信長は、中国方面については天正5年(1577年)に羽柴秀吉を司令官に任命し、毛利家討伐を進めさせていました。

播磨国に入った羽柴秀吉は、毛利家に与する勢力に対して合戦での勝利や調略を駆使することにより中国方面侵攻を進めました。

そして、天正10年(1582年)の時点では、備中国侵攻作戦を展開し、備中高松城を包囲している状況でした(備中高松城水攻め)。

中国侵攻作戦を優位に進める羽柴秀吉は、毛利家に対し、備中国・備後国・美作国・伯耆国・出雲国の5カ国を割譲して織田家に下るよう圧力をかけていました。

これに対し、毛利家としては、戦力として羽柴軍に劣っていたために苦しい戦いを強いられていたものの、5ヶ国もの割譲を認容できようはずがなく打つ手なしの状態に陥っている状態でした。

羽柴秀吉と毛利方の和睦(1582年6月4日)

ところが、この織田方(羽柴方)優位の状況を一変させる事件が起こります。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反により、京の本能寺において織田信長が横死したのです。

この事実は、同年6月4日夜半にいち早く羽柴秀吉に知らされます(なお、このときの詳細については、別稿:羽柴秀吉は本能寺の変をいつ・どうやって知ったのかを参照してください。)。

軍崩壊の危機を感じた羽柴秀吉は、朝を待って急ぎ毛利方の交渉窓口であった安国寺恵瓊を呼び寄せ、備中高松城主である清水宗治の切腹を条件として、それまでの毛利家5か国割譲要求から、備後国・出雲国という2カ国を除外した3か国割譲で織田・毛利の和睦に応じると提案します。

この時点での毛利方は織田信長横死の事実を知りませんので、毛利家としては、これ以上羽柴軍と対峙しても勝ち目はないと判断して羽柴秀吉から提示された条件を受け入れることとします。

この結果、同日、清水宗治の切腹をもって織田家・毛利家の間に和睦が成立することとなりました。

もっとも、この和睦は締結を急いだ羽柴秀吉により概略だけが示されて締結されたものであったため、その詳細は全く決められていませんでした。

羽柴秀吉の台頭

その後、遅れて織田信長の横死を知った毛利家でしたが、既に毛利軍内に厭戦気分が高まっていたこと、既に一度和睦が成立したために兵の戦意が低下していたことなどから、毛利軍は羽柴軍への追撃をあきらめます。

その結果、羽柴軍は、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230 km を僅か10日間で踏破するという前代未聞の行軍を成功させ(中国大返し)、同年6月13日、山崎の戦いで主君の仇である明智光秀を討ち果たした羽柴秀吉が織田家中で圧倒的な発言権を獲得していくこととなりました。

清洲会議(1582年6月27日)

明智光秀討伐後の天正10年(1582年)6月27日、清洲城において織田家宿老会議(清洲会議)が行われ、明智光秀を討ち取った羽柴秀吉が、播磨国・丹波国の一部・山城国・河内国を領する大領を食む立場となりました(旧領であった北近江を返上し、新たに山城国・河内国と丹波国の一部を加増)。

織田家中で高い地位に至った羽柴秀吉は、柴田勝家を仮想敵としたのですが、本拠地長浜城を柴田勝家に割譲したため、柴田勝家領との国境線上に備えの城がないという結果となってしまいました。

そのため、羽柴秀吉は、いずれ来る柴田勝家との決戦に備え、最前線となりうる近江国・山城国近辺に居城を築くことを考え、同年7月17日から天王山にあった山崎城の改修を始め、同城を本拠に定めます。

毛利・織田間の国分交渉(1582年7月~)

天正10年(1582年)7月、毛利家から、毛利家外交僧・安国寺恵瓊が山崎城に派遣されたことから、織田家と毛利家との講和交渉が始められることかま確認されました。

そして、安国寺恵瓊が帰国した後、今度は織田家から、羽柴秀吉麾下の蜂須賀小六正勝と黒田官兵衛が毛利家に派遣され、この後、毛利家(窓口は安国寺恵瓊及び林就長)と織田家(窓口は蜂須賀小六及び黒田官兵衛)との間で具体的な国分交渉が行われることとなりました。

ここでの国分交渉における主要な争点は、備中高松城の包囲を解く際に、合意に至った備中国・美作国・伯耆国の3か国割譲の約定を具体化させるに際し、いつ・どのような手続きで行うかが大きな問題となりました。

当然、羽柴秀吉は、速やかに毛利家に対して備中国・備後国・美作国の全面割譲するよう求めたのですが、粘り強く交渉を続け、羽柴秀吉から少しでも領土的譲歩を引き出そうとしたため、交渉は難航します。

その結果、国分交渉について長い時間を要していくこととなったところで、、具体的取り決めが決まる前に織田家中で羽柴秀吉と柴田勝家とが対立したため、織田家と毛利家との交渉が一旦中断することとなりました。

毛利・羽柴間の国分交渉(1583年4月~)

独立大名たる羽柴秀吉の要求(1583年5月)

織田家中での権力闘争の結果、柴田勝家を滅ぼして織田家筆頭家老の立場を確立した羽柴秀吉は、さらにその枠を超えて、織田家から独立した政権確立の野心を抱き始め、中国地方の大大名である毛利家・宇喜多家に臣従を求めようと考えます。

そこで、羽柴秀吉は、天正11年(1583年)5月15日、滞在していた近江国坂本から小早川隆景宛に書状を出し、毛利家が備中国・美作国・伯耆国の全面割譲をした上で羽柴秀吉の天下統一事業に手を貸すか、またはこれに抗って羽柴家と戦うかを毛利輝元と相談して2か月以内に決めるよう脅しをかけます。

毛利家の回答

この脅しに対し、毛利家内部で協議が行われ、最終的に羽柴秀吉の臣下に下る決断を下します。

もっとも、毛利家としては、臣従を交渉材料として羽柴秀吉から最大限の領土的譲歩を獲得しようと考えます。

そこで、毛利家は、安国寺恵瓊を上方に向かわせ、大坂城築城中の羽柴秀吉に対して国衆の反対により備中国・美作国・伯耆国の割譲が困難である旨を伝えます。

ところが、羽柴秀吉はこの申し出に怒り、毛利家の申し出を拒否して山崎城に戻ってしまいました。

焦った安国寺恵瓊は、羽柴秀吉を追って上洛し、羽柴秀吉に対し、再度、羽柴家と毛利家との縁組・伊予国を追われた来島通昌の返還・人質の提出を条件として領土的割譲の部分免除を求める申し出を行いました。

毛利家が羽柴秀吉に臣従(1583年8月)

これに対し、羽柴秀吉としても、この時点で美作国を宇喜多秀家に、因幡国の一部を宮部継潤・荒木重堅らに配分してしまっていましたので、毛利家の求めに応諾することはできませんでした。

ところが、そうこうしているうちに、同年8月、毛利家が羽柴秀吉の下に人質として小早川元総と吉川経言を送り(毛利輝元に子がいなかったため、一門である吉川家と小早川家から選定されました。)、毛利家が羽柴家に臣従する意思を示したことで羽柴秀吉の態度も軟化します。

羽柴・毛利の縁戚関係(1584年12月)

また、羽柴家と毛利家との縁戚関係が進められ、天正12年(1584年)12月末、毛利輝元の娘が羽柴秀吉の養子である羽柴秀勝に嫁ぐことで羽柴家と毛利家との間に縁戚関係が結ばれました。

割譲内容決定(1585年正月)

毛利家を臣従させ、また縁戚関係を持ったことで羽柴秀吉も毛利家に対する境界画定交渉を大幅に譲歩することとします。

そして、この後、友好的に境相論の調整が行われ、天正13年(1585年)正月、その後予定されていた紀州征伐・四国征伐などに毛利家が全面的に協力することを条件として最終的には毛利家の割譲地を大きく減少させ、東伯耆3郡・東備中3郡・美作国・備前国児島郡の割譲で最終合意に至りました。

毛利・羽柴間の中国国分結果

維持された毛利領(112万石)

以上の国分交渉の結果、伯耆国中央〜備中国高梁川が毛利家との国境として画定し、以西の9カ国112万石(長門・周防・石見・安芸・出雲・隠岐・備後・備中西部・伯耆西部)が毛利領と定まりました(この他に四国と九州の安国寺・小早川領あり)。

この結果、合計112万石を喰むこととなった毛利家は、多くの領地を失いはしたものの、大名領としては、徳川家(駿府119万石)に次ぐ、全国2番目の石高を誇る大大名の立場を維持しました。

他方で、領土割譲について大幅な譲歩を引き出すこととしたものの、その対価として、人質を差し出したことにより毛利家が羽柴家の臣下に下ることとなり、その後始まる羽柴秀吉の紀州征伐・四国征伐における全面的な協力を求められることとなっています。

大幅加増された宇喜多領(57万4000石)

(1)羽柴秀吉の懸念

他方、毛利家を臣従させた羽柴秀吉でしたが、中国地方9カ国112万石もの大領を有する超大国の存在は懸念材料でしかありません。

しかも、羽柴家の本拠地は畿内にありますので、仮に毛利家が離反した場合、直ちにこれに対応することは困難です。

そこで、羽柴秀吉は、羽柴領と毛利領との間に緩衝地帯を作ろうと考えます。

ここで羽柴秀吉が利用したのが宇喜多家でした。

この時点での宇喜多家は、宇喜多直家の遺領を継承していた宇喜多秀家が、天正10年(1582年)正月に、織田信長より備前一国を安堵されている状況だったのですが、9ヶ国を領する毛利家との緩衝地帯にするには力が足りなさ過ぎます。

(2)宇喜多家大幅加増

そこで、羽柴秀吉は、国分により毛利家が手放した領土のほとんどを宇喜多秀家に与え、宇喜多家を対毛利の最前線とすることとしたのです。

その結果、宇喜多家に、毛利家が手放した備前国児島郡、美作国(19万石)、備中国3郡(賀陽郡・都宇郡・窪屋郡)が与えられ、またその後に播磨国3郡も追加で与えられました。

この結果、宇喜多家は、それまで領有していた備前国(22万石)の大部分と合わせて合計57万4000石を領する大大名となりました(大名領としては徳川家・毛利家・上杉家・前田家・伊達家に次ぐ全国6番目の石高)。

(3)宇喜多家との縁戚関係(1589年)

以上のとおり毛利家対策のために宇喜多家を巨大化させた羽柴秀吉ですが、その反面、宇喜多家を羽柴方に繋ぎ止めておく必要があります。

そこで、羽柴秀吉は、宇喜多家当主である宇喜多秀家(元亀3年/1572年生)が成長するのを待って、天正17年(1589年)、羽柴秀吉の養女豪姫(前田利家息女)を宇喜多秀家に嫁がせることにより、宇喜多家と豊臣家・前田家双方と縁戚関係を結び、これにより豊臣政権の一端を担わせることとして取り込んでしまいました。

羽柴領内における国分

毛利家とのとの国境を画定した上で自領との緩衝地帯に巨大化させた宇喜多家を配置したことにより中国地方の平穏を確立させた羽柴秀吉は、更なる地盤固めを進めます。

具体的には、中国攻めや山崎の戦いなどによって確保していった東伯耆・因幡・東播磨以東を、一門や子飼いの家臣に配分することで求心力を高める作業です。

この土地配分行為は、譜代家臣のいない羽柴秀吉にとっては、自らに与する武将たちの忠誠心を得るために必要なものであり、この行為により武将たちの忠誠を獲得していくこととなりました。

なお、多くの家臣に領地を以下のとおり配分(国分)した結果、羽柴領内では零細大名が濫立する結果となってしまいました。

また、羽柴政権によるその後の紀州征伐・四国征伐・九州征伐・小田原征伐などの戦役の論功行賞により、一旦与えられた知行も次々と変更され、目まぐるしい転封が行われるに至っています。

伯耆国東部

毛利家との国分により毛利家が放棄した伯耆国東3郡については、羽柴秀吉による中国攻めの時点で織田家に下っていた南条元続が領していました。

そこで、羽柴家の国分でもこれが維持され、羽衣石城(現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町)の南条元続が東伯耆の支配権を安堵されました。

因幡国

因幡国では、羽柴軍が中国攻めを行なっていた際の天正9年(1581年)に、亀井茲矩が気多郡1万3500石を知行して鹿野城(現在の鳥取市)に入っていました。

また、毛利家への備えとして鳥取城(現在の鳥取市)に城代として宮部継潤を配していたため、羽柴家の国分でもこれらが維持されました。

そして、羽柴家の国分では、中国国分後も毛利家に備えさせるため、これに加えて、宮部継潤に鳥取城を正式に与えて城主とし、因幡国4郡(高草郡・八上郡・邑美郡・法美郡)と但馬国1郡(二方郡)5万石を与えて毛利家へのにらみをきかせることとしました。

その他、若桜城(現在の鳥取県八頭郡若桜町)に木下重堅、用瀬城(現在の鳥取市用瀬町)に磯部豊直、桐山城(現在の鳥取県岩美郡岩美町)に垣屋光成をそれぞれ配しています。

但馬国

但馬国には、羽柴軍が中国攻めを行なっていた際に豊臣秀長が入っていたため、中国国分後もそのまま豊臣秀長が治めることとなりました。

もっとも、天正13年(1585年)に豊臣秀長が紀伊国・和泉国の2か国をあたえられて和歌山城(現在の和歌山市)に移ったことから、但馬国の統治者が不在となったため、同年、但馬国は、4分された上で、前野長康に出石城(現在の兵庫県豊岡市出石町)7万5000石、別所重宗・別所吉治父子に但馬八木城(現在の兵庫県養父市)1万2000石、赤松広秀に竹田城(現在の兵庫県朝来市)2万2000石、明石則実に城崎城(豊岡城、現在の兵庫県豊岡市)2万2000石がそれぞれ与えられました。

播磨国東部

播磨国は、中国攻めの際の中国方面司令官であった羽柴秀吉の本拠地であったため、中国攻めの段階から配下の武将に対し所領が分与されていました。

具体的には、天正8年(1580年)、美嚢郡3万1000石と三木城が前野長康に、揖東郡9900石が黒田官兵衛にそれぞれ与えられていました。

また、天正9年(1581年)、揖保郡5万3000石と龍野城(現在の兵庫県たつの市)が蜂須賀小六正勝に、揖東郡5600石が浅野長政にそれぞれ与えられ、揖東郡1万石が黒田官兵衛に加増されていました。

そして、中国国分後、天正14年(1586年)には、赤穂郡など6万石が生駒親正に与えられ、また天正15年(1587年)には、加西郡・印南郡・揖東郡ほか1万1000石が北政所の兄である木下家定にそれぞれ与えられました。

淡路国

淡路国では、仙石秀久が、5万石を与えられて洲本城(現在の兵庫県洲本市)に入ります。

また、加藤嘉明が、1万5000石を与えられて志知城(現在の兵庫県南あわじ市)に入っています。

なお、天正13年(1585年)に行われた四国征伐後の論功行賞(四国国分)により仙石秀久が讃岐国・高松城(現在の香川県高松市)10万石に転封となったため、その後に脇坂安治が3万石を与えられて洲本城に入っています。

丹波国

丹波国には、清洲会議により羽柴領となり、羽柴秀吉の養子となっていた織田信長四男の羽柴秀勝が入ります。

羽柴秀勝は、明智光秀の居城であった丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)に入って丹波国を治めたのですが、天正13年(1585年)12月10日に丹波亀山城で病死してしまったため、その後を羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が引き継いでいます。

なお、余談ですが、羽柴秀吉にとって織田家ブランドが邪魔になった絶妙なタイミングで、18歳の若者(織田信長四男)が突然病に罹患して死去するという不自然ともいえる事実経過を経ており、その経緯には事件性の匂いが感じられます。

丹後国

なお、丹後国は、中国国分以前から細川藤孝に与えられており、清洲会議でも本能寺の変の後も明智光秀と距離を置いたことを評価された細川家による丹後国領有が確認されていることから、中国国分においても細川家安堵とされました。

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