【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、現在の男山山頂(京都府八幡市八幡高坊30)に位置する八幡大神(誉田別命=応神天皇・比咩大神=宗像三女神・息長帯姫命=神功皇后)を祀る神社です。

かつては八幡宮寺とも言われて神仏習合の霊地とされ、伊勢神宮(天照大神)に次ぐ国家第二の宗廟とされていました。

第56代天皇である清和天皇の健康を祈願して平安京の裏鬼門(南西)の方角に創建された神社であるために清和天皇の子孫(清和源氏)の氏神となったのですが、後に清和源氏(源頼朝・足利尊氏)が武士になって武家政権を開くなど隆盛を極めるに至ったことから、信仰対象となっていた石清水八幡宮が武神として扱われるようになりました。

男山山頂から山麓に至る一帯が境内となっているところ、宇治川・桂川・木津川の合流点近くにあり、淀川を挟んで山崎天王山と相対するという交通・軍事の要衝地にあったため、実質的な意味でも京防衛の拠点と位置付けられました。

石清水八幡宮創建

清和天皇即位(858年)

石清水八幡宮の歴史は、平安時代に遡ります。

嘉祥3年(850年)3月25日に誕生した惟仁親王(文徳天皇の第四皇子)が、母方祖父の藤原良房の後見を受けて生後8カ月で皇太子となります。

その後、文徳天皇の崩御に伴い、天安2年(858年)にわずか9歳で第56代清和天皇として即位しました。

清和天皇が幼君であったことから政治権力は外戚である藤原良房が握ることとなったのですが、藤原良房は、天皇の外戚となって手にした権力を失わないよう、権力の根幹となる清和天皇の健康を願います。

宇佐八幡宮から八幡神分霊(860年)

そこで、藤原良房は、貞観元年(859年)、清和天皇の安寧を祈祷させるため、真言宗僧侶であった真雅の推挙により南都大安寺の僧・行教を、豊前国の宇佐神宮に派遣します。

宇佐神宮に90日間参篭した行教は、八幡神から「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を受けたため、宇佐八幡宮から八幡神の分霊を受け、一旦、自宅があった南都に持ち帰ります。

その後、行教は、前記の神託内容を清和天皇(藤原良房)に報告したところ、神託内容に従って山城国男山の護国寺に奉安することとなり、あわせて朝廷により八幡宮の造営が始められました。なお、男山にはこのときすでに薬師如来を本尊とする石清水寺(現在の摂社石清水社)が存在していました(宮寺縁事抄)。

創建(860年)

そして、貞観2年(860年)、神託に従い、京の裏鬼門の方角(南西)に位置する男山に八幡造りの社殿が創建され(865年に石清水八幡大菩薩宮に改称)、石清水寺(862年に八幡宮護国寺に改称)と共に一体の宮寺となりました。なお、創建年については、元亨釋書・石清水遷座縁起などでは貞観元年(859年)、類聚国史などでは貞観2年(860年)とされています。

祭神は、本殿中央(中御前)の誉田別命=応神天皇・西御前の比咩大神=宗像三女神・東御前の息長帯姫命=神功皇后とされ、これらが八幡三所大神として祀られました。

この八幡大神は、日本古来の神と、外来してきた仏教における仏とが合わせられた神仏習合の形をとった最古の神と言われ、当初は「八幡大菩薩」と呼ばれました。

また、石清水八幡宮が石清水社の境内に建立されたことからもわかるように、創建当初から神仏習合の宮寺の形態をとり、神社であるにもかかわらずその境内には寺院施設が多数設けられていました。なお、石清水八幡宮の建立により石清水寺はその神宮寺とされ、貞観4年(862年)にはその名称を護国寺と改めています。

また、京の裏鬼門に位置する石清水八幡宮に八幡大神が鎮座することによって京中に神仏習合の考えが広がっていきました。

そして、天慶2年(939年)、伊勢神宮に次ぐ社格を与えられ、伊勢神宮と並んで「二所宗廟」と称されるようになり(また、これらに加えて香椎宮・氣比神宮を合わせて日本四所宗廟または本朝四所と称されることもあります。)その後も神仏習合の考えは進んで宮寺「石清水八幡宮護国寺」と称するようになっていきました。

巨大勢力となる

前記のとおり、僧侶を中心として創建された石清水八幡宮は、当初から宮寺形式をとり、境内の神宮寺である護国寺と一体とされました(要職は、僧行教系統の紀氏一統が長きにわたり務めました。)。

そして、白河天皇治世であった永保元年(1081年)に主に畿内の神社確立した二十二社の制度では、上七社の1つに選ばれています。

また、皇室・朝廷からは、京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護鎮護の神、王権・水運の神として篤く崇敬され(天皇・上皇・法皇の行幸啓は250余回を数えます)、また多くの荘園と淀川水運をおさえて隆盛を極めた石清水八幡宮は、その麓に多くの寺院・神社を、中腹に数多くの坊(男山四十八坊)を、山上には石清水八幡宮社殿及び摂末社を擁し、その周囲にはこれらを支える門前町を抱える巨大宗教都市を形成するに至りました。

武神として崇敬される

また、石清水八幡宮が清和天皇の安全を祈願して建てられた神社であったため、清和天皇の子孫(清和天皇から分かれた賜姓皇族である清和源氏)から氏神として崇拝を受けていたのですが、清和源氏が後に鎌倉幕府将軍や室町幕府将軍となって武家政権を樹立したことから、その氏神である八幡神が次第に武神・弓矢の神・必勝の神(武神)と評されるようになります。

その効用にあやかって石清水八幡宮で元服し「八幡太郎義家」を名乗った源義家が有名です。

そして、清和源氏の勢力拡大に伴い、石清水八幡宮から、河内国の壺井八幡宮(源頼義)や鎌倉の鶴岡八幡宮(源頼義・源頼朝)などに分霊・勧請されたことにより、全国各地に多くの八幡宮が創建されていきました。

また、源氏の崇拝を受けていたという関係もあり、室町幕府第6代将軍の地位を巡る継嗣問題が生じた応永35年(1428年)には、石清水八幡宮においてくじを引きが行われ、足利義教が室町幕府第6代征夷大将軍に選ばれるという事件が起こっています。

軍事的要衝となる

平安京の裏鬼門に位置して宮中の四方拝で遥拝される神社の1つとなった石清水八幡宮でしたが、観念的な意味だけでなく、実質的な意味でも要衝地にありました。

なぜなら、宇治川・桂川・木津川の合流点近くという海上・陸上交通の要所であっただけでなく、南西側は淀川を挟んで山崎天王山と相対する隘路を形成し、南東側も巨椋池との間で同様の隘路を形成して敵軍を攻撃できるという立地から京に攻め入る軍の迎撃拠点となることから極めて重要な場所となったからです。

実際、正平7年(文和元年、1352年)には、南朝の後村上天皇が北朝の足利義詮軍と戦うために陣所として使用したことから南朝・北朝の合戦である「八幡の戦い」の舞台となっています。

さらに、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした江戸幕府でも、大坂の経済力を取り込むために元和5年(1619年)に大坂を直轄地としてそれまで江戸と京を結んでいた東海道を大坂まで延伸したのですが(東海道五十七次)、これにより西国大名が江戸に向かって攻め上るルートが出来てしまいます。

そこで、江戸幕府は、東海道を東進して来る西国大名を迎え撃つための防衛施設として、淀城を築城し、これと南西側の天王山・南東側の男山(石清水八幡宮)で枡形を構成して防衛する構造を作り上げて石清水八幡宮を取り込んだ軍事要塞を作り上げました。

 

男山(石清水八幡宮を含む)の境内

構造

石清水八幡宮は、平安京の南南西にある男山(鳩ヶ峰、標高143m)に位置します。

前記のとおり、清和天皇の健康を祈願して創建された神社ですので、平安京にいる清和天皇を守るため、鬼が入ってくる方角である鬼門(北東)を守護する比叡山延暦寺の対として、鬼が出ていく方角である裏鬼門(南西)を守護する神社として位置づけられました(なお、淀川対岸である現在の京都府乙訓郡大山崎町にも、対となる離宮八幡宮が建てられています。)。

そして、山上の上院・麓の下院のほか、山中にも朝廷を始めとする各時代の権力者からの寄進を受けて次々と社や堂宇が建てられていき、男山全体が巨大宗教施設となっていきました。

また、男山の東側を中心として、門前町も拓けていった結果、男山周囲が、大きく分けると①山頂部の上院、②麓の下院、③下院と上院とを結ぶ山中部、④男山北部東部の門前町という4つの地域で構成される巨大宗教都市に成長していきました。

下院(山麓)

石清水八幡宮の下院は、男山山麓に位置する一の鳥居と二の鳥居の間にある地域です。

石清水八幡宮上院における寺院内の建物を再建する際などに一時的に八幡宮を移して祀る頓宮をその中心としています。

(1)一の鳥居

一の鳥居は、男山山麓の外院の入口に立つ寛永13年(1636年)に木造鳥居から造り替えられた、八幡鳥居の形式による高さ4間5尺7寸(約9m)・柱間3間3尺7寸(約6.6m)・花崗岩製の石鳥居です。

鳥居の上には「八幡宮」と書かれた銅製の額が掲げられており、これは、一条天皇の勅により藤原行成が書いたものを松花堂昭乗が元和5年(1619年)に書写して打ち出したものとされています。

そして、鳩が八幡様の使いとされていることから、この額に記された「八」の字は、向かい合った二羽の鳩が顔を外に向けた形(鳩字)となるよう書かれています。

(2)極楽寺

極楽寺は、かつて石清水八幡宮下院に存した主要寺院であり、元慶2年(878年)に石清水八幡宮初代別当・安宗により創建されました。

極楽寺には、寺院内の建物を再建する際などに一時的に神様を祀っておく(神輿を安置しておく)ための頓宮が置かれていました。

極楽寺自体が慶応4年(1868年)1月に発生した鳥羽伏見の戦いにより焼失し失われたため、現在ある建物は全てこれ以降に再建されたものです。

なお、鳥羽伏見の戦いに際し、極楽寺にあった宝冠阿弥陀如来像が持ち出され、京都府八幡市内にある善法律寺に移されたと伝えられています。

① 放生池

② 筒井

筒井は、寛延2年(1749年)に造られた井戸であり、男山名水の1つとされています。

③ 北門

④ 黒門

⑤ 南門

極楽寺南門は、昭和14年(1939年)に山上(上院)の石清水八幡宮社殿の南総門を移築したものです。

⑥ 廻廊

現在の廻廊は、昭和44年(1969年)に再建されたものです。

⑦ 頓宮

頓宮は、寺院内の建物を再建する際などに一時的に神様を祀っておく場所(神輿の待機場所)であり、石清水八幡宮では放生会(現在の石清水祭)の際に御鳳輦に乗って山上から降りてくる八幡大神が滞在される場所を意味し、宿院とも呼ばれました。

頓宮もまた鳥羽伏見の戦いにより焼失したため、その後は男山四十八坊の一つであった岩本坊の神殿を移築して仮宮としていたのですが、その後の大正4年(1915年)に再建されて現在に至ります。

(3)高良神社

高良神社は、貞観2年(860年)に創建された神社であり、八幡の氏神として町衆から信仰されました。

極楽寺と高良神社の壮大な様子から、これらを八幡宮と勘違いしたという「徒然草」の話でも有名です。

慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで焼失した後、何度かの再建・移築を経て、明治12年(1879年)に再建され、現在に至ります。

① 藤井

藤井は、高良神社の横にある井戸であり、男山名水の1つとされています。

② 拝殿

(4)その他

① 五輪塔(航海記念塔・重要文化財)

五輪塔(航海記念塔)は、鎌倉時代に建てられたと推測される高さ約6mの仏塔です(もっとも、刻銘がないために制作者や制作時期は不明です)。

中世以前の五輪塔としては国内最大のものであり、重要文化財に指定されています。

建立目的としては、日宋貿易のために宋に渡っていた摂津尼ケ崎の商人が帰国時に嵐に巻き込まれて転覆の危機に陥ったところ石清水八幡宮に祈ったら無事帰国できたためその感謝の気持ちからこれを建立したとする説(この話から、航海記念塔とも呼ばれます)が有名ですが、真偽は不明です。

② 頼朝松

平家による南都焼き討ちによって焼失した東大寺は、その後に再建運動が進められ、建久6年(1195年)には2代目大仏殿が再建され、後白河法皇や源頼朝列席のもとで落慶法要が盛大に営まれました。

この落慶参列に出席するため鎌倉から出てきた源頼朝は、妻の北条政子と長女の大姫を伴って、同年4月3日、その道中にある石清水八幡宮に私的参拝をします(吾妻鏡・なお、同年4月15日には長男・源頼家を伴って公式参拝もしています。)。

この参拝の際、源頼朝は、鎌倉から持参してきた6本の松の苗木を石清水八幡宮に奉納します(他方、このとき石清水八幡宮からも松の苗木を鎌倉に持ち帰って鶴岡八幡宮の境内に植えたと伝えられています。)。

このとき植えられた6本のうち1本は昭和時代まで残っていたのですが、昭和22年(1947年)の落雷によって焼失してしまいました。

その後、この出来事にちなんで、昭和30年(1955年)に新たに奉納された松が、2代目頼朝松となる現在の松となります。

山中部(参道周辺)

下院から上院に行くには、男山を上って行く必要があるのですが、そのルートとしては二の鳥居から進んで南方向に回り込みながら上って行く正面ルート(大坂)と、二の鳥居の手前で太子坂を上って西に向かって上って行く裏参道ルート(太子坂)がありました。

このうちの裏参道ルートは、その出発場所に聖徳太子3歳時の像(元享元年/1321年・法眼宗圓の作)を祀った太子堂があることから太子坂と呼ばれていました。なお、太子堂は明治時代初期の仏教排除(廃仏毀釈)運動により破却されたのですが、聖徳太子像は滋賀県大津市国分1丁目所在の国分聖徳太子堂に移されて残されました。

(1)ニの鳥居

二の鳥居は、高良神社の南側に立つ高さ4間4尺(約8.5m)・柱間3間8寸(約5.7m)の石鳥居です。頓宮(宿院)の南にあることから「南鳥居」とも言われました。

元々は朱塗りの木造鳥居だったのですが、寛永19年(1642年)にそれまでの木造鳥居から造り直され現在に至ります。

石清水八幡宮は、一の鳥居から二の鳥居の間を外院、二の鳥居から三の鳥居の間を大坂、三の鳥居から上を上院と呼びますので、二の鳥居は下院の出口(平坦地の終わり)にあたり、そこから上院に向かう上り坂(大坂)の入り口にあたります。

(2)大扉稲荷社

大扉稲荷社は、二の鳥居をくぐった先にある文政12年(1829年)建立の摂社です。

江戸時代末期ころ、世間で富くじが流行していたのですが、同地にあった稲荷社に祈った人がその霊験によって富を得たということが噂となって信者が増え、その寄進によって建立されたと言われています。

その後、大扉稲荷社は「お扉さま」と呼ばれて信仰され、現在もなお「宝くじに御利益がある」として参拝者が訪れています。

大扉稲荷社を超えた先に、左右に分かれる分岐点があり、左方向が現在の表参道であり、右方向はかつての参道(松花堂跡を抜けて本殿へ向かうルート)となっています。

(3)駒返し橋

駒返し橋は、大坂に上る前(階段が始まる前)にある小さな石造りの橋です。

かつては、今よりも道が険しかったため、登るのを諦めて馬を返す場所となっていたことからその名が付けられました。

現在は、縁の石がほんの少し高くなっているのですが、注意してみないと「橋」とは気が付かずに見落としてしまいます。

(4)護国寺

護国寺は、元々は石清水寺と言い、石清水八幡宮創建前から男山(本殿尾根筋から東に下った山中)にあった山寺です。

貞観2年(860年)の八幡神奉安に際して八幡宮本殿が創建されたのですが、それに次いで東面の堂を南面に改めて仏堂が建立され「護国寺」となりました。

宮寺として発足した当初から、護国寺は石清水八幡宮本殿と一体化して石清水八幡宮寺を構成しており、石清水遷座縁起(重要文化財)も正式名称は石清水八幡宮護国寺略記とされます。

そして、男山全山を治める長官は護国寺別当とされ、政令は全て護国寺から出されていました。

当初の護国寺は嘉暦元年(1326年)9月17日の火災により焼失してすぐに再建されたのですが、再建後の護国寺も明応3年(1494年)の火災により失われました。

その後、文化元年(1804年)に江戸幕府の寄進を受けて男山全山の大規模修理が行われ、文化13年(1816年)に護国寺の再興がなされました。

もっとも、明治時代初期の神仏分離令に起因する仏教排除運動により護国寺が破却されたため、現存はしていません。

なお、護国寺本尊の薬師如来像と十二神将像(いずれも重要文化財)は、難を逃れて淡路島にある東山寺に移されました。

(5)石清水社(京都府指定有形文化財)

石清水社は、石清水八幡宮創建以前から男山から湧き出る清泉を神として祀って建てられていた神社です。

石清水八幡宮創建後には、石清水八幡宮の摂社として、祭神・天之御中主神祀られました。

① 明神鳥居(京都府指定有形文化財)

また、石清水社前には石造りの鳥居があり、寛永13年(1636年)に京都所司代・板倉重宗が寄進したと松花堂昭乗の筆により記されています。

石清水八幡宮境内の中で完全な形で残る鳥居としては、この明神鳥居が最古のものです。

② 石清水井

石清水井は、男山名水の1つに数えられる石清水社横にある井戸であり、かつては皇室・将軍家の祈祷の際には、この井から水を汲んで本殿に献上して行われるのが通例でした。

かつては山上の東総門辺りに水源があったのですが、山上の社殿の拡張工事が繰り返された結果、水脈が石清水井の辺りに移り、以降枯れることのない神聖な霊水と扱われるようになりました。

石清水井からは現在もなお清水が湧き出ており、現在は、石清水井の上に神水舎(京都府指定有形文化財)が建てられています。

③ 社殿

石清水井の右側に石清水社の社殿があります。

(6)男山四十八坊

神仏習合を体現していた石清水八幡宮では僧侶が神にも使える社僧となっており、山中にはその住居(兼旅人の宿泊施設)となる坊や塔頭が建ち並んでいました。

これらの坊は、時代によって増減したものの男山山中に余すところなく建てられ、全盛期には50にも上り、江戸時代には「男山四十八坊」と呼ばれ数々の絵図に描かれました。

有名な坊だと、徳川家の祈祷所であった「豊蔵坊」、足利家の祈禱所であった「橋本坊」、狩野山楽が住んだ「萩坊」、大石内蔵助実弟が住職を務めた「大西坊」、松花堂昭乗ゆかりの「瀧本坊」・「泉坊」などが挙げられます。

もっとも、明治元年(1868)の廃仏毀釈により全て破棄されてしまったため現在は参道石垣や石燈籠が残るだけとなっており、石燈籠の竿の部分に「宿坊 ○○坊」と刻まれているのが僅かに往時を偲ばせています。

① 萩坊

萩坊は、裏参道(太子坂)ルートに位置する僧坊です。

安土桃山時代、画家・狩野山楽が豊臣秀吉に追われて隠れ住んだことでも知られています。

その縁もあって、萩坊客殿には狩野山楽により描かれた金張付極彩色の図が飾られていたと言われています。

② 瀧本坊

瀧本坊は、江戸時代初期に寛永の三筆として名をはせ、当代一の文化人といわれた瀧本坊住職・松花堂昭乗(豊臣秀次の御落胤ともいわれていますが真偽は不明です)が住職を務めた坊です。

敷地南側に客殿、北側に瓢箪型の池、東側に書院が設けられていました。

松花堂昭乗が、作庭名人でもあった江戸幕府将軍茶道師範・小堀遠州と親しい間柄であった関係もあり、東側書院の南端に、松花堂昭乗と小堀遠州が共作した7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中にせり出した空中茶室ともいうべき茶室「閑雲軒」が造られていました。

③ 泉坊

泉坊は石清水社を少し下った所にあった坊です。

泉坊としては、それ自体よりもその中に建てられた松花堂が有名です。

松花堂は、松花堂昭乗が、瀧本坊住職を引退した後の寛永14年(1637年)12月に泉坊の一角に広さ二畳の茶室・水屋・持仏堂を備えた結んだ庵です。

松花堂及び泉坊書院は、明治期に男山南方に移築され、現在は「松花堂庭園・美術館」となっています。

④ 橘本坊(きっぽんぼう)

橘本坊は、室町幕府将軍家である足利家の祈願所です。

石清水八幡宮が源氏の氏神であること、3代将軍である足利義満の母である良子が石清水八幡宮寺別当を務めた善法寺家の出身であったことなどから、石清水八幡宮は足利将軍家にも崇拝され、足利将軍の多くが何度も石清水八幡宮に参詣していました。

橘本坊は、その際の祈願所としても利用され、八幡太郎義家の産衣や甲冑も保管されていました。

もっとも、宝暦9年(1759年)の火災により失われています。

⑤ 高坊

高坊は、上皇の御幸や天皇の行幸の際の休憩所となった坊であり、皇居に準じられていました(宿院と記された記録もあります。)。

正確なところは不明ですが、長歴〜長久年間(1037〜1044年)に神應寺領内の山に成立し、その後、何度か所在地を変更しているものと考えられています。

康平5年(1062年)に中門と長い廊下を増築、建保6年(1218年)10月22日に随身所を増築したとされているのですが、永仁6年(1298年)冬に焼失したとされています。

その後、正安3年(1301年)に再建がなされたものの、観応3年(1352年)4月25日に宿院合戦に際して焼失したと考えられています。

現在は、その名が男山麓の地名として残すのみです。

⑥ 豊蔵坊

豊蔵坊は、表参道の休憩所「鳩茶屋」の少し下にあった江戸入府以前からの徳川家康の祈願所です。

かつては東照大権現(徳川家康)像が祀られていました。

2代将軍徳川秀忠時代に寺領加増朱印地300石を受け、江戸時代を通じて将軍家代参などの宿泊所としても使用され、毎年祈祷の神札を江戸幕府に献上していました。

そのため、巨大な敷地面積に加え、22基に及ぶ常夜燈献納があり、四十八坊のなかでも特に大きな勢力を有していたことがわかります。

⑦ 太西坊

大西坊は、石清水八幡宮本殿北側(現在の男山展望台の西奥)にあった坊です。

元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及んだいわゆる「松廊下事件」が起こった際の太西坊の住職・専貞は赤穂藩家老の大石内蔵助良雄の実弟でした(跡を継いだ覚運は、大石内蔵助の養子)。

松廊下事件の7日後の同年3月21日、大石内蔵助は太西坊に対して「赤穂城をいずれ明け渡さなくてはならないから、浪人となる14〜15人の仮住まいを探して欲しい。できれば男山の麓か山崎、山科、伏見、大津あたりで見つけて欲しい」という書状を送っています。

この後、大石内蔵助は、江戸に下向するに際して太西坊に立ち寄り、仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれています。

これらの経緯から、赤穂浪士討入り後には、覚運がこれを援助したと評判になり、太西坊に寄付が集まって坊の再興に利用されたと伝えられています。

(7)石灯籠群

石清水八幡宮の境内には、約450基もの石灯籠があります。

これらは、献灯のために時の権力者などが寄進したものであり、その多くには寄進した年月日や寄進者の名が刻まれています。

石清水八幡宮の境内にある石灯籠の多くは、山内にあった僧坊へ寄進されたものだったのですが、廃仏毀釈によって僧坊が破棄されたたために行き場を失った石灯籠は参道の約100mの範囲に並べられました。

その結果、現在では、約400基もの石灯籠が参道の約100mの範囲に並ぶという石灯籠群を形成するに至っています。

(8)神馬舎

神馬舎は、昭和34年(1959年)に再建された、馬場南端に位置する建坪6坪余の瓦葺建物です。

その名のとおり、厩舎です。

上院(山上)

(1)三の鳥居

三の鳥居は、応永7年(1400)7月16日に建てられた男山山頂にある神馬舎前の鳥居です。

建立から約200年間は朱塗り・金箔装飾の木造鳥居だったのですが、正保2年(1645)正月に石造りに改められました。

もっとも、その後、安永3年(1774年)の台風で倒壊した後に再建されたのですが、昭和36年(1961年)9月16日の第二室戸台風で再び倒壊したため同年12月に再建されたものが現在のものとなっています。なお、第二室戸台風で倒壊した石鳥居は、昭和41年(1966年)に重森三玲によって作庭された庭園「鳩峯寮の庭」にその石材が用いられています。

(2)一ツ石

一ツ石は、三の鳥居がまたぐ参道敷石のやや東寄り中央にはめ込まれた約90cm×約60cmの自然石です。

この一ツ石は、かつて南総門の下にあった「五ツ石」との間を往復するお百度参りの起点になっていました。

(3)社務所

社務所は、三の鳥居と社殿の間に建てられた石清水八幡宮の事務処理や管理を行う建物です。

かつての社務所は、昭和22年(1947年)2月12日に発生した社務所の火災により、現行法の重要文化財に相当する当時の旧国宝6件(①絹本著色八幡宮縁起 2巻 永享五年奥書・②絹本著色僧形八幡像 松花堂昭乗筆 附:漆塗箱・③木造男神坐像・④木造女神坐像・⑤太刀:銘助守作・⑥法華経8巻常子内親王筆)と共に焼失しており、現存する建物はその後に再建されたものです。

社務所の南側には、石庭を擁する書院が存在しています。

① 書院

② 書院石庭

書院石庭は、昭和27年(1952年)に重森三玲によって作庭された石庭です。

③ 永仁の石灯籠(重要文化財)

社務所横の書院の庭に立つ石灯籠は、銘文に「永仁三年(1295年)乙未三月」と書かれた石清水八幡宮にある最古の石灯籠です(永仁の石灯籠)。

元々は、本殿東側階段下の伊勢大神宮遙拝所に立っていたものが移設されて現在地に至っています。

その歴史的価値から、重要文化財に指定されています。

(4)西谷地域の塔

石清水八幡宮本殿西側の「西谷」地域では、平安時代中期に白河法皇によって大塔建立発願がなされたことにより、谷を埋めての仏塔・仏堂建立が始まります。

なお、一遍上人絵伝に西谷大塔・西谷小塔・東谷宝塔院宝塔が記載されているため、鎌倉時代後期にはこれらの3塔が存在していたことが明らかとなっています。

① 西谷大塔

西谷大塔は、天永2年(1111年)に白河法皇の御願により建てられた真言宗形式の塔です。

その後、慶長10年(1603年)に豊臣秀頼によって再建されたのですが、明治時代に神仏分離令が出されたことにより解体されて失われました。

② 西谷小塔

西谷小塔は、長承元年(1132年)に鳥羽天皇皇后の待賢門院(藤原璋子)の発願により多宝塔形式の「小塔」です。

慶長元年(1596年)に発生した慶長地震によって倒壊しています。

③ 東谷宝塔院宝塔(琴塔)

宝塔院宝塔(琴塔)は、万寿年間(1024~1028年)に石清水八幡宮本殿東側の東谷に建てられた天台宗形式の二重の仏塔です。

大きさは、側柱一辺10.92m・高さ11.9mでした。

軒の四隅に風が吹くと鳴る仕組みの琴がかけられていたことから琴塔とも呼ばれました。

その後、慶長11年(1604年)に豊臣秀頼によって再建されたのですが、明治時代に神仏分離令が出されたことにより解体されて失われました。

現在は、基壇中央部に参道が通されているのですが、その両端には皇子の礎石が残されています。

④ 駿河三昧塔(馬場末塔)

(3)八角堂

八角堂は、鎌倉時代初期、順徳天皇の御願により三女神社の北西の位置に建てられた像高3mの阿弥陀仏を祀る「阿弥陀堂」です。

慶長12年(1605年)に豊臣秀頼によって再建された後、元禄11年(1698年)に再建され、享保年間(1716年~736年)には正方形の阿弥陀堂の四隅を切って八角堂に改修されました。

その後、明治時代初期の神仏分離令により撤去されることとなり、正法寺住職の志水円阿によって明治3年(1870年)に現在地である正法寺の飛び地境内であった西車塚古墳の後円部上に移築され、現在に至ります。

(4)山上摂末社

摂末社は、本社に祀られる八幡大神に所縁の深い神を祀った大小の社殿です。

① 三女神社

三女神社は、宗像三女神(多紀理毘売命・市寸島姫命・多岐津比売命)の三柱を祀る石清水八幡宮の末社です。

② 竈神殿

竈神殿(そうじんでん)は、慶長2年(1597年)に再建された供御所建物の中央にある台所の守護神である石清水八幡宮の末社です。

御祭神は、迦具土神(かぐつちのかみ)・奥津日子神(おきつひこのかみ)・彌都波能賣神(みづはのめのかみ)・奥津比賣神(おきつひめのかみ)です。

③ 貴船社・龍田社

高龗神を祭神(水神)とする貴船社・級津彦命及び級津媛命を祭神(風神)とする龍田社は、いずれも石清水八幡宮本殿北側に建久2年(1191年)に創建されたとされる石清水八幡宮の末社です。

④ 若宮社・若宮殿社(いずれも重要文化財)

祭神を仁徳天皇とする若宮社・祭神を応神天皇の皇女とする若宮殿社は、いずれも、石清水八幡宮本殿北東に位置する平安時代前期に創建された石清水八幡宮の末社です。

石清水八幡宮本殿で祈禱を受けた後で「清め衣」に願いを書き、男性は若宮社に、女性は若宮殿社に奉納することとされています。

現在の両社殿は、寛永年間(1624~1644年)頃に再建されたものであり、若宮社は日吉造となっています。

⑤ 水若宮社(重要文化財)

水若宮社は、宇治稚郎子命を祭神とする、石清水八幡宮本殿北東に位置する石清水八幡宮の末社です。

一間社流造・檜皮葺の現在の社殿は、寛永年間(1624~1644年)頃に再建されたものとされています。

⑥ 気比社

気比社は、氣比大神(伊奢沙別命)を祭神とする、石清水八幡宮本殿北東に位置する石清水八幡宮の末社です。

永世2年(1505年)に創建された朱塗りの一間社流見世棚造り・檜皮葺き構造の小祠です。

⑦ 水分社

水分社は、水流や水源の神である國之水分神を祭神とする石清水八幡宮の末社です。

伊勢神宮遥拝所から細橋の向かいに位置しています。

現在は、豊作の神として信仰されています。

⑧ 広田社・生田社・長田社

広田社・生田社・長田社は、石清水八幡宮本殿西側に位置する石清水八幡宮の末社です。

広田社は天照大御神を、生田社は稚日女命を、長田社は事代主命をそれぞれ祭神としています。

⑨ 住吉社(重要文化財)

住吉社は、底筒男命・中筒男命・表筒男命を祭神とする、石清水八幡宮本殿北西に位置する石清水八幡宮の末社です。

江戸時代前期の再建された本殿は、重要文化財に指定されています。

⑩ 一童社

一童社は、磯良命を祭神とする、石清水八幡宮本殿北側に位置する石清水八幡宮の末社です。

⑪ 武内社本殿(国宝)

武内社本殿は、武内宿禰命を祭神とする石清水八幡宮の摂社です。

他の摂末社は石清水八幡宮本殿の周囲にあるのですが、武内社だけは石清水八幡宮本殿内に置かれ、石清水八幡宮本殿とあわせて国宝に指定されています。

(5)校倉(京都府指定文化財)

校倉(宝蔵)は、石清水八幡宮北西隅にある、江戸時代中期に再建された宝蔵です。

校倉建築で築かれており、京都府指定文化財に指定されています。

(6)石清水八幡宮

石清水八幡宮は、祭神である八幡大神(誉田別命=神格化された第15代応神天皇・息長帯姫命=応神天皇の母である神功皇后・比咩大神=宗像三女神)を祀る神社です。

石清水八幡宮創建時の貞観2年(860年)に清和天皇の勅命によって建立されたのですが、以降、焼失・再建を繰り返しており、14度の造営と・修理17度の修理が行われたと記録されています。

現在の石清水八幡宮社殿は、織田信長の社殿修復・豊臣秀吉の廻廊再建・豊臣秀頼の社殿再建を経てた後、寛永11年(1634年)に江戸幕府3代将軍徳川家光によって再建されたものであり、本社のうち10棟が国宝に指定されています。

桁行12間の内殿と外殿を前後に並べ、楼門から舞殿・幣殿・本殿が続いて複合した「八幡造」と呼ばれる独特の構造をしています。

① 南総門(昭和13年/1938年再建)

石清水八幡宮には、東西南北の全てに総門が設けられており、そのうち参道から社殿に入る際の入口となるのが南総門です。

南総門から北西側には神楽殿が、北東側には授与所が繋がっています。

元々あった南総門は、昭和14年(1939年)に極楽寺の南門とするために山麓(下院)に移築されることとなったため、現在の南総門はその代わりとして昭和13年(1938年)に再建されたものです。

② 北総門(重要文化財)

③ 東総門(重要文化財)

④ 西総門(重要文化財)

⑤ 楼門(国宝)

楼門は、入母屋造り・桧皮葺となっており、左右に廻廊を出して外囲いを作り前方に唐破風の向拝をつけるという珍しい建築構造となっています。

⑥ 東門(国宝)

⑦ 西門(国宝)

西門蟇股に施されている「目貫きの猿」の彫刻は、日光東照宮の彫刻なども手掛けた左甚五郎の作と言われています。

この猿は、余りにも精巧だったがゆえに、夜になると彫刻から抜け出して山麓の畑を荒らしていたとされ、そのような悪さをすることがなくなるように猿の右目に釘を打ちつけて動かなくさせたという逸話が残されています。

⑧ 廻廊(国宝)

廻廊の東北方向(丑寅の方位)は鬼門であるために鬼門封じとして土台の石垣が切り取られた造りとなっており、鬼が中に入れないよう工夫されています。

⑨ 舞殿(国宝)

⑩ 幣殿(国宝)

⑪ 社殿(瑞籬を含め国宝)

石清水八幡宮社殿は、祭神である八幡大神(誉田別命=神格化された第15代応神天皇・息長帯姫命=応神天皇の母である神功皇后・比咩大神=宗像三女神)を祀る石清水八幡宮の中心建物です。

外陣(外殿・国宝)と内陣(正殿・国宝)で構成され、三間社を一間ずつあけて1棟とする「11間社八幡造り」構造となっています。

社殿が内殿と外殿に分かれている理由は、八幡大神が、昼は外殿・夜は内殿に遷られるとされることにちなみます。

そして、この外陣と内陣の軒が接する場所には、天正8年(1580年)8月に織田信長が永遠に使えるようにと腐食しない金で作られた奉納した長さ21.7m・幅54cm・深さ21cm・厚さ3cmの「黄金の樋」が設けられています。

社殿は南面しており、参拝者が帰る際に八幡大神に背を向けることがないよう参道が斜めに接続されていることが特徴的です。

(7)その他

① 供御井

② 御鳳輦舎

御鳳輦舎は、放生会(現在の石清水祭)の際に八幡神が下院に降りる際に乗車する3基の鳳輦を納める建物です。

③ 御羽車舎

御羽車舎は、2基の羽車を納める建物です。

慶長年間(1596年 – 1615年)に淀殿によって再建され、かつては経蔵として利用されていました。

④ 伊勢神宮遥拝所

⑤ 築地塀

築地塀は、織田信長が奉納した土塀であり、織田信長が好んで採用した様式であるため「信長塀」と呼ばれています(熱田神宮にも同じものがあります。)。

⑥ 大楠

大楠は、根周り18m・樹高30m・樹冠40mという樹齢700年のクスノキです。

建武元年(1334年)に楠木正成が戦勝祈願のために奉納した7本の内の1本といわれています(洛陽名所集)。

門前町

男山の発展と共に、その山麓北側から東側までの開発が進められて門前町が形成され(なお、男山の西側は三川の合流地点となる低湿地帯であるために居住に適さなかったため発展しませんでした。)、内四郷(常盤郷・科手郷・山路郷・金振郷)・外四郷(川口郷・美豆郷・際目郷・生津郷)の八幡八郷と呼ばれて発展していきました。

また、その周辺に禅宗寺院(単伝庵・円福寺など)が建てられるなどして、一大宗教都市を形成しました。

なお、石清水八幡宮の祇官家は紀一族である2家(いずれも僧形)が務めており、現在の宮司家である田中家(天皇家御師)と平安時代後期に分かれた善法寺家(将軍家御師)があったところ、第27代長官を務めた善法寺宮清の邸宅が寄進されて寺格化した善法律寺が八幡馬場に残されています。

狩尾神社

狩尾神社(とがのおじんじゃ)は、男山西方の西尾埼狩尾山(飛地境内)に建つ石清水八幡宮の摂社であり、祭神は天照大御神・大己貴命・天児屋根命の三柱です。

行教和尚の夢記に「斗我尾」と記されるなど石清水八幡宮が宇佐八幡宮より勧請される前から存在し、狩尾神社と称されていました。

その後、応安7年(1374年)に焼失したことがわかっており、現在の社殿は慶長6年(1601年)に造営されたものであり、その後の江戸時代には宝永期・萬治期・寛文期の三度の修復を経て現在に至ります。

本殿は、平成26年(2014年)に重要文化財に指定されています。

善法律寺

善法律寺は、男山山麓東側にある律宗寺院であり、石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が、正嘉年間(1257〜1259)に私邸を喜捨し、東大寺から実相上人を招いて創建されました。

弘安年間(1278〜1288)に石清水八幡宮の社殿を移して建立された本堂を中心として、庫裡、阿弥陀堂、聖天堂などが配されています。

室町幕府第2代将軍足利義詮に嫁ぎ、3代将軍義満を産んだ善法寺通清の娘であった良子の生家としても有名です。

このことから、足利義満は特に八幡宮を崇敬したとされており、生涯で20数回も八幡を訪れたとされています。

また、その後も、善法律寺は足利将軍家との関係が深く、強い庇護を受けています。

なお、善法律寺本堂に安置されている八幡大菩薩(僧形八幡)は、元々は石清水八幡宮に安置されていた者だったのですが、明治元年(1868)の神仏分離令により同寺に移されたことにより破却されずに残ったものです。

現在は、良子寄進と伝わる紅葉が有名であり、「もみじ寺」とも言われています。

正法寺

正法寺は、建久2年(1191年)に鎌倉幕府御家人であり石清水八幡宮の社家である志水家の祖となった高田忠国が開基となって創建した浄土宗寺院です。

志水家の菩提寺であり、天文15年(1546年)には後奈良天皇の祈願所ともなりました。

また、志水家出身のお亀の方が文禄3年(1594年)に徳川家康の側室となり、その後に尾張徳川家の祖である徳川義直を産んだことから、江戸幕府より朱印状を得ています。

現在の正法寺の伽藍は、寛永6年(1626年)頃にお亀の方の寄進により建立されたものとされています。

 

幕末期以降の男山

門前町の消失(1868年1月)

慶応4年(1868年)1月、旧幕府軍と新政府軍が鳥羽・伏見の戦いに至ったのですが(鳥羽伏見の戦い)、敗れた旧幕府軍が、南下して男山・橋本方面へ撤退します。

ここで、旧幕府軍は、橋本陣屋を本陣とし、軍を男山(八幡市)・橋本周辺に集めて立て直しを図ったのですが、新政府軍がこれに攻撃を加えて散々に打ち負かしました。

このときの戦いの戦火により、石清水八幡宮の門前町の大部分が焼失してしまいました。

男山から仏教が失われる

その後、慶応4年(1868年)3月12日に明治新政府が発した神仏分離令により神道と仏教は分離され、日本全国において仏教排除(廃仏毀釈)運動が起こります。

この動きは石清水八幡宮にも及び、神仏習合の象徴でもあった八幡大菩薩も神と仏が分離された上で仏が廃され、神号も八幡大神となりました。

また、明治2年(1869年)8月には社号も「男山八幡宮」に改称され、境内にあった仏堂・仏塔・祭具など仏教に関するものは徹底的に破却されて姿を消してしまいました。

さらに、神宮寺であった護国寺は廃寺とされました。

これに伴い、護国寺本尊の薬師如来像と十二神将像は淡路島にある東山寺に、また八幡宮本殿に置かれていた本尊・僧形八幡神坐像、観音堂の千手観音像・愛染堂の愛染明王像・極楽寺の本尊阿弥陀三尊像・八幡宮旧社殿は男山の東山麓にある善法律寺にそれぞれ移されました。

また、豊蔵坊の東照大権現像は等持院に移され、阿弥陀堂は明治3年(1870年)に正法寺の飛び地境内であった西車塚古墳の後円部上に移築されました

加えて、山中にあった男山四十八坊の大部分や、西谷大塔・宝塔院宝塔(琴塔)などは解体され、男山山中から仏教色が全て奪われてしまいました。

明治時代の序列

以上の結果、仏教色が失われて純粋な神社となった男山八幡宮(石清水八幡宮)は、明治4年5月14日(1871年7月1日)に定められた近代社格制度である太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により神祇官が直接祀る官幣社の最上位である官幣大社に列しました。

また、明治16年(1883年)には祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる神社(勅祭社)となります。

なお、その後、大正7年(1918年)1月、社名が「石清水八幡宮」へ復されて現在に至ります。

昭和時代の序列

昭和21年(1946年)2月2日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の神道指令により神社の国家管理という近代社格制度が廃止されると、建前として伊勢神宮を除く全ての神社は対等の立場であるとされました。

もっとも、旧官国幣社をはじめとする規模の大きな一部の神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」(昭和23年9月30日規程第15号)による特別扱いが認められ、その対象となる神社が同規程の別表に記載されることとなりました(この別表に掲げる神社を「別表神社」と称します)

そして、石清水八幡宮もまた、この神社本庁の別表神社に加列されることとなりました。

余談(白熱電球の開発)

19世紀以降、世界中で電気エネルギーを利用した照明の開発(白熱電球の実用化)が進められており、特にイギリスのジョゼフ・スワンとアメリカのトーマス・エジソンがこれを競っていました。

この2人を含めた世界中の発明家が、動物の爪や植物の繊維などの6000種類とも言われる様々な材料を使って実験を繰り返していました。

1879年10月19日に木綿糸を炭化させてフィラメントにした実用炭素電球を開発したエジソンでしたが、白金を素材としたフィラメントを試すもガスが出て寿命が短くなる問題が解決しませんでした。

そこで、研究室にあった扇に使われていた竹を使って再実験したところ予想外の良い結果が得られたことから、エジソンは日本・中国などの竹を求めます。

そして、明治13年(1880年)に来日したエジソン助手のウイリアム・H・ムーアにより粘着性と柔軟性に富む男山付近で採取された真竹がエジソンの下に送られ、これをフィラメントとして利用した白熱電球が完成します。

この竹を使用した白熱電球は約1000時間の持続時間を有し、1894年にフィラメントが竹からセルロースに変更されるまで何百万個の馬蹄型フィラメントの材料となりました。

以上の歴史を記念し、昭和9年(1934年)に石清水八幡宮境内にエジソン記念碑が建てられ、昭和33年(1958年)に現在地に移された後、昭和59年(1984年)建て替えを経て現在に至ります。

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