【岡田以蔵】武市半平太に従って天誅を繰り返した幕末四大人斬りの1人「人斬り以蔵」

岡田以蔵(おかだいぞう)は、天誅と称して幕末の京で幕府方の要人を斬りまくった土佐藩郷士です。

武市瑞山(半平太)の命に従い、多くの暗殺を行ったことから、同時期には「天誅の名人」と呼ばれ、後世では「人斬り以蔵」と称されて「幕末の四大人斬り」の1人にも数えられています。

もっとも、最後には兄貴分と慕う武市半平太に見捨てられ、同志たちにも軽蔑されながら斬首刑に処せられるという悲しい生涯を終えた人物でもあります。

本稿では、そんな悲しき人斬り・岡田以蔵の生涯について見ていきたいと思います。 “【岡田以蔵】武市半平太に従って天誅を繰り返した幕末四大人斬りの1人「人斬り以蔵」” の続きを読む

【佐久間象山】吉田松陰らを育てた幕末最高の洋学者

佐久間象山(さくましょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期に洋学の第一人者として活躍した松代藩士です。

幕末の動乱期に大砲鋳造などの数々の多大な業績を残してただけでなく、吉田松陰、勝海舟、河井継之助、橋本左内、小林虎三郎、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬、坂本龍馬、北沢正誠などの後の日本を担う人材を育てた大人物です。

もっとも、自信過剰で傲慢な性格であったために評判は芳しくなく、数々の多大な業績を残したにもかかわらず現在に至るまで、過小評価がなされているのが残念です。

そこで、本稿では、意外と知られていない傑物・佐久間象山について簡単に解説したいと思います。 “【佐久間象山】吉田松陰らを育てた幕末最高の洋学者” の続きを読む

【後三年の役】清原氏が滅亡し奥州藤原氏が登場する契機となった戦い

後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期に陸奥・出羽(東北地方)を治めていた清原氏の家督を巡って勃発した一連の壮大な内紛(兄弟喧嘩)です。後三年合戦ともいいます。

前九年の役の後に奥羽一帯を支配した清原氏が滅亡し奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いでもあり、源義家が源氏の名声を高めて後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となった合戦ともいわれています(余談ですが、永保3年/1083年から寛治元年/1087年にかけての4年間の戦役であったにもかかわらず、後「三年」という謎のネーミングがなされています。)。

本稿では、この後三年の役について、その発生に至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【後三年の役】清原氏が滅亡し奥州藤原氏が登場する契機となった戦い” の続きを読む

幕末京の土佐藩ゆかりの地を歩く

京都を観光するに際して、特定の目的をもって回ってみると歴史を体感出来て興味深いものです。例えば、幕末の英雄・坂本龍馬が所属した土佐藩ゆかりの地を巡ってみてもいいかもしれません。

そこで、本稿では、1日で巡れる幕末の土佐藩ゆかりの地紹介したいと思いますので、観光の一助としていただければ幸いです。 “幕末京の土佐藩ゆかりの地を歩く” の続きを読む

【前九年の役】陸奥国奥六郡を実効支配した安倍氏が滅亡した戦い

前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期に陸奥国・奥六郡の俘囚長であった安倍氏の反乱から始まった一連の戦いです。前九年合戦とも呼ばれます。

東北地方の一大勢力となった安倍氏が滅亡した大戦争であり、源氏の家名を高めた後三年の役の前哨戦となった戦いでもあります。

本稿では、そんな前九年の役について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【前九年の役】陸奥国奥六郡を実効支配した安倍氏が滅亡した戦い” の続きを読む

【源頼朝の征夷大将軍就任】権威があれば何でも良かった初代鎌倉殿の肩書

日本の歴史上、武家政権の長としての官職・肩書は征夷大将軍であるとの認識が一般的です。

室町幕府でも江戸幕府でもこの認識は変わりません。

もっとも、初期の鎌倉幕府では違います。鎌倉幕府の長の肩書は、「鎌倉殿」であり、征夷大将軍ではありません。

征夷大将軍とは、律令制の令外官として存在した「夷」を「征」服する「大将軍」をいうため、東北遠征軍の軍事指揮官に過ぎず武家政権や幕府の長などという意味はないからです。

後に征夷大将軍が武家政権の長の代名詞となったのは、鎌倉幕府の初代トップ(鎌倉殿)であった源頼朝が就任しその力を絶対化させたからです。

本稿では、源頼朝が、後に武家政権の長の代名詞となった征夷大将軍に就任するに至った経緯とその意味について説明していきたいと思います。 “【源頼朝の征夷大将軍就任】権威があれば何でも良かった初代鎌倉殿の肩書” の続きを読む

【静御前】日本一の白拍子と言われた源義経の愛妾

静御前(しずかごぜん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した女性白拍子であり、源義経の愛妾として有名です。

吉野山で源義経と別れた後、源頼朝の前で源義経を慕う舞を舞わされ、生まれてきた子を源頼朝に殺されるという悲しい人生を送ります。

また、その人生の最期についての記録はないことから、哀れを誘う人生を偲んで全国各地に静御前の民間伝承や静御前のものと言われる墓が点在するなど現在においてなおミステリアスな女性です。

本稿では、数奇な人生を歩んだ静御前の生涯について見ていきたいと思います。
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【源義平】悪源太と呼ばれた源頼朝の長兄

 

源義平(みなもとのよしひら)は、源義朝の庶長子と生まれた武将であり、源頼朝や源義経の異母兄にあたります。

大蔵合戦で源義賢を討ち取る武功を挙げ、「鎌倉悪源太」と呼ばれて恐れられるようになった人物です(「悪」=強い、「源」=源氏の、「太」=長男)。

平治の乱では、義平十七騎と呼ばれる少数騎兵で、平重盛率いる大軍を蹴散らしたことでも有名です。

そして、最期は、捕えられて平清盛の前に引き立てられた後、数え20歳の若さで京の六条河原で斬首されています。

本稿では、そんな波乱万丈の源義平の人生について順にみていきたいと思います。 “【源義平】悪源太と呼ばれた源頼朝の長兄” の続きを読む

【源義経の奥州逃避行】平家討伐の英雄が謀反人とされて奥州に落ちていくまで

壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす大金星を挙げた源義経でしたが、その後すぐに鎌倉の源頼朝と対立し、その命を狙われ続けます。

戦果を報告するために鎌倉に向かっても鎌倉入りを許されず、京に戻ると源頼朝からの刺客に襲われます。

やむなく源頼朝討伐の挙兵をしても兵が集まらず、勢力を整えるために九州に向かおうとしても船が難破して押し戻されるなど、平家討伐後の源義経の人生は悲惨です。

その後、京にいられなくなった源義経は、かつての育ての親ともいえる藤原秀衡を頼って奥州に落ち延びていくこととなるのですが、本稿ではこの平家討伐後から奥州落ちに至る経緯を簡単に説明していきたいと思います。 “【源義経の奥州逃避行】平家討伐の英雄が謀反人とされて奥州に落ちていくまで” の続きを読む

【第80代・高倉天皇】父の後白河上皇と舅の平清盛の間で苦しんだ若き天皇

高倉天皇(たかくらてんのう)は、後白河天皇の第七皇子として生まれ、即位後に平清盛の娘である平徳子を中宮に迎えた天皇です。

壇ノ浦で入水した安徳天皇、承久の乱で北条義時と争った後鳥羽天皇らの父でもあります。

本稿では、後白河院と平清盛の権力争いの道具として、生涯父と舅の間で苦しめられ続けた若き天皇、高倉天皇の生涯について振り返って行きたいと思います。 “【第80代・高倉天皇】父の後白河上皇と舅の平清盛の間で苦しんだ若き天皇” の続きを読む