
桶狭間の戦いの前哨戦として大高城兵糧入れを成功させた徳川家康(このときは松平元康と名乗っていましたが、便宜上本稿では、徳川家康の表記で統一します。)は、大高城で桶狭間の戦いの結果を聞かされます。
その後、大高城から決死の退き口を成功させて岡崎城に戻った徳川家康は、当初は今川家の将として織田軍と戦い、しばらくした後は、今川家から独立して一国衆として三河国平定を目指して今川軍と戦っていくようになります。
そして、岡崎城に入った後、西三河平定→三河一向一揆鎮圧→東三河・奥三河平定の順で三河国平定戦を戦い、苦労を重ねた後に約5年の歳月をかけて永禄8年(1565年)にようやく三河国平定を達成しています。
本稿では、この三河国平定戦のうち、もっとも初期の一連の戦いである西三河平定戦について、そこに至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【徳川家康の西三河平定戦】国衆調略と吉良義昭討伐戦” の続きを読む





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