【三善康信】誤報で源頼朝を挙兵させた初代問注所執事

三善康信(みよしのやすのぶ)は、初代問注所執事として鎌倉幕府内での裁判実務を一手に引き受けた有能な文官です。

有能ではあったのですが、性格はおっちょこちょいであり、京で下級役人をしていた時代に、早とちりのせいで源頼朝に誤報を届け、対平家の挙兵を決定させるという歴史的一大事件の引き金を引いた人物としても有名です。 “【三善康信】誤報で源頼朝を挙兵させた初代問注所執事” の続きを読む

【安達盛長(小野田盛長)】伊豆に流された源頼朝の最初の家人

安達盛長(あだちもりなが)は、伊豆国に流された源頼朝の最初の家人となった人物です。

比企尼の命により、罪人として家臣を持つことを許されなかった源頼朝の事実上の世話回りをし、後に鎌倉幕府の上位御家人となっています。

本稿では、最終的には13人の合議制の1人になるにまでに出世をし、鎌倉時代に繁栄した安達氏の祖となった人物となった安達盛長の生涯について見ていきたいと思います。 “【安達盛長(小野田盛長)】伊豆に流された源頼朝の最初の家人” の続きを読む

【摂家将軍】源氏将軍断絶後のつなぎの鎌倉殿の藤原頼経と藤原頼嗣

摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府において、源氏将軍が途絶えた後、九条家から迎えられた藤原頼経(第4代鎌倉殿)とその子・藤原頼嗣(第5代鎌倉殿)の2人の征夷大将軍を言います。藤原将軍あるいは公卿将軍とも呼ばれます。

摂家将軍が置かれた期間は、嘉禄2年(1226年)正月から建長4年(1252年)までのわずか26年間に過ぎません。

宮将軍を擁立するまでのつなぎとして擁立された上で北条家の権威の基盤として使われ、必要がなくなるとポイ捨てされるという悲しい結末を迎えています。

本稿では、悲しいつなぎの将軍であった「摂家将軍」について見ていきたいと思います。 “【摂家将軍】源氏将軍断絶後のつなぎの鎌倉殿の藤原頼経と藤原頼嗣” の続きを読む

【第82代・後鳥羽天皇】承久の乱で北条義時に敗れ隠岐に流された上皇

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、鎌倉幕府執権・北条義時討伐のための兵を挙げたものの敗れて隠岐に流された上皇として有名です(承久の乱)。

このことだけ聞くと、無謀な挙兵をした人物であるかのように感じられますが、実はそんなことはありません。

朝廷から武士に権力が移行していく時代に抗い、鎌倉殿・源実朝を取り込んだり、鎌倉幕府御家人に官位を与えるなどして朝廷の権威を取り戻そうと尽力したとても有能な上皇でした。

実際、後鳥羽上皇は、文武両道であったとされ、新古今和歌集の編纂でも知られています。

もっとも、結果的には幕府軍の数の暴力に屈して隠岐島に流され、失意のうちに崩御されるという悲しい結末を迎えています。 “【第82代・後鳥羽天皇】承久の乱で北条義時に敗れ隠岐に流された上皇” の続きを読む

【北条政子の演説】北条家の危機を鎌倉幕府の危機にすり替えた尼将軍の名演説

北条政子の演説は、第3代鎌倉殿を失って混乱する鎌倉幕府を見て北条義時を討伐する好機と判断した後鳥羽上皇が、北条義時追討の院宣を発したのに対し、この「北条家の危機」を「鎌倉幕府の危機」であるかのように御家人に伝えてその奮起を促したという歴史のターニングポイントとなった出来事です。

その後の承久の乱により、朝廷の権威を失墜させ、幕府と朝廷という二元体制から幕府による一元支配につながるきっかけともなりました。

本稿では、そんな歴史のターニングポイントの端緒となった北条政子の演説について、そこに至る経緯からみていきたいと思います。 “【北条政子の演説】北条家の危機を鎌倉幕府の危機にすり替えた尼将軍の名演説” の続きを読む

【北条義時追討の院宣】承久の乱のきっかけとなった後鳥羽上皇の命令

北条義時追討の院宣は、第3代鎌倉殿を失って混乱する鎌倉幕府を見て好機と判断した後鳥羽上皇が、1221年(承久3年)、鎌倉幕府執権・北条義時打倒の兵を挙げた際に(承久の乱)、全国の有力者に対して自らに味方するよう命じた院宣です。

このときまで、朝廷軍に勝利した(朝敵となって勝利した)武士はいませんでしたので、「北条家」存亡の危機に瀕することとなります。

もっとも、北条政子の演説により、「北条家の危機」であったのを「鎌倉幕府の危機」であるかのように御家人に伝えてその奮起を促し、ついに後鳥羽上皇を打ち破る結果につなげるという大逆転劇をやってのけます。

本稿では、北条義時に敗れて権威を失った朝廷が武士に権力を奪われるという歴史のターニングポイントの端緒となった北条義時追討の院宣について、その発出の経緯からみていきたいと思います。 “【北条義時追討の院宣】承久の乱のきっかけとなった後鳥羽上皇の命令” の続きを読む

【牧の方】北条家と鎌倉幕府の実権簒奪に失敗した北条時政の継室

牧の方(まきのかた)をご存じですか。

鎌倉幕府の初代執権となった北条時政の継室であり、北条時政を取り込んで、息子を2代目執権(北条家当主)にしようとしたり、娘婿を第4代鎌倉殿にしようとしたりするなど、権力への執着を見せた女性です。

最終的には、北条時政の先妻派閥(北条政子・北条義時・阿波局ら)に敗れて出家させられたのですが、そこに至るまでの経緯が波乱万丈です。

本稿では、権力に魅せられた女性である牧の方の人生について見ていきましょう。 “【牧の方】北条家と鎌倉幕府の実権簒奪に失敗した北条時政の継室” の続きを読む

【黄瀬川の対面】政治の天才源頼朝と戦の天才源義経との出会い

黄瀬川の対面は、伊豆国に流されて長い雌伏の時を経て立ち上がった源頼朝の下に、弟・源義経が駆けつけて両者が感動の対面をしたという出来事です。

政治の天才・源頼朝と戦の天才・源義経との結びつきとして美談に描かれがちですが、実際は、全くかみ合わない2人の天才の悲劇的物語の序曲でした。

本稿では、そんな黄瀬川の対面について、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【黄瀬川の対面】政治の天才源頼朝と戦の天才源義経との出会い” の続きを読む

【平賀朝雅】北条家の内紛に翻弄され第4代鎌倉殿になり損ねた御家人

平賀朝雅(ひらがともまさ)は、鎌倉幕府の最上位御家人の1人であり、北条時政と牧の方に担がれて第4代鎌倉殿になる寸前まで出世した人物です。

牧氏の変により後ろ盾であった北条時政が失脚したため、連座して北条義時に処刑されるという悲しい最期を迎えた人物でもあります。

本稿では、北条家のお家騒動に巻き込まれ、天国から地獄に突き落とされた平賀朝雅の人生について見ていきたいと思います。 “【平賀朝雅】北条家の内紛に翻弄され第4代鎌倉殿になり損ねた御家人” の続きを読む

【源頼朝と北条政子の結婚】鎌倉幕府設立の契機となったカリスマの結婚

源氏のプリンス源頼朝は、平治の乱に敗れて伊豆国に流されたのですが、そこで北条政子と出会い、その力を借りて武家政権を樹立させていきます。

一見すると、伊豆国の土豪の娘が源氏の頭領に嫁ぐというシンデレラストーリーのように見えますが、実際には賢く嫉妬心の強い北条政子が、源頼朝の手綱を握りながら一緒に力をつけていくという成長物語です。

本稿では、そんな源頼朝と北条政子との結婚について、そこに至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【源頼朝と北条政子の結婚】鎌倉幕府設立の契機となったカリスマの結婚” の続きを読む