志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年(1570年)9月から12月に亘って行われた、比叡山延暦寺に立てこもった浅井長政・朝倉義景を攻めきれなかった織田信長が屈辱的な内容での和睦を結ぶに至ったという戦いです。
第1次信長包囲網成立の切っ掛けとなった戦いでもあります。
また、この戦いに際して浅井・朝倉連合軍に味方したことを理由として、その後に比叡山延暦寺焼き討ちに繋がったという重要な意味を持つ一戦でもあります。 “【志賀の陣】織田信長が朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺に惨敗した戦い” の続きを読む
志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年(1570年)9月から12月に亘って行われた、比叡山延暦寺に立てこもった浅井長政・朝倉義景を攻めきれなかった織田信長が屈辱的な内容での和睦を結ぶに至ったという戦いです。
第1次信長包囲網成立の切っ掛けとなった戦いでもあります。
また、この戦いに際して浅井・朝倉連合軍に味方したことを理由として、その後に比叡山延暦寺焼き討ちに繋がったという重要な意味を持つ一戦でもあります。 “【志賀の陣】織田信長が朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺に惨敗した戦い” の続きを読む
織田信房(津田源三郎信房)は、織田信長の五男として生まれた武将です。
幼くして武田家の人質となって甲斐で元服しており、武田家の戦略・戦術等を記した軍学書である甲陽軍鑑では、織田勝長(おだかつなが)と標記されています。
父である織田信長の命により武田家との最前線となる東美濃・岩村城を取り込むために幼くして遠山家に養子に出されたのですが、武田軍に岩村城を陥落させられた際に武田への人質となり、その前半生を武田家で過ごすこととなります。
その後、織田家に戻ることが出来たのですが、その僅か1年後に本能寺の変に巻き込まれて若い命を散らしています。 “【織田信房(御坊丸)】幼くして武田家の人質となった織田信長の五男” の続きを読む
大坂があった河内国は、太古の時代は大阪湾が東は生駒山麓から西の六甲山脈まで入り込んだ海の中だったのですが、長い年月をかけて運んできた土砂が河口部に堆積していき大小多数の島や洲が点在する地形となっていきました(そのため、八十島と呼ばれていました。)。
その後、更なる土砂の堆積や、点在する島々を人の手によって繋ぐなどして陸地化が進められ、大坂の地が市街化されていきました。
もっとも、市街化したとはいえ、依然として街中には多くの川が流れており、またこれらの川の氾濫を防ぐためにいくつもの運河が開削されていったため、大坂の町にはこれらの川・運河を渡るための多くの橋が架けられていきました。またこれらの水運を利用して巨大なマーケットが形成され、さらにはこれらを見込んで川沿いに各藩の大坂蔵屋敷が林立することとなりました。
浪華八百八橋と言われた大坂の橋ですが、八百八という具体的な数字がついているものの800を超える橋があったというわけではなく、末広がりを意味する八を重ねるほど多くの橋があったという意味です。
実際の橋の数は、天明7年(1787年)時点で155橋であり、最盛期でも200橋程度でした(現在は1200橋以上あります。)。
200橋が808橋と評価された理由は、大坂では江戸幕府が架設・架替・修復をした公儀橋(主として大坂城に登城するために使用する橋)は12橋しか存在せず、その他多くの橋は町人がその必要性から自腹を切ってどんどん建てていったことに由来しています。
江戸幕府が建てずとも、町人によりどんどん川に橋が架けられて増えていく、そんな末広がりに増えていく様から比喩表現として「浪華八百八橋」と言われるようになったのです。

本多忠真(ほんだただざね)は、徳川四天王となる本多忠勝を育てた武将です。
本多家当主であった父・兄を立て続けに失ったため、本多家当主となる機会があったにも関わらず、甥である本多忠勝にそれを譲り、さらに本多忠勝を後見して東国無双と言われるまでに育てあげています。
その最期は壮絶であり、三方ヶ原の戦いで大敗した徳川家康の退却時間を稼ぐために殿を務め、迫り来る武田軍と戦い討死を果たしています。 “【本多忠真】三方ヶ原の戦いで殿を務めて散った本多忠勝の叔父” の続きを読む

金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)は、越前国を治める朝倉義景を討伐するために越前国に侵攻していた織田・徳川連合軍が、北近江を治める浅井長政の裏切りによって窮地に陥り、命からがら越前国から京まで逃げ帰るという撤退戦です。金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)とも言われます。
織田信長の生涯の中で、死の危険が最も高かった戦いでもあります。
敵地であった越前国からの撤退戦は困難を極めたのですが、後に天下人となった木下秀吉や、後に織田家筆頭となった明智光秀などの活躍により何とか作戦を成功させています。
本稿では、この困難な撤退戦となった金ヶ崎の退き口について、その発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【金ヶ崎の退き口】織田信長の人生最大の危機となった撤退戦” の続きを読む
督姫(とくひめ)は、徳川家康の二女として、徳川家康の側室であった西郡局との間に生まれた女性です。
北条家との同盟の証として若くして北条氏直の室となり、北条家滅亡・北条氏直死亡後には豊臣秀吉の仲介により池田輝政の継室となりました。
生涯で9人(北条氏直との間に2女、池田輝政との間に5男2女)もの子を産んだ上、その子らを偏愛して、徳川家康の子と言う立場を存分に利用して5人の子をいずれも藩主に据えることに成功した政治手腕も注目されます。 “【督姫】北条氏直・池田輝政の室となって5男4女を儲けた徳川家康の次女” の続きを読む
徳姫(とくひめ)は、織田信長の長女として生まれ、徳川家康の嫡男であった松平信康の正室となった女性です。
松平信康との間に2女を儲けたものの男子ができず、それもあって松平信康との関係が悪化して松平信康自刃事件に繋がったと言われています。
もっとも、松平信康の自刃に徳姫が関わったかどうかは不明であり、謎多き人物でもあります。 “【徳姫(五徳)】信康事件のきっかけとなったとされる松平信康の正室” の続きを読む
松平信康(まつだいらのぶやす)は、徳川家康の嫡男であり、本来であれば徳川家康の後を継いで江戸幕府第2代将軍となってしかるべき人物です。
父親譲りの軍才を発揮して数々の戦いで武功を挙げるなど能力も申し分ありませんでした。
ところが、天正7年(1579年)8月3日に居城であった岡崎城から追放された後、同年9月15日には徳川家康の命により21歳の若さで切腹して果てるに至っています。
徳川家の後を継ぐはずだった嫡男の切腹については、その理由が必ずしも明らかとなっていませんので現在まで喧々諤々様々な説が唱えられています。
本稿では、明らかとなっている事実を前提としつつ悲劇のプリンスである松平信康の人生について振り返っていきたいと思います。 “【松平信康】父の命令により切腹して果てた徳川家康の嫡男” の続きを読む
亀姫(かめひめ)は、徳川家康とその正室であった瀬名姫(築山殿)との間に生まれた徳川家康の長女です。
武田家との戦いの最前線に位置していた奥三河の奥平家を調略するため、奥平信昌の室となりました。 “【亀姫】奥平信昌の妻となった徳川家康の長女” の続きを読む
お愛の方は(おあいのかた)は、徳川家康の側室となって江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだ女性です。
実父や夫を相次いで戦で失うなどのつらい前半生を送った後、徳川家康に見初められて側室となり、武田家との戦いに明け暮れていた時期の徳川家康を公私ともに支えました。
徳川家康の側室となる前は「お愛の方」と呼ばれ、側室となった後は「西郷局」と呼ばれていますので、西郷局という名称の方が有名かもしれません。 “【お愛の方(西郷局)】徳川秀忠の生母である徳川家康の側室” の続きを読む