【和田合戦】北条義時の挑発で挙兵し敗れた和田義盛の反乱

和田合戦(わだがっせん)は、建暦3年(1213年)5月2日に和田義盛が北条義時打倒を掲げて起こした反乱です。

直接の引き金は直前に起こった泉親衡の乱だったのですが、それまでの北条家の横暴に耐え兼ねた和田義盛が爆発したというのが本当のところです。

合戦では、当初は和田軍が有利に進んでいたのですが、北条義時・大江広元の策略や、主家にあたる三浦義村の裏切り行為などによって敗れ、最終的には和田義盛の討死と、和田一族の事実上の滅亡という結果に終わっています。

また、この合戦の勝利により、北条義時の執権体制がより強固なものとなり、独裁への道を進んでいくこととなります。 “【和田合戦】北条義時の挑発で挙兵し敗れた和田義盛の反乱” の続きを読む

【四国という名称の由来】4県だから4国?

四国は、北海道・本州・九州に次ぐ日本列島の主要4島の一つです。

四国島には徳島県・香川県・愛媛県・高知県の4つの県があるのですが、4県が存在するために4国と呼ばれているわけではありません。

本稿では、なぜ四国と呼ばれるようになったのかについて、その歴史的経過を簡単に説明したいと思います。 “【四国という名称の由来】4県だから4国?” の続きを読む

【九州という名称の由来】7県なのになぜ9州?

九州は、北海道・本州・四国とともに日本列島の主要4島の一つです。説明するまでもないですね。

この九州島には、福岡県・佐賀県・長崎県・大分県・熊本県・宮崎県・鹿児島県の7県しかありません。沖縄県を入れて九州地方としてカウントしても8県であり、まだ9には足りません。

では、7県ないし8県であるにも関わらず何故九州と言うのかについて、その歴史的経過を簡単に説明したいと思います。 “【九州という名称の由来】7県なのになぜ9州?” の続きを読む

【寿桂尼】尼御台として今川家を支えた今川義元の母

寿桂尼(じゅけいに)は、今川家の黄金時代を支えた大看板の1人です。

元々は、今川義元の父である今川氏親の正室として京から駿河国に下向してきたお姫様だったのですが、その類稀なる政才により9代氏親、10代氏輝、11代義元、12代氏真の4代にわたって今川家の政務を補佐し、今川家の繁栄に寄与しています。

本稿では、今川家の最盛期を生き、今川家が滅ぶ直前に生涯を終えた寿桂尼の波瀾万丈の人生を見ていきたいと思います。 “【寿桂尼】尼御台として今川家を支えた今川義元の母” の続きを読む

【北条政範】北条家と執権職を継ぐはずだった北条時政の四男

北条政範(ほうじょうまさのり)は、鎌倉幕府の初代執権である北条時政の四男として生まれた若き御家人です。

母は、北条時政の継室である牧の方であり、北条政範が生れたときには、既に長兄北条宗時は戦死・次兄北条義時は分家しており、また北条時房は母の身分が低かったため、北条政範は生まれてすぐに北条時政の嫡男として扱われます。

大事に育てられ、どんどん出世もしていき将来を嘱望された北条政範でしたが、上洛中にわずか16歳の若さでこの世を去っています。

北条政範の死後、北条家は2つに割れて北条時政と北条義時が争い、北条義時が台頭していくことになりますので、北条政範が長生きをしていればこの歴史が代わっていたかもしれません。

本稿では、北条家を継ぐはずであった北条政範の生涯について、簡単に解説したいと思います。 “【北条政範】北条家と執権職を継ぐはずだった北条時政の四男” の続きを読む

【三浦義村】北条義時と共に数々の御家人粛清に関与した御家人

三浦 義村(みうら よしむら)は、源頼朝の旗揚げ時からこれに付き従い、最終的には鎌倉幕府内において得宗家に次ぐ鎌倉幕府の実質ナンバー2にまで上り詰めた御家人です。

首謀者とされるものはないものの、北条義時の右腕として鎌倉幕府内での粛清劇のほぼ全てに関与し、しかもその全てで勝者(源頼朝→北条時政→北条義時→北条政子)の側で行動をしていることから、黒幕といえる人物であるといえるかもしれません。

京の公家であった藤原定家の日記である明月記にも、「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟(計略に長けた何を考えているのからからない人物である。)」と記載された程の暗躍ぶりでした。 “【三浦義村】北条義時と共に数々の御家人粛清に関与した御家人” の続きを読む

【源仲章】北条義時と間違えて殺害された宇多源氏

源仲章(みなもとのなかあきら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期に、廷臣兼御家人として活躍した武家貴族です。

突出した才能があったわけではないですが、源実朝の教育係を務め、その豊富な知識から重用された人物です。

阿野全成の子である阿野頼全の誅殺に関与するなどいくつかの歴史的事件に関与しているのですが、なによりも源実朝暗殺の際に北条義時と間違われて殺された人物とし有名です。 “【源仲章】北条義時と間違えて殺害された宇多源氏” の続きを読む

【第74代・鳥羽天皇】白河法皇の後に28年間院政を敷いた希代の政治家

鳥羽天皇(とばてんのう)は、子である崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の治世28年に亘って院政を敷いた人物です。

若い頃は、白河法皇の権力維持の駒として使われ苦労するも、その崩御後にその立場にとって代わるという見事な政治劇により権力を手にした希代の政治家でもありました。

本稿では、政治闘争を勝ち抜き、一大権力を手にした鳥羽天皇(上皇・法皇)の生涯について見ていきたいと思います。 “【第74代・鳥羽天皇】白河法皇の後に28年間院政を敷いた希代の政治家” の続きを読む

【歴代天皇一覧】

天皇(てんのう)は、 倭と呼ばれた古代以来の日本において、男系の血統を受け継ぐ君主の称号です。

元々は「大王」と呼ばれていたのですが、7世紀頃に中国王朝への朝貢・冊封体制から脱却するために王の称号を廃して称されることとなり現在に至ります。

奈良時代までは天皇となることを即位(=践祚)と言っていたのですが、桓武天皇が即位に際し受禅の後に日を隔てて即位の儀を行ったことからこれが先例となり、先帝から行為を引き継ぐことを践祚(譲位による践祚を受禅践祚・先帝崩御による践祚を諒闇践祚と言います。)、皇位を引き継いだことを諸神や皇祖に告げた上で天下万民に宣する儀式を即位と言うようになりました。

そのため、天皇の在位期間は践祚に始まることとなります。

他方、現在の皇室典範は、践祚と即位を同一のものとしており、即位の礼は即位(従前の践祚に相当)直後ではなく1年以上後に行うこととされています。

また、現在の皇室典範では譲位及び受禅践祚が制度化されておらず、践祚は今上天皇崩御時の諒闇践祚に限られています(第125代天皇による譲位の際には、受禅践祚をするために特例法が制定されています。)。

世界では、これまでに多くの文明が誕生しては滅んでいき、アメリカの国際政治学者であったサミュエル・ハンチントンによると、世界で生き残った文明は欧米文明・イスラム文明・中国文明・インド文明・日本文明の5つだけであると述べられています。

このように古くから歴史に名を残す日本文明の中心にあったのが歴代の天皇であり、以下、初代天皇とされる神武天皇から順に簡単に紹介していきたいと思います。

“【歴代天皇一覧】” の続きを読む

【第76代・近衛天皇】鳥羽上皇と崇徳天皇の政争の道具にされた天皇

近衛天皇(近衞天皇・このえてんのう)は、院政を敷いて絶大な権力を手にしていた鳥羽上皇の第9皇子として生まれました。

鳥羽上皇の傀儡として物心つく前に天皇に即位させられ、即位後も実父である鳥羽上皇と、養父兼系図上の兄である崇徳上皇の権力闘争の駒として使われた悲しき天皇です。

幼い頃から政争の真っ只中でストレスに晒され続けまた元々体も弱かったこともあって宝算17歳の若さで崩御されました。

本稿では、そんな悲しい人生を歩んだ近衛天皇の生涯について振り返ってみたいと思います。 “【第76代・近衛天皇】鳥羽上皇と崇徳天皇の政争の道具にされた天皇” の続きを読む