【第76代・近衛天皇】鳥羽上皇と崇徳天皇の政争の駒となった悲しき天皇

近衛天皇(近衞天皇・このえてんのう)は、院政を敷いて絶大な権力を手にしていた鳥羽上皇の第9皇子として生まれました。

鳥羽上皇の傀儡として物心つく前に天皇に即位させられ、即位後も実父である鳥羽上皇と、養父兼系図上の兄である崇徳上皇の権力闘争の駒として使われた悲しき天皇です。

幼い頃から政争の真っ只中でストレスに晒され続けまた元々体も弱かったこともあって宝算17歳の若さで崩御されました。

本稿では、そんな悲しい人生を歩んだ近衛天皇の生涯について振り返ってみたいと思います。 “【第76代・近衛天皇】鳥羽上皇と崇徳天皇の政争の駒となった悲しき天皇” の続きを読む

【第75代・崇徳天皇】保元の乱に敗れて流され怨霊となった悲劇の帝

崇徳天皇(すとくてんのう)は、鳥羽上皇の中宮であった藤原璋子(待賢門院)が、白河上皇との不貞行為の結果として産まれた複雑な血縁関係を持つ天皇です。

系図的には自分の子でありながら妻の不倫相手(白河上皇)の子であるということから、崇徳天皇は、系図上の父である鳥羽天皇から徹底的に嫌われて育ちます。

この環境は崇徳天皇が成長した後も変化はありませんでした。

この争いは、譲位して崇徳上皇となってからも続き、崇徳上皇と鳥羽上皇(及び後を継いだ後白河天皇)との争いは、朝廷を二分する大戦となった保元の乱を誘発しました。

保元の乱に敗れた崇徳上皇は、失意のうちに讃岐国に流され、同地において苦難を受け続けて死んだ恨みから怨霊となったとも言われています。

本稿では、苦難の歴史を歩んだ崇徳天皇の人生について見ていきたいと思います。 “【第75代・崇徳天皇】保元の乱に敗れて流され怨霊となった悲劇の帝” の続きを読む

【六波羅探題の設置】朝廷が力を失うきっかけとなった鎌倉幕府の軍事基地設立

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、承久の乱の後、朝廷を監視するために置かれた鎌倉幕府の出先機関です。

朝廷を監視するための機関と言っても、実際には朝廷を威圧して意のままに動かすために設置された機関ですので実際の機能は鎌倉幕府の軍事基地です。

この六波羅探題の設置により、それまでの朝廷と鎌倉幕府という二元政治体制が終わりを迎えて真の武家政権が成立していますので、本稿ではそこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【六波羅探題の設置】朝廷が力を失うきっかけとなった鎌倉幕府の軍事基地設立” の続きを読む

【鳥辺野】京都にあった地獄と言われる平安京三大葬送地筆頭

平安時代には、土葬や火葬はほとんど行われておらず、死者は、その遺体を放置されて朽ちるに任せるという風葬という方法によって弔われていました。

この風葬のために遺体が運ばれた場所が葬送地であり、平安京最大の葬送地であったのが鳥辺野(とりべの)でした。

遺体が運ばれる場所であったために鳥辺野一帯は「死者の地=あの世」と考えられ、その境にある六波羅の地との境は、この世とあの世の境と考えられ、その境目となった六道の辻の地にこの世とあの世の出入口が存在しています(本稿は歴史ブログですので、都市伝説の紹介ではなく、歴史的逸話の紹介です。)。

本稿では,鳥辺野と六道の辻の歴史的沿革を説明しますので、観光の参考にしていただければ幸いです。 “【鳥辺野】京都にあった地獄と言われる平安京三大葬送地筆頭” の続きを読む

【泉親衡の乱】北条義時打倒を目指した和田合戦の前哨戦

泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)は、鎌倉時代初期に鎌倉の実権を握った北条義時の打倒を目指して信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児千寿丸(三男・栄実)を鎌倉殿に擁立しようとして起こした反乱です。

もっとも、反乱自体は軍事的蜂起に至る前の建暦3年(1213年)2月15日に発覚し、首謀者が逃亡・捕縛されたため実行に至ることはありませんでした。

この泉親衡の乱が特筆すべきなのは、当時の鎌倉幕府の有力御家人であった和田義盛の一族が泉親衡に加担しており、その処分を巡って和田合戦の引き金となったことにあります。

本稿では、この和田合戦の前哨戦ともいえる泉親衡の乱について、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【泉親衡の乱】北条義時打倒を目指した和田合戦の前哨戦” の続きを読む

【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転

現在の日本の首都・東京の礎を築いたのは徳川家康です。

元々、三河国に生まれ人質時代を経て独立し織田信長に与して5カ国(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国)を治める大大名にまで上り詰めた徳川家康でしたが、豊臣秀吉の命令によりこれらが没収され、代わりに関八州を与えられて江戸に入ります。

その後、江戸周辺において数多の巨大工事を繰り返し、現在の大東京の基礎を築き上げていったのでした。

本稿では、そんな今日の大東京が出来上がるきっかけとなった徳川家康の関東移封について見ていきたいと思います。 “【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転” の続きを読む

【結城朝光(小山朝光)】梶原景時の変の契機となった源頼朝寵愛御家人

結城朝光(ゆうきともみつ)は、源頼朝が平家打倒の挙兵をした際に母が源頼朝の乳母であったという縁から父と共に挙兵に参加し、そのときに源頼朝を烏帽子親として一字を貰って元服した御家人です。

その後、源頼朝の寝所祗候衆の1人に選ばれたり、三男ながら分家して下総国結城郡の地頭職に任命されて結城家を興こしたりするなど、源頼朝の余りの寵愛を受けたことから、源頼朝の落胤説まである人物です。

弓の達人でもあり和歌にも造詣が深いなど文武両道の人物であったにもかかわらず、自ら率先して政治の表舞台に出る事は無かったことから鎌倉幕府内での粛清劇にさらされることなく北条家から厚遇され、穏やかにその生涯を終えています。 “【結城朝光(小山朝光)】梶原景時の変の契機となった源頼朝寵愛御家人” の続きを読む

【大阪の蔵屋敷一覧】天下の台所大坂堂島米市場の周囲にあった蔵屋敷跡を巡る(観光用)

天下の台所と称された江戸時代の大坂は、領内で年貢として徴収した米や特産品を集めて売りさばいて現金化するため、各藩の蔵屋敷が米市場のある堂島に近い大坂・中之島周辺に集中しました。そして、これらの蔵屋敷においては、市中に張り巡らされた水路と浪華八百八橋と言われた多くの橋をも利用した陸路を自在に利用して物資の出し入れが行われました。

これらの保管場所として設置された建物は、各藩の大坂屋敷としても機能していたのですが、年貢米を収納する米蔵が大きな場所を占めていたため、米「蔵」がある藩の「屋敷」として、蔵屋敷と呼ばれるようになり、経済の中心地である大坂を特徴づける建物群となっていました。

これらの蔵屋敷は、最盛期である19世紀初頭頃には、100を優に超える数があったとされているのですが、その後の近代化の流れによりその多くが埋没してしまっています(現在でも比較的詳細にわかっている蔵屋敷の構造は、公共施設の設置に際して調査が行われた場所に限定されています。)。 “【大阪の蔵屋敷一覧】天下の台所大坂堂島米市場の周囲にあった蔵屋敷跡を巡る(観光用)” の続きを読む

【承久の乱】後鳥羽上皇が北条義時に敗れ公武のパワーバランスが逆転した合戦

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権であった北条義時討伐の兵を挙げたところ、北条義時個人ではなく鎌倉幕府を挙げての反抗が起こって後鳥羽上皇が敗れた戦いです。

朝廷が朝敵に敗れた初めての戦いであり、それによって朝廷が事実上武士の軍門に下り名目的存在に成り下がった戦いでもあります。

本稿では、朝廷・公家階級が無力化し、以降武士が国家の実効支配権(行政権、立法権、司法権)を奪取するに至った一大クーデターである承久の乱について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【承久の乱】後鳥羽上皇が北条義時に敗れ公武のパワーバランスが逆転した合戦” の続きを読む

【北条時房】北条義時の頼れる弟であり北条泰時の目の上のたんこぶであった鎌倉幕府初代連署

北条時房(ほうじょうときふさ)は、北条時政の三男として生まれ、鎌倉時代の初期に活躍した御家人です。

兄である北条義時と姉である北条政子を支えてその生前には初代六波羅探題となり、北条義時の死後には、その子である北条泰時と共に執権(その後は、鎌倉幕府初代連署)に就任して鎌倉幕府政治の中枢を担っています。

もっとも、実質上の鎌倉幕府のトップとなった若き甥・北条泰時と、ナンバー2となった長老の叔父・北条時房との関係は、ときには協力しつつもときには対立するという微妙な関係となったため、一部軋轢を生む原因ともなっていました。

本稿では、北条義時の頼れる弟であり、北条泰時の目の上のたんこぶでもあった北条時房の人生について見ていきたいと思います。 “【北条時房】北条義時の頼れる弟であり北条泰時の目の上のたんこぶであった鎌倉幕府初代連署” の続きを読む