夏目広次(なつめひろつぐ)は、古くから安祥松平家(後の徳川家)に仕える譜代衆です。
「寛政重修諸家譜」の記載から一般的には「夏目吉信」の名で知られているのですが、一時資料ではその名乗りは確認されていないため本稿では文書上記された「夏目広次」の名で統一して紹介します。
夏目広次は、三河一向一揆の際に徳川家康から離反して一揆方に与するも、後に許されて徳川家臣団に復帰します。
そのため、夏目広次は、以降はこの恩に報いるために徳川家康への忠義を貫き、三方ヶ原の戦いの際には徳川家康の身代わりとなって壮絶な討ち死にを果たしています。
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夏目広次の出自
出生(1518年)
永正15年(1518年)、清和源氏満快流夏目家の夏目吉久の子として、三河国幡豆郡豊坂村で生まれます。
母は水野家の娘と言われており、通称は次郎左衛門といいました。
寛政年間(1789年~1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である「寛政重修諸家譜」における夏目家の系図の記載から夏目吉信と称されることが多いのですが、名乗りを「吉信」とする一次資料は確認できていない一方で、永禄12年(1569年)12月23日に徳川家康が発給した文書に「夏目広次」名が記され花押も付されていることから、当時の名乗りは「夏目吉信」ではなく「夏目広次」であったと考えられています。
安祥松平家に仕える
夏目家は信濃国伊那郡夏目村の地頭職として起こり、その後に三河国に転じて古くから安祥松平家(後の徳川家)に仕える譜代衆でした。
そのため、夏目広次もまた、松平広忠、次いでその嫡男である徳川家康(当初は竹千代、その後は松平元信・松平元康・松平家康・徳川家康と改名・改姓を重ねていますが、本稿では便宜上徳川家康の名で統一します。)に仕えます。
なお、室として松下石見守之綱の娘をもらい受けています。
徳川家康の三河統一戦で活躍
永禄3年(1560年)5月23日、桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れて徳川家康が岡崎城入城を果たすと、夏目広次もこれに従います。
そして、岡崎城に入った徳川家康は、今川氏真を見かぎって三河国の平定戦を始めると、夏目広次もまたこれに従い、永禄4年(1561年)、東三河と西三河の境にあった三河長沢城攻めで軍功を上げるなどしています(三河長沢城は、翌永禄5年に松平康忠に与えられ、松平康忠は後に徳川家康に従って関東に移りますが同地に残った分家が長沢松平家を名乗っています。)。
また、永禄5年(1562年)に徳川家康が今川家臣であった板倉重定が守る八幡村城を攻めた際(三州八幡合戦)、迎撃を受けて総崩れとなった徳川軍の退却時間を稼ぐために夏目広次が殿を務め、国府までの間6度踏み止まって奮戦しついには退却を成功させたと言われ、この功により夏目広次は徳川家康から備前長光作の脇差を賜っています。
一向一揆の際に徳川家康から離反
三河一向一揆の際に離反(1563年)
西三河・奥三河に勢力を拡大させていった徳川家康は、経済力の強化を果たすために父・松平広忠が認めた浄土真宗本願寺派寺院に対する守護不入特権を否認し、これらに対して貢祖、軍役の賦課等を課すこととしました。
これに対し、それまでの特権を否認された浄土真宗本願寺派寺院は徳川家康に対する抵抗し、この動きに徳川家康に抗う勢力が便乗します。
その結果、永禄6年(1563年)、西三河で領主(徳川家康)と仏(浄土真宗本願寺派寺院)とが争う形となったため(三河一向一揆)、領民はもちろんのこと徳川家康家臣団もまた領主側(主君への忠誠)と仏側(信仰)のどちらを選ぶかという選択に迫られ、松平家臣団がそれぞれの思想・思惑に従って、徳川家康に付き従う者、浄土真宗寺院側に付く者に分かれてしまいます(家ごとにというわけではなく、それぞれの家でも人によって分かれてしまうような状況となったのです。)。
このとき、夏目広次は、徳川家康から離反して一揆側に加担し、大津半右衛門・乙部八兵衛・久留正勝ら門徒と共に野場西城(現在の愛知県額田郡幸田町)に籠ります。
造反者を放置しておけない徳川家康は、松平主殿助伊忠に野場城を攻撃させたのですが、夏目広次らは固くこれを守り野場西城はなかなか落ちませんでした。
困った松平伊忠は、野場城内の乙部八兵衛を調略して城門を開かせて松平伊忠軍を城内に引き入れさせたことによってようやく野場西城が陥落します。
徳川家康の下に帰参
野場西城陥落の際に捕らわれた夏目広次は、許されて松平伊忠の与力として付されます。
そして、その後、夏目広次は、松平伊忠の嘆願によって徳川家康にも許されて正式に徳川家臣団への帰参を許され、永禄6年(1563年)7月3日には、三河国・遠江国の郡代に任じられています。
夏目広次の最期
三方ヶ原の戦い(1572年12月22日)
元亀3年(1572年)12月22日に起こった三方ヶ原の戦いの際には、夏目広次は、浜松城の留守居役を命じられていたのですが、合戦状況が気になる夏目広次は、櫓に登って三方ヶ原の戦いを遠望していました。
そうしたところ、夏目広次は、徳川軍が武田軍に押され、敗戦の危機にあることを見て取ります。
そこで、夏目広次は、徳川家康救援のために馬に乗って直ちに三方ヶ原に駆け付け、浜松城に戻って体制を立て直すよう進言します。
ところが、頭に血が上っていた徳川家康は、この進言を聞き入れず、そればかりか武田軍に突撃をして討ち死にすると言い出しました。
興奮している徳川家康を説得することは困難であると判断した夏目広次は、徳川家康を逃すために強引に徳川家康の乗馬の向きを浜松城方向に向けた上で刀のむねでその尻を打ち、浜松城に向かって走らせます。
夏目広次討死
その上で、夏目広次は、徳川家康の退却時間を稼ぐためにその身代わりとなり、十文字槍を持って25~26騎を率いて武田軍に突撃していきます。
そして、武田兵2人を突き殺す奮戦を見せたのですが、多勢に無勢ということもあり、そのまま武田軍に取り囲まれて討死にします(寛政重修諸家譜)。享年は55歳でした。
なお、この後、徳川家康が逃げるさらなる時間稼ぎのために本多忠真(本多忠勝の叔父)が殿を買って出て道の左右に旗指物を指して待ち構え、向かってくる武田軍と戦って討死にしています。
墓所
徳川家康は、自らの身代わりとなって殉死した夏目広次を惜しみ、信誉徹忠の号を与えて、法蔵寺(現在の愛知県岡崎市本宿町)に石碑建立して同寺に月拝供養を命じ、明善寺(現在の愛知県額田郡幸田町)に一族葬(私葬)とされました。
その後、江戸幕末頃に明善寺の夏目家墓所の整備が行われ、父である夏目吉久(六栗城・夏目屋敷の築城者)及び四男である夏目吉為(夏目吉忠)の夏目家3代の墓石が設けられて現在に至っています。
なお、犀ヶ崖資料館(現在の静岡県浜松市中区)の傍に夏目広次の忠節を讃えた「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」が設けられています。