毛利新介の名を知っていますか。
この名側がわかる人は相当の歴史通です。
毛利新介は、織田信長の馬廻として仕え、桶狭間の戦いで今川義元の首級をあげた武将です。
本稿では、そんな毛利新介の一生について見てみましょう。
【目次(タップ可)】
毛利新介の出自
毛利新介は、その姓から織田家に仕えた毛利一族の縁者であると考えられていますが、その出自は不明です。
また、出身も尾張国(愛知県)だと言われていますが明らかではありません。
織田信長の小姓であったとの説もありますが、これも定かではありません。
毛利新介は、元服後に織田信長に見出されて、精鋭部隊である馬廻に選ばれていますので相当の手練れだったのではないかと考えられます。
桶狭間の戦い(1560年5月19日)
毛利新介の名が出てくるのは、永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いです。
桶狭間の戦いが織田信長の奇襲だったのか、正攻法による正面衝突だったのかについては意見の分かれるところです。
ただ、織田信長率いる織田軍の目的が今川義元の首であったこと、結果として織田軍と今川軍との乱戦となったことについては、おそらく疑問の余地はないと思います。
そして、乱戦の最中、織田信長の馬廻衆が、退却する今川義元発見し、そこに次々と襲い掛かります。
最初に今川義元に取り付いたのは、織田信長の馬廻衆の1人である服部小平太でした。
服部小平太は、今川義元を発見し、槍で突きかけます。
ところが、相手は海道一の弓取りと言われた大大名の今川義元であり一筋縄ではいきません。
信長公記によると、服部小平太の槍は今川義元を討ち取るに至らず、逆に今川義元から膝を切られて倒れ伏してしまいました。
そこへ駆け付けたのが毛利新介です。
仲間のピンチに駆け付けた毛利新介は、敵将今川義元と交戦の末に、これを組み伏せ、ついにその首を斬り落としました。なお、このとき今川義元は最後の意地を見せて、毛利新介の指を噛みちぎっています。
毛利新介は、討ち取った今川義元の首級を掲げると、主を失った今川軍は、総崩れとなり、桶狭間の戦いは織田信長の勝利に終わりました。なお、このとき掲げられた今川義元の首は、新介の指をくわえたままだったと言われています。
また、このとき今川義元が差していた左文字の刀は、戦利品として織田信長に接収されて短刀に作り変えた上で銘を打ち義元左文字と名付けて以降は自分の愛刀としています。
そして、義元左文字は、織田信長が本能寺の変で横死するまで信長の手元にあり、本能寺の変の際にも失われることなく、その後紆余曲折を経て現在まで残っています。
本稿作成時点では、建勲神社所有で、京都国立博物館に寄託されています。
桶狭間の戦いの後
桶狭間の戦いで武功を挙げた毛利新介は、一躍有名となり、エリート部隊である「黒母衣衆」に抜擢されています。なお、織田信長は、自身の配下のうち特に目をかけた者を、黒母衣衆や赤母衣衆として重用しており、毛利新介が桶狭間で挙げた武功がいかに突出したものであったかを物語っています。
以後、毛利新介は、諱を良勝に、通称を新介から新左衛門に改めています。
もっとも、毛利新介は、桶狭間の戦以外での戦場での目立った活躍の記録はありません。
わずかに、信長公記に、永禄12年(1569年)の伊勢国・大河内城攻めに番衆として柵内巡回をしていたとの記載があるのみで、戦場に出たのかすら定かではありません。
おそらく、指を噛みちぎられた毛利新介は、それまでのように武具を扱うことが出来なくなったため、桶狭間の戦いの後で一戦から退いたためと考えられます。
もっとも、毛利新介は、槍働き以上に官僚・文官としての能力を発揮します。
そして、毛利新介は、織田信長の側近として尺限廻番衆に属し、判物や書状に署名を残しています。
また、毛利新介は、天正10年(1582年)の甲州征伐の際にも、織田信長に随行し、諏訪在陣で興福寺大乗院より贈品を受けているようです。
毛利新介の最後(1582年6月2日)
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が謀反を起こし、織田信長が入る本能寺を強襲しました(本能寺の変)。
毛利新介は、このときも織田信長に従っており京都にいたのですが、既に敵に囲まれ火が放たれた本能寺には駆け付けることが出来ませんでした。
そこで、毛利新介は、織田信長の嫡男である織田信忠のいる二条御所に駆け付けて明智軍を迎え撃ちました。
そして、二条御所に取りついた明智軍に対して、仲間と共に打って出て壮絶な討ち死にを遂げています。