木曾義高(きそよしたか)は、平家を都から追放し、一時は武家勢力の頂点に立つまでに至った木曾義仲の嫡男です。
もっとも、木曾義高の人生は悲惨であり、木曾義仲に源頼朝の機嫌取りのために鎌倉に人質に出され、木曾義仲がクーデターに失敗したことに連座して12歳の若さで暗殺害されるという悲しい最後を迎えています。
本稿では、そんな若きプリンス・木曾義高の人生について振り返ってみたいと思います。
【目次(タップ可)】
木曾義高の出自(1173年)
木曾義高は、承安3年(1173年)ころ、清和源氏為義流(河内源氏)・木曾義仲の嫡男として誕生します。
母は、義仲四天王であった今井兼平の妹(中原兼遠の娘)と考えられていますが、その娘とする資料もあります(尊卑分脈)。
幼名は不明であり、諱も吾妻鏡では「義高」、延慶本・平家物語や尊卑分脈では「義基」、長門本・平家物語では「義隆(または義守)」、覚一本・平家物語では「義重」、曽我物語では「義衡」、源平盛衰記では「清水冠者」とされており、正確にはわかっていません。
本稿では、最も知られた名である「義高」として話を進めます。
なお、木曾義高の生涯については、説話的な題材や虚構も多いため、話半分に考えていただいた方がいいかもしれません。
人質として鎌倉に送られる
木曾義仲の北陸進出
治承4年(1180年)9月に反平家を掲げて挙兵した木曾義仲は、治承5年(1181年)3月10日に発生した墨俣川の戦いに敗れて行き場のなくなった叔父・源行家を取り込むなどして勢力を高めていきます。
また、養和2年・寿永元年(1182年)には、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護して以仁王挙兵を継承することとなります。
この結果、木曽義仲は、京の平氏、鎌倉の源頼朝と並ぶ3つ目の巨大勢力に成長し、北陸方面に進出していきます(進出が北陸方面だった理由は、鎌倉に根を張る源頼朝や、甲斐国・南信濃・駿河国・遠江国に勢力を伸ばした甲斐源氏・武田信義との衝突を避けるためです。)。
木曾義仲と源頼朝との関係悪化
寿永2年(1183年)2月、木曾義仲の叔父である志田義広(源為義の三男)が鹿島社所領の押領行為を頼朝に諫められたことに反発して源頼朝討滅の兵を挙げたところを逆に源頼朝軍に討伐されるという事件が起こったのですが(野木宮合戦)、敗れて本拠地を失った志田義広を、木曾義仲が保護したことから、木曾義仲と源頼朝との関係が急激に悪化します。
そして、同年3月には、両者の関係は、武力衝突寸前にまで冷え込みます。
この時期は、平家方が、木曾義仲に奪われた北陸地方の失地を回復するため、10万人とも言われる大軍を編成していたタイミングであったため、木曾義仲としては、平家に加えて源頼朝まで敵対するわけにはいきませんでした。
人質として鎌倉に入る
そこで、木曾義仲は、11歳となっていた嫡子・木曾義高を人質として鎌倉へ差し出すこと(形式的には、木曾義高を源頼朝の娘である大姫の婿として受け入れる形)で源頼朝に対して敵意のないことを示し、これによって両者に和議が成立します。
鎌倉で地盤固めとしている源頼朝にとっても、この時点で木曾義仲を相手にする余裕はありませんでした。
そのため、木曾義高は、この和議の証として、信濃豪族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを従えて鎌倉に入ります。
木曾義高の最期
木曾義仲敗死(1184年1月)
源頼朝との関係を改善して平家との戦いに専念した木曾義仲は、ついに平家を都から追放し、上洛を果たします。
もっとも、田舎武者であった木曾義仲は、京の治安維持に失敗したり、皇位継承問題に口を出したりするなどして朝廷の信頼を失います。
困った木曾義仲は、ついに京で武力によるクーデターを起こしますが、このクーデターは、源頼朝に木曾義仲討伐の口実を与え、源頼朝によって派遣された源範頼・源義経を大将とする木曾義仲討伐軍に敗れて、寿永3年(1184年)1月、死亡します。
木曾義高逃亡(1184年4月21日)
父・木曾義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた木曾義高は命の危機に陥ります。
敵の子を生かしておいたらどのような結末になるかを自らの経験によって一番理解しているのが源頼朝です。
源頼朝が木曾義高の命を見逃すはずがありません(もっとも、木曾義高を慕う大姫に配慮して結構時期については迷っていました。)。
そして、源頼朝が木曾義高の命を見逃すはずがないことは、北条政子や大姫も分かっています。
ただ、木曾義高を助けたい大姫は、北条政子に助けを求め、寿永3年(1184年)4月21日、同年の側近であった海野幸氏を身代わりとして双六をしているかのよう偽装させ、その隙に女房姿に変装させた木曾義高を大姫の侍女達と共に馬に乗せて脱走させます。
この木曾義高の脱走劇は、同日夜、源頼朝の耳に入ります。
こうなると、源頼朝としても捨て置けません。
源頼朝は、木曾義高逃亡に加担した海野幸氏を捕らえた上、堀親家らに木曾義高を追跡して討ち取るよう命じます。
木曾義高の最期(1184年4月26日)
そして、木曾義高は、寿永3年(1184年) 4月26日、武蔵国の入間河原の八丁の渡し付近で堀親家の郎党であった藤内光澄に捕らえられて斬首されます。享年12歳でした。
木曾義高の首は鎌倉に送られ、木曽免と呼ばれていた田の中に葬られます。
そして、その後、延宝8年(1680年)に同地の所有者であった石井次左衛門が塚を掘ったところ、青磁の骨壺が出てきたため、伝承から木曾義高の墓と判断して常楽寺の裏山に葬られました。
そして、現在も、神奈川県鎌倉市内所在の臨済宗寺院である常楽寺の裏山に、このとき移されたとされる塚が残されており、木曽塚といって木曾義高の墓として知られています。
なお、木曾義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまったため、母の北条政子が怒り、木曾義高を討った郎従の不始末のせいと強く迫りったため、源頼朝は、寿永3年(1184年) 6月27日、やむなく木曾義仲暗殺の実行者となった藤内光澄を晒し首にしています。