高倉天皇(たかくらてんのう)は、後白河天皇の第七皇子として生まれ、即位後に平清盛の娘である平徳子を中宮に迎えた天皇です。
壇ノ浦で入水した安徳天皇、承久の乱で北条義時と争った後鳥羽天皇らの父でもあります。
本稿では、後白河院と平清盛の権力争いの道具として、生涯父と舅の間で苦しめられ続けた若き天皇、高倉天皇の生涯について振り返って行きたいと思います。
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高倉天皇即位に至る経緯
出生(1161年9月3日)
高倉天皇は、応保元年(1161年)9月3日、後白河天皇の第七皇子として、八条河原口(九条河原口?)にあった平盛国宅において、母・平滋子(建春門院、平清盛の妻である平時子の異母妹)との間に生まれます。
諱は、憲仁(のりひと)といいました。
即位(1168年2月19日)
平治の乱後、朝廷内では後白河上皇院政派と二条天皇親政派の対立が続いていたのですが、永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、その子である六条天皇が即位し、仁安元年(1166年)10月10日に憲仁親王(六条天皇の叔父、後の高倉天皇)が皇太子となります。
この後、後白河上皇は、仁安3年(1168年)2月19日、わずか5歳(満3歳)であった六条天皇を退位させ、憲仁親王を高倉天皇として即位させます。
数え8歳の幼児に政治などできようはずもありませんので、政務は父である後白河上皇の院政により行われました。
なお、高倉天皇の即位礼は仁安3年(1168年)3月20日、大嘗祭は同年11月22日に行われています。
平徳子を中宮とする(1172年2月10日)
高倉天皇は、嘉応元年(1169年)1月3日に元服し、承安2年(1172年)2月10日には平清盛の娘である平徳子(後の建礼門院)を中宮に迎えます。
以上のような蜜月関係が続いていた後白河法皇(1169年に出家して法皇となっています。)と平清盛でしたが、安元2年(1176年)7月8日に平滋子(建春門院)が死去したことにより、その関係に悪化の兆しを見せ始めます。
第一皇子を儲ける(1178年11月12日)
高倉天皇は、乳母との間に功子内親王、小督局との間に範子内親王を儲けたのですが、平徳子との間にはすぐには子はできませんでした。
その後、治承2年(1178年)11月12日、中宮・平徳子との間に、待望の第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)が誕生します。
ところが、このころは後白河法皇と平清盛との関係が悪化している時期であったため、平清盛が、院政を敷く後白河法皇から権力を奪いとるため、言仁親王の出生を利用して自らが外戚となるために動きだします。
安徳天皇に譲位して上皇となる
安徳天皇に譲位(1180年4月22日)
まず、治承3年(1179年)11月、高倉天皇の父である後白河院と舅である平清盛との政治的対立が深まり、平清盛は後白河法皇を事実上幽閉します(治承三年の政変)。
この結果、後白河院政が終わり、高倉天皇親政が始まるはずとなったのですが、平清盛からすると、自ら政務をとる天皇など邪魔でしかありません。
そこで、続いて、高倉天皇の排除にとりかかります。
平清盛は、同年12月15日、生後1ヶ月後である言仁親王を立太子させた上で、治承4年(1180年)2月21日、数え年3歳(満1歳2か月)で践祚させます。
その上で、平清盛は、高倉天皇に譲位を迫り、同年4月22日、数え年3歳(満1歳2か月)の言仁親王を安徳天皇として即位させます。
幼児に政治ができるはずがありませんので、完全に外戚である平清盛の傀儡です(形式的には、高倉院政ですが)。
平家と共に福原へ(1180年6月2日)
この安徳天皇即位は、高倉天皇だけでなく、時代までも大きく動かす結果となりました。
高倉天皇から安徳天皇へ譲位がなされたことにより、天皇となる道が断たれた後白河法皇の第三皇子・以仁王が、治承4年(1180年)4月9日、源行家に以仁王の令旨を預けて全国に散らばる源氏勢力に協力を求めた上で、同年5月、反平家の挙兵をしたからです。
以仁王の挙兵事態はすぐに鎮圧されたのですが、全国の源氏勢力に渡った以仁王の令旨により、全国各地で反平家の挙兵が相次ぐこととなりました。
平清盛は、以仁王に加担した園城寺や興福寺から距離を取るため、治承4年(1180)年6月2日、高倉上皇、安徳天皇(高倉上皇の第一皇子)、守貞親王(高倉上皇の第二皇子)、後白河法皇、摂政・藤原基通などの多くの公家を引き連れ、都を福原に移すという暴挙にでます(福原京遷都)。
高倉上皇の最期
平安京還幸(1180年11月)
福原京に移った高倉上皇でしたが、福原は離宮の扱いであるとして平安京を放棄せず、福原に内裏や八省院は必要ないとの意見を曲げなかったため、遷都を進める平清盛と意見が対立します。
結局、治承4年(1180年)11月11日、天皇による新造内裏に行幸、新嘗祭におこなわれる五節舞の挙行を最後として、同年11月23日から平安京還都が始まります。
なお、還幸に際し、高倉上皇は、病気を患っていたこともあり、「わずらわしいことの多かったこの新都に片時も残りとどまる者があろうか」と述べて、急いで福原を発ったと言われています(平家物語)。
高倉上皇崩御(1181年1月14日)
平安京に戻った高倉天皇でしたが、病の中で引越しを繰り返したこと、慣れない福原での生活に疲弊したことなどから病状が悪化します。
その結果、後白河法皇と平家の圧力に悩まされ続けた高倉上皇は、治承5年(1181年)1月14日に六波羅池殿にて崩御されました。宝算は19でした。