白河天皇(しらかわてんのう)/・白河上皇・白河法皇は、藤原摂関政治を終わらせ、院政を始めた人物として有名です。
とはいっても、実際にどういう経緯で院政を始めることとなったのかを詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。
本稿では、朝廷内でのドロドロの権力争いを勝ち抜き、「賀茂河の水、双六の賽、山法師」以外は思い通りになるという天下三不如意の逸話を残すほどの絶対的権力を獲得するに至った経緯について、順に説明したいと思います。
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白河天皇即位に至る経緯
出生(1053年6月19日)
白河天皇は、天喜元年(1053年)6月19日、後冷泉天皇の東宮であった尊仁親王(後の後三条天皇)の第一皇子として、母・藤原茂子(藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女)との間に生まれます。
諱は貞仁(さだひと)といいました。なお、標記がややこしくなるため、本稿では、譲位までは「白河天皇」、譲位後は「白河上皇」の表記で統一して記載します。
白河天皇が生まれた後に妻である藤原茂子(康平5年・1062年6月22日死去)及び義父である藤原能信(康平8年・1065年2月9日死去)が若くして死亡しためその後ろ盾を失った父・尊仁親王は、ときの関白・藤原頼通に冷遇されていました。
そのため、当然、白河天皇もまた藤原頼通に冷遇されて育ち、治暦元年12月9日(1066年1月7日)に、13歳で元服します。
立太子(1069年)
もっとも、治暦4年(1068年)4月19日に、第70代・後冷泉天皇在位のまま崩御すると、その関係は一変します。
後冷泉天皇には後継ぎがいなかったため、やむなく異母弟である尊仁親王(白河天皇の父)が第71代・後三条天皇として即位し、これに伴って白河天皇も親王宣下を受けて「貞仁親王」となったからです。
さらに、延久元年(1069年)、立太子(皇嗣たる皇太子に就任)が行われ、白河天皇は正式に皇太子となります。
なお、延久元年(1069年)に義理の従姉にあたる藤原道子が女御として、同3年(1071年)に後の関白藤原師実の養女・藤原賢子が中宮としてそれぞれ参入しています(なお、中宮となった藤原賢子との仲は非常に良かったようで、藤原賢子の生前には白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、女御・藤原道子や典侍・藤原経子など数人程度であったようです。)。
後三条天皇による天皇親政
この第71代・後三条天皇の即位は画期的な出来事でした。
なぜなら、後三条天皇は、第69代・後朱雀天皇と禎子内親王との間の子だったからです。
何が重要かというと、後三条天皇の母が、藤原摂関家の人間ではないということです。
これにより、宇多天皇以来170年ぶりに藤原北家の外祖父を持たない天皇が誕生し、外戚と関白の地位が分立することとなります。
また、皇太子時代に藤原頼通らから圧迫を受けていたこともあり、後三条天皇は関白の献言を重視することなく実質的な親政を行い、天皇の威信と律令の復興を意図する政策を次々と打ち出すこととなりました。
特に有名なのは、次の延久の荘園整理令です。
延久の荘園整理令(1069年)
後三条天皇は、延久の荘園整理令を発布し、従来の荘園整理令よりも強固に実行するためにそれまで地方諸国の国司達に依存していた職務を全て中央で行うように整備し、延久元年(1069年)、その審査を行う機関として記録荘園券契所が設置します。
そして、この審査の対象となる荘園を摂関家領や大寺社領にまで拡大します。
この延久の荘園整理令は、摂関家や大寺社の経済力削減をもたらすとともに、皇室経済を改善させるなどの成果を上げます。
他方、これにより大きな損害を被る立場ほ藤原摂関家内では、藤原頼通と藤原教通とが確執を起こしてその対応に追われていたため、天皇に対して具体的な対抗手段を取れるませんでした。
結果として、経済基盤であった荘園の削減がなされ、急速に藤原摂関家の力が失われていきます。
第72代天皇として即位
白河天皇即位(1072年12月8日)
強権的な天皇親政を進める後三条天皇でしたが、延久4年12月8日(1073年1月18日)、突然、白河天皇に皇位を譲位します。
譲位の理由は不明ですが、譲位の翌年に崩御していることから、健康上の理由だった可能性もあります。
いずれにせよ、この譲位により、白河天皇は、20歳の若さで第72代天皇として即位します。
なお、このとき白河天皇の異母弟・実仁親王が皇太弟として定められています。
白河天皇治世
皇位を引き継いだ白河天皇は、父の後三条天皇の政策を引き継ぎ、天皇親政を目指して引き続いて荘園整理などに尽力します。
白河天皇は、承保2年(1075年)9月25日に藤原教通が死去した後は、藤原師実を内覧(摂関)と藤氏長者に任じ、それまでの摂関家とは違う形での政治協力体制を整えます。
この点、藤原師実としても、藤原摂関家内での藤原信長(藤原頼道の子)との対立に勝利して藤原氏内での立場を強固とするために、摂関家の荘園が失われる可能性があることを知りつつも白河天皇を補佐してその政治を支えます。
法勝寺創建(1077年)
そして、藤原師実は、承保2年(1075年)、内覧及び藤氏長者任命のお礼なのかは不明ですが、白河天皇に白河の地を寄進します。
白河の地を得た白河天皇は、「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えを披瀝し、仏教を保護して統治する伝説上の金輪聖王(転輪聖王)にならって白河の地内(現在の京都市動物園及びその北側付近)に、後に六勝寺と呼ばれる6つの御願寺の最初の寺である法勝寺を建立することを決意します。
そして、承保2年(1075年)、法勝寺が第72代白河天皇の御願寺として造営が開始され、承暦元年(1077年)に藤原師実の実兄・覚円を入れ、毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養が行われました。
こよ法勝寺は壮麗な伽藍を持ち、「国王の氏寺」と称されました。
中宮・藤原賢子崩御(1084年9月22日)
前記のとおり、白河天皇の中宮は藤原賢子であり、その夫婦仲は極めて良好であったと言われています。
そのため、中宮、藤原賢子存命中は白河天皇は品行方正でした。
もっとも、応徳元年(1084年)9月22日に藤原賢子が崩御すると、白河上皇の態度が一変します。
藤原賢子の死後は正式な后や女御を入れることなく次々と側近に仕える多数の女官・女房らに手を出して関係を持ちます。
そして、この女癖の悪さが、後に保元の乱の原因となるのですが、長くなりますので、紹介だけにとどめます(興味がある方は、別稿:【保元の乱】摂関家が凋落し武士が台頭する契機となった朝廷内乱をご参照ください。)。
また、白河法皇は両性愛者だったと考えられており、奔放な女性関係と併せて男色も大いに好み、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれています。
堀河天皇へ譲位(1086年11月26日)
応徳2年(1085年)、皇太弟となっていた白河天皇の異母弟・実仁親王が薨去したため、白河天皇は、応徳3年11月26日(1087年1月3日)、実子であるわずか8歳の善仁親王を皇太子とします。
その上で、白河天皇は、同日、善仁親王に譲位して第73代堀河天皇として即位させました。
まだ34歳という若さで譲位をした理由は、自身の子に天皇の地位を継がせていくために、輔人親王の即位を防ぐ意味があったのではないかと思います。
少なくとも、この時点で白河上皇に、院政を敷いて権力を独占する意思はなかったと推定されます。
実際、堀河天皇の母(白河上皇の中宮)は、藤原師実の養女・藤原賢子であり、後三条天皇の下で一旦藤原氏の外戚を外れたものの、堀河天皇の即位によって摂関政治への回帰へ向かうようにも見えました。
白河の地へ移る(1086年)
上皇となった白河天皇(以下、「白河上皇」といいます。)は、応徳3年(1086年)、内裏を離れて白河の泉殿へ移り住みます。
なお、嘉保2年(1095年)に、白河上皇の御所として白河南殿が建築されています。
白河院政(形式的院政期)
堀河天皇治世
もっとも、わずか8歳で天皇となった堀河天皇に政治能力などあろうはずはなく、実際は白河上皇が執務を行い、藤原師実がこれを補佐するという形で政治が行われて行きます(形式的な意味での院政の開始です。)。
当初の白河上皇の権力は必ずしも大きなものではありませんでした。
天皇在位中からの協調関係にあった藤原師実の関与は大きく(藤原師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)、このころはまだ摂関政治と大きな違いは見られませんでした。
実際、白河上皇自身も、幼帝の後見という目的を果たしたことや、堀河天皇が藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったために、政治的引退を意図していたようにも見えます。
白河上皇の出家(1096年)
また、白河上皇は、嘉保3年(1096年)には鍾愛する皇女・媞子内親王が病没したことにより、これを弔うために出家し、融観という法名を得ます(以下、「白河上皇」といいます。)。
以上の経過から見ても、少なくともこのころまでに白河法皇に政治的野心があったようには見えません。
白河院政(実質的院政期)
白河法皇への政治権力集中
ところが、ここで白河法皇の立ち位置を大きく転換させる事件が起こります。
承徳3年(1099年)、堀河天皇を補佐していた藤原師通が急逝し、その後を継いだ藤原忠実が堀河天皇の保佐人を務めることとなったのです。
ところが、藤原師通の後を継いだ藤原忠実は、若さゆえに経験が足りなかったため、政治が大混乱に陥ります。
藤原師通の死によって停滞する政治を進めるため、白河法皇にその対応が求められます。
これに対し、白河法皇は、その経験や人脈を駆使して政治を進めていき、そのことがさらに白河法皇の政治へ関与が強めることとなり白河法皇に権力が集中して行くようになります。
他方、康和4年(1102年)と保安元年(1120年、保安元年の政変)の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことにより、摂関家の権威が決定的となります。
白河法皇への経済力集中
前記のとおり、後三条天皇が推し進めた延久の荘園整理令により、荘園審査の対象が摂関家領や大寺社領にまで拡大したのですが、この荘園整理令には1つの問題点がありました。
審査対象に上皇領が含まれていなかったのです。
そのため、それまで摂関家や大寺社に土地を寄進して後ろ盾を得ることによりその権威を利用して、「不輸(ふゆ)・不入(ふにゅう)の権」を獲得していた者たちが、こぞって白河法皇(上皇時代からすでにはじまっていました)に土地を寄進すし、白河法皇の保護を求めるようになっていきます。
その結果、それまで摂関家や大寺社に流れていた寄進系荘園を白河法皇が独占します。
この寄進系荘園を基にして白河法皇の下に入る経済的利益は莫大なものであり、白河法皇は絶対的な政治権力のみならず絶対的な経済力をも有することとなりました。
白河法皇へのさらなる権力集中
この白河法皇への権力集中は、堀河天皇の崩御によりさらに加速します。
嘉承2年(1107年)7月19日に堀河天皇が崩御したことにより、その皇子である宗仁親王(白河法皇の孫)が第74代・鳥羽天皇として即位したのですが、このとき僅か5歳であった鳥羽天皇が政務を執る事ができようはずかなく、また藤原忠実は立場が弱くなっていたために、実際の政務は白河法皇が執り続けることとなります。
こうなると、もはや誰も白河法皇を止められません。
政治力と経済力を得た白河法皇の権力は絶大なものとなり、藤原摂関家の没落とあいまって白河天皇に対抗できる者はいなくなります。
政治的権限を独占した白河法皇は、叙位・除目に大きく介入し、人事権を掌握します。
そして、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制政治を行います。
白河北殿造営(1118年)
元永元年(1118年)には、白河法皇によって白河南殿の北側に新御所が造営されることによって白河殿が拡張され(この新たに造営された新御所は白河北殿と呼ばれ、従来の泉殿は白河南殿と呼ばれるようになって区別がなされます。)、この白河北殿は、大治4年(1129年)にさらなる拡張がなされています。
そして、白河北殿などの院の護衛役として北面武士などを創設し、武士を積極的に登用するなどして武力をも確保します。
天下三不如意
これらの政治権力及び経済力を我が物とした白河法皇の絶大な権力を表すものとして、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話が残されています(平家物語)。
これは、白河法皇が、賀茂川の洪水・すごろくのサイコロ・比叡山延暦寺の僧兵の3つは思い通りにいかないと嘆いたというものですが、逆に言うとこの3つ以外は思い通りに進めることができるという強権を有していたことを示す例ととられることが多いです。
いずれにせよ、権力を独占して独裁者となった白河法皇は、天皇家としての久々の専制君主=独裁者として君臨します。
白河法皇の最期
白河法皇崩御(1129年7月7日)
以上のとおり、白河法皇は、第73代堀河天皇(在位1087年~1107年)、第74代鳥羽天皇(在位1107年~1123年)の治世に治天の君として、その後の崇徳天皇治世途中まで43年間もの長きに亘って院政を行なっていくこことなるのです。
なお、天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「治天の君」と呼ぶようになったそうです。
そして、白河法皇は、大治4年(1129年)7月7日、77歳で崩御します。
諡号・追号
白河法皇は、崩御に際して遺諡によって自ら「白河院」の追号を決めました。また、来孫(孫のひ孫)である順仁親王によって、「六条院」の院号も追諡されました(六条帝ともいわれます。)。
もっとも、大正以後に院号が停廃されたため、以降統一して、白河天皇・白河上皇・白河法皇と称されるようになりました。