崇高な思想を掲げて過激な攘夷運動を繰り返す長州藩が政権内で孤立し、ついには武力によって朝廷に働きかけようとして失敗に終わるという禁門の変(別名:蛤御門の変)とそこに至る経緯について、主に久坂玄瑞の目線から簡単に説明したいと思います。
なお、久坂玄瑞らが京都御所で戦っている間、桂小五郎(後の木戸孝允)も興味深い動きをしていますので、余談として禁門の変の最中の桂小五郎の動きについても見てみます。
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禁門の変に至る経緯
吉田松陰処刑
江戸時代末期の嘉永6年(1853年)、黒船が来航して江戸幕府に開国を迫り、この圧力に屈した江戸幕府が翌嘉永7年(1854年)に日米和親条約を締結して開国するに至ります。
ところが、長らく鎖国政策をとってきた日本では外国に対する免疫がなかったため、突然の開国政策に対して日本全国で反発が起き、外国を打ち払うべきであるとする攘夷運動に発展します。
この攘夷運動は、江戸幕府が安政5年(1858年)に江戸幕府が欧米5か国と日本側に不利益となる修好通商条約を締結したことによりさらに活発化します。
この攘夷運動の急先鋒は、長州藩の松下村塾の吉田松陰でした。
これに対し、江戸幕府は、吉田松陰を危険な攘夷思想を持つテロリストであると危険視し、吉田松陰を幕府要人の暗殺を謀ったとして逮捕した上で、安政6年(1859年)10月27日に処刑してしまいます。
長州藩による攘夷運動
吉田松陰処刑の報を聞いた攘夷派は激怒します。
特に、松下村塾の双璧の1人である久坂玄瑞は、吉田松陰の後を継ぐことを決意し、長州藩の命を受けて京に上り、攘夷運動を進めます。主たる目的は、朝廷から攘夷命令を引き出し、幕府に開国方針を撤回させることでした。
京に上った久坂玄瑞は、長州藩から与えられる潤沢な資金を基に、他藩の重臣や豪商のみならず、ときの関白・鷹司家にまで説得工作を及ぼし、京で、活動家久坂玄瑞の名が知れ渡るようになります。
また、久坂玄瑞は、実力行使にも出ます。
文久2年(1862年)、長州藩士が品川で建設中の英国公使館が焼き討ちにするという事件が起きますが、この事件の中心人物の1人が久坂玄瑞でした。
久坂玄瑞による重要人物に対する攘夷工作は一定の効果を発し、文久3年(1863年)4月20日、江戸幕府は開国の方針を翻し、攘夷実行を宣言するまでに至ります。
攘夷決行日は、文久3年(1863年)5月10日と定められました。
八月十八日の政変(1863年8月18日)
攘夷決行日である文久3年(1863年)5月10日、長州藩は、早速行動を開始します。
関門海峡を通過する外国船に対して砲撃を開始したのです。
ところが、長州藩による強硬な攘夷運動は、慎重派を怯えさせます。
そして、薩摩藩・会津藩などが、長州藩を自由にさせておけばやがて日本全国が外国との全面戦争に巻き込まれると危惧し、政治の場から長州藩を追放するための画策を始めます。
これらの有力諸藩の圧力の結果、文久3年(1863年)8月18日、京都御所に反長州の公家が集められ、京(政治の中心)から朝廷と幕府の決定に従って攘夷を実行したはずの長州藩を追放する旨の決定がなされます(八月十八日の政変)。これは、公明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩などの幕府への攘夷委任を支持する勢力による、過激派主導による譲位戦争を企てる長州藩とそれを後ろ盾とする三条実美らの急進的攘夷派の公家を追い払うクーデターでもありました。
この結果、三条実美ら急進的な尊攘派公家と長州藩士が京都から追放され(七卿落ち)、強硬な攘夷論も一旦は鳴りを潜めることとなります。
政争に敗れた長州藩では、京都留守居役の藩士3人を除いて在京を禁じられ、久坂玄瑞もまた帰藩します。また、桂小五郎も、変名を使い京都内を潜伏しながら情報収集と長州藩復権工作を続けたものの、奏功せず一旦帰藩することとなりました。
長州藩による出兵準備
長州藩を排除した朝廷・幕府・有力諸藩の間では、過激な攘夷か緩やかな攘夷かという攘夷の方法についての議論が重ねられましたが、一向に結論は出ませんでした。
他方、京での政争に敗れた長州藩でも、その対応をめぐって意見が分かれ争われます。
長州藩の長老格である来島又兵衛は藩主が軍を率いて上京して天皇に面会し冤罪を解くべきであるとの強硬論を唱え、これに対して久坂玄瑞や高杉晋作は長州藩から兵を出すと朝廷に刃を向けたとして逆賊として扱われるため控えるべきであると消極論を唱えます。
そんな長州藩では、元治元年(1864年)1月、藩命にて桂小五郎を上京させ、対馬藩邸などに潜伏し関係諸藩(因幡、備前、筑前、水戸、津和野など14藩に及ぶ)との外交活動を続けます(桂小五郎は、同年5月、正式に京都留守居役に命じられ、藩を代表して外交活動を行うこととなっています。)。
そして、京から反長州勢力が少なくなった頃合いを見計らい、勝機と見た久坂玄瑞は、元治元年(1864年)4月、長州藩において京への出兵論の賛成に転じます。
その結果、元治元年(1864年)6月2日、長州藩において、軍を上京させて朝廷に嘆願し、冤罪を解く方法で進めるという方針が決定されます。
池田屋事件(1864年6月5日)
ところが、長州藩が京への出兵準備をしている最中、京で一大事件が起こります。
元治元年(1864年)6月5日、京に潜伏していた長州藩の攘夷派志士たちが、池田屋に集っていたところ、会津藩預かりの新撰組に襲われ、7人死亡・逮捕者23人という長州藩にとって大きな痛手となる事件が起きたのです(池田屋事件)。
池田屋事件により同朋を失った長州藩・過激派尊攘志士たちは激高し、慎重派の桂小五郎や高杉晋作らの意見を聞かず、暴発が避けられなくなってしまいます。
そして、元治元年(1864年)6月16日、久坂玄瑞は、長州兵300人を率いて京へ向かいます。
長州藩兵が京へ向かって出陣
京に向かった久坂玄瑞率いる長州軍は、元治元年(1864年)6月24日、京の南西にある天王山のふもとに布陣します。
そして、ここに攘夷の志を持つ者が続々と結集し、その兵数は2000人にまで膨れ上がりました。
この兵で京都を取り囲んだ久坂玄瑞は、その兵力を頼みとして、朝廷に対して、長州の冤罪を晴らすことと再度攘夷を決行することの許しを得ることを主とし、入京を求める嘆願書を提出します。
長州藩からの嘆願書を受け、朝廷では、長州藩に対する対応をどうするかについての協議が重ねられます。
このとき、議論の方向付けをする報告が届きます。従前長州藩より砲撃を受けた欧米艦隊が長州藩に対する報復を行う決定をしたという報告です。
長州藩を許すと日本全国が諸外国と戦争になるかもしれないと危惧した薩摩藩は、薩摩藩から軍勢の呼び寄せて長州藩に対する備えをするとともに、朝廷・幕府・有力諸藩に対して強硬な長州の攘夷論の危険性を説いて長州と対峙するよう説得します。
このとき、幕府側の軍勢は2万人であり、長州藩と戦って決して負けることはない状況となっていたためです。
そして、元治元年(1864年)7月17日、薩摩藩の説得工作に応じた朝廷は、長州藩に対して、直ちに兵を引くよう命じ、従わない場合には直ちに討伐すると通告します。
禁門の変(1864年7月19日)
長州藩兵に対応するために続々と京に集まる幕府軍に対し、兵数に劣る長州・久坂玄瑞は、このまま兵を引いて長州に戻るべきか、嘆願のために京にとどまるべきか苦悩します。
朝廷からの撤兵通告を受け、長州軍側は、石清水八幡宮で軍議を開き対応を協議します。
最古参の来島又兵衛は、先行攻撃を主張します。他方、久坂玄瑞は、先行攻撃をすると朝敵となるため、先行攻撃については反対の意を表明します。
議論の結果、来島又兵衛の意見が押しとおされ、長州軍によって京都御所へ進軍するとの決定がなされます。
議論の結果、長州軍は3方面作戦(来島又兵衛軍が天龍寺から東進・久坂玄瑞軍が天王山から北東進・真木和泉軍が伏見から北進)を展開し、それぞれが御所を目指すこととなりました。
目的は、敵を突破し、禁裏にいる天皇に直訴することでした。
そして、元治元年(1864年)7月18日夜、それぞれ兵を率いて京に向かって出陣します。
来島隊は、元治元年(1864年)7月19日未明、京都御所の西側にある禁門の1つ蛤御門前に到達し、門を守る会津軍と激突します。
禁門の変の始まりです。なお、禁門の変・蛤御門の変の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによるもので、その中の最大の激戦地である蛤御門には現在においてなお当時の弾痕が残るなどその爪痕が垣間見えます。
勢いにのる来島隊は、蛤御門を突破し、御所内部に入り込みます。
ところが、入り込んだ来島隊の面前に、乾門を守る西郷隆盛率いる薩摩軍が駆けつけてきました。ここで戦局が一変します。
薩摩軍に取り囲まれて銃弾を浴びた来島又兵衛は負けを悟って自決し、長州軍は押し返される結果となります。
また、久坂隊も遅れて御所南側に到達しますが、天皇の下にたどり着くことは叶わず、かつて懇意にしていた元関白鷹司家屋敷に立て籠った後切腹して果てます。
帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走したのですが、これが京の町に類焼して3日3晩燃え続け、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失し、焼失家屋2万8000棟という大災害となりました。
敗北した長州藩は、急進的指導者の大半を失ったこと、また元治元年(1864年)8月5日、欧米の艦隊による下関砲撃を受けたことなどにより、その勢力が大きく後退します。
また、嘆願をする目的であったとはいえ、結果的には天皇のいる御所に攻め込んだ形となったため、長州藩は朝敵とされてしまいます。
その結果、元治元年(1864年)11月、第一次長州征伐として進撃してきた幕府軍に長州藩が降伏し、過激な攘夷運動を求めた1つの時代が終わります。
禁門の変の最中の桂小五郎の行動
以上が禁門の変の大まかな流れですが、この禁門の変の真っただ中で、長州軍とは別に長州藩の重臣・桂小五郎もまた独自の活動をしていますので、番外編として、このときの桂小五郎の動きを追ってみましょう。
禁門の変発生直前、桂小五郎は長州藩邸にいたのですが、幕府方の加賀藩が長州藩邸を取り囲み、これを攻撃する様子を見せたため、桂小五郎は南にある対馬藩邸に逃れます。
ところが、その後、幕府軍が長州藩に同情的な対馬藩にも及んできたため、桂小五郎は、夜陰に乗じて対馬藩邸を逃れます。
対馬藩邸を出た桂小五郎は、因幡藩(鳥取藩・因州藩)を説得し長州藩側に引き込もうと考えて因幡藩邸(因幡池田屋敷)を訪れたのですが叶わなかったため因幡藩の説得を諦め、戦争の混乱を避けて御所から避難するであろう孝明天皇を捕まえて直訴に及ぼうと考えました。なお、ここでは、因幡藩邸ではなく、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いたとの説もありますが、正確なことはわかりません。
そこで、桂小五郎は、堺町御門に向かったのですが、ここで鷹司邸が炎上していることを目にし、また久坂玄瑞の自刃と長州藩が敗走していることを聞いたため、事態の詳細を確認すべく御所内に侵入します。
もっとも、御所内を北上して朔平門辺りに達した際、状況を見てもはやこれまでと悟った桂小五郎は、敵兵の中を切り抜けて京都御所から脱出します。
禁門の変により長州藩が朝敵とされ、その重臣であった桂小五郎もまた幕府から追われる身となります。幾松や、対馬藩士であった大島友之允などのの助けを借りながら、潜伏生活に入ります。このとき、二条大橋周辺で、乞食の姿となって隠れ潜んでいた桂小五郎に、幾松が握り飯を持っていっていという逸話も残されています。
その後、京では、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになったため、桂小五郎は、やむなく京都を出て、但馬の出石に潜伏することとなるというのが、禁門の変の最中の桂小五郎の行動です。