藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)は、平安時代中期に瀬戸内で発生した反乱で、ほぼ同時期(承平・天慶期)に関東で発生した平将門の乱と合わせて承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)とも呼ばれます。
藤原純友は、平安時代中期に権力を独占した藤原北家出身であり、中央貴族であった藤原純友が、海賊の頭目となって瀬戸内海で海賊行為を繰り返すに至ったということが同時の政治の不安定さを物語っています。
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藤原純友の乱に至る経緯
藤原純友国の伊予赴任
藤原純友の乱を起こした人物は、言うまでもなく藤原純友です。
藤原純友は、藤原摂関家として朝廷内で最も権力を握った藤原北家の出身の人物です。
大叔父には、宇多天皇治世初期に阿衡事件(阿衡の紛議)を起こすなどしてその権勢を世に知らしめて日本史上初の関白に就任した藤原基経がいるなど、一見すると藤原純友も出世街道にいるかに見えます。
もっとも、藤原純友の家系は藤原北家の中で分家扱いとされ、また早くに父を失ったこともあって、都での出世は困難な状態でした。
そこで、藤原純友は、このような中央での出世が望めない貴族の例に漏れず、地方官として生きていくことを選びます。
そして、藤原純友は、父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾として伊予に下り、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する任務に就きます。
伊予国に土着して海賊の頭目となる
藤原純友は、伊予国に赴任した後、海賊鎮圧任務に就いていたのですが、その間に現地の海賊たちと縁ができ、同時の勢力を持つに至ります。
伊予国赴任の4年後に伊予守・藤原元名が任期を終えて次に大和守としての任務に就くために一旦帰京することとなったのですが、藤原純友は、弟である藤原純乗と共に伊予国に残る決断をします。
こうして、京の貴族であったはずの藤原純友は、伊予国(現在の愛媛県)を中心とする武装勢力の頭目となります。
そして、藤原純友は、伊予国・日振島を根城とし、自ら蓄えた勢力で他の海賊たちを討伐して名を挙げ、自身と同じように朝廷の機構改革で人員削減され海賊化していた瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たち(武芸に秀でた中級官人層)を次々と吸収していきます。
なお、藤原純友は、承平6年(936年)頃までに1000艘を組織する海賊の頭領となっていたようです。
藤原純友の乱
藤原純友が優勢の時期(939年12月)
(1)備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を襲撃(939年12月)
こうして瀬戸内で勢力を高めていく藤原純友でしたが、海賊討伐の勲功を高位の貴族に横取りされたり、受領として地方に赴任した者の搾取の対象となったりしたことで朝廷に対する不満を募らせていきます。
そして、ついに堪えきれなくなった藤原純友は、天慶2年(939年)12月、配下の藤原文元に命じて、摂津国須岐駅において備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹を襲撃させてこれを捕らえる行為に出てしまいます。
役人の襲撃ですので、国家に対する反逆です。
収まりのつかなくなった藤原純友は、その後、次々と朝廷の出先機関・施設を攻撃し、略奪の限りを尽くしていきます。
朝廷としても、反乱者となった藤原純友の反乱行為を速やかに鎮める必要に迫られたのですが、この反乱が前月である天慶2年(939年) 11月に東国で平将門が謀反を起こしたため困り果てます(藤原純友と平将門との共謀の有無は不明です。)。
朝廷といえども、同時に東西(関東と瀬戸内)に大軍を派遣する力はないからです。
朝廷による藤原純友懐柔策(940年1月)
困った朝廷では、まずは平将門の乱を鎮圧することを優先することと決め、しばらく藤原純友を大人しくさせておく手段を講じます。
朝廷は、天慶3年(940年)1月16日小野好古を山陽道追捕使、源経基を次官に任じて藤原純友の下へ遣わし、同年1月30日、従五位下の位を藤原純友に授けることによってその懐柔を図ります。
ところが、藤原純友は、従五位下の位を受けたものの、朝廷の意に反して、海賊行為をやめることはありませんでした。
(3)淡路国の兵器庫襲撃(940年2月5日)
勢いにのる藤原純友は、天慶3年(940年)2月5日、淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪って軍備を整えます。
藤原純友が京に近い淡路国を襲撃して軍備を整えたこと、このころに京で放火が頻発したことなどから、朝廷内で藤原純友が京を襲撃するのではないかとの噂が広がります。
そこで、朝廷では、同年2月22日に瀬戸内から京に入る淀川水運の防御のため山城国・山崎に藤原慶幸を派遣し、また内裏の14門に兵を配備して藤原純友襲撃に備えます(もっとも、山崎の守りは、同年2月26日の謎の放火によってすぐに失われています。)。
戦局の変化(940年2月)
このように、当初は藤原純友有利に進んでいた反乱ですが、ここで状況が一変する出来事が起こります。
天慶3年(940年)2月14日、東国で反乱を起こしていた平将門が朝廷方に敗れて討ち取られたのです。
これによって東側の脅威がなくなった朝廷が、東国に派遣していた兵を瀬戸内に回せるようになったため、藤原純友は一気に苦しくなります。
この戦局の変化を見た藤原純友は、一旦瀬戸内での海賊行為を中断し、態勢を整えるために、本拠地・日振島に戻ります。
その後、平将門を討伐した東国方面軍が帰京したことにより兵力が整った朝廷では、藤原純友に対する対応が可能となり、藤原純友に圧力をかけて朝廷に下るか、朝敵として討伐されるかの選択をさせます。
具体的には、同年6月、藤原純友に対して、藤原子高襲撃犯として藤原純友の配下となっていた元備前介・藤原文元の追討を命じたのです(配下を殺させる命令ですので、一種の踏み絵です。)。
戦力拮抗時期
藤原純友は、天慶3年(940年) 8月、朝廷の申し出を突っぱね、400艘を率いて伊予国・讃岐国を襲うなどの海賊行為を再開します。
その後も、備前国、備後国を襲撃して兵船100余艘を焼き、長門国を襲撃して官物を略奪したりします。
申し出を拒まれた朝廷としては、これ以上藤原純友を自由にさせておくことはできません。
そこで、朝廷は、同年10月、大宰府などから現地の兵を動員して藤原純友を攻撃させますが、藤原純友軍に撃退されています。
朝廷軍を返り討ちにして勢いにのった藤原純友は、同年11月に周防国の鋳銭司を、同年12月に土佐国幡多郡を襲撃するなどしています。
藤原純友が劣勢となる
(1)幹部が朝廷方に寝返る(941年2月)
ところが、藤原純友方の戦力を一気に低下させる事件が起こります.
藤原純友方の幹部であった藤原恒利が、天慶4年(941年)2月、朝廷軍に降ったのです。
これにより、藤原純友方の戦力が失われたのみならず、本拠地や軍備等の内部情報が朝廷方に筒抜けとなります。
(2)本拠地・日振島陥落
藤原純友方の機密情報を得た朝廷軍は、それを基に作戦を立案し、中央から軍を派遣します。
そして、これらを追捕使長官・小野好古、次官・源経基、主典・藤原慶幸、大蔵春実らに指揮させ、藤原純友の本拠地である日振島を陥落させます。
(3)大宰府占拠
本拠地を失った藤原純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃してこれを占領します。
なお、大宰府に入った藤原純友は、弟である藤原純乗が柳川に侵攻させたのですが、これについては大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池で敗れ失敗に終わっています。
(4)博多津・博多湾の戦い(941年5月)
天慶4年(941年)5月、日振島を落とした小野好古率いる朝廷軍が別府湾を越えて豊後国に入り、その後陸路から大宰府に向かいます。
大宰府に向かってくる小野好古率いる陸上兵力を見た藤原純友は、大宰府に籠って持ちこたえることはできないと判断し、大宰府に火を放って北に逃れます。
藤原純友としては、博多湾に出て海上で決着するつもりでした。海賊ならではの考えです。
もっとも、これが官軍の策であり、待ち構えていた大蔵春実率いる水軍が、逃れてきた藤原純友船団を攻撃し、激戦の末に藤原純友軍は大敗します。
藤原純友の最期(941年6月)
博多湾での戦いに敗れた藤原純友は、子・重太丸と共に小舟に乗って逃走し、伊予国に逃れます。
もっとも、藤原純友は、同年6月、伊予国内にて潜伏しているところを警固使橘遠保に捕らえられ、宇和島で殺されたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれているのですが、資料が乏しく正確な死因はわかっていません。