【藤原摂関政治の始まり】外戚の地位を利用した藤原北家による権力独占の経緯

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代前期に摂政が天皇の代理人(天皇が幼少・病弱などの理由により政務を行うことができない場合にこれに代わって政治を行う役職)となり、また関白が天皇の補佐人(太政官からの意見を成人天皇に奏上する役職・令外官)となることにより、これらが天皇に代わって政治を行う政治形態を言います。

藤原氏が外戚の地位を利用して摂政・関白をはじめとする朝廷の要職を独占したことから藤原摂関政治とも言われます。

摂政という役職自体は奈良時代からあり、当初は天皇の代理人という職責の強さから元々は皇族のみが就任できる役職だったのですが、貞観8年(866年)に藤原良房が人臣初の摂政に任じられ、また仁和3年(887年)11月17日に新たに関白職が設置されて藤原基経が就任したことにより、藤原氏の人間がこれらの職に就いて天皇に代わって政治を行う政治形態となり、平安時代前期の藤原氏の栄華の代名詞となりました。

この藤原摂関政治は、貞観8年(866年)に藤原良房が人臣初の摂政に任じられた後、白河院が院政を始めた応徳2年(1086年)まで約220年間もの長きに亘って続きました。

本稿では、藤原氏による政治=藤原摂関政治の始まりについて、そこに至る経緯から順に説明していきたいと思います。

摂関政治が必要となるに至った経緯

倭と呼ばれたヤマト政権における大王位

古墳時代頃に地方豪族の連合政権として誕生したヤマト政権では、大王(後の天皇)がその長(ナンバー1)となって政治が執り行われていました。

その後、飛鳥時代にクーデターにより蘇我氏から権力を取り戻した天智天皇と、その子である大友皇子を討って軍事政権を確立した天武天皇・持統天皇によって大王権力は絶対化(オンリー1)されました。

そして、天武天皇・持統天皇の孫にあたる文武天皇治世になると、国号を日本・大王位を天皇に改称した上で、大宝律令を制定して天皇中心の中央集権体制を確立し、天皇が絶対的権力者となるに至ります。

兄弟継承による皇位継承時代

この点、倭と呼ばれていた飛鳥時代までの日本においては、天皇家(ヤマト政権の大王家)は、武力によって諸豪族を取りまとめる必要があったことから、皇位(大王位)は、政治を行うに足りる成年候補者を確保する必要があり、そのために主に同世代間で継承(兄弟継承)されることが通例となっていました。

幼帝では、各地の豪族を抑えることができないからです。

この兄弟継承によると、政治を行うに足りる成年候補者が多数準備できることとなるため、皇位の空白期間が生じにくいという大きなメリットがあります。

また、仮に王位を継ぐ適当な成年男子がいなかったとしても、その代わりに中継ぎとなる女性皇族を立てたり、近しい成年皇族が幼年天皇を補佐したりするなどして、皇族による調整で適任者が現れるまでの時間を時間を稼ぐことができることも大きなメリットでした。

持統天皇による父子継承の試み

ところが、この王位の兄弟継承の先例を覆す出来事が起こります。

朱鳥元年(686年)9月9日に天武天皇が崩御されたのですが、年齢が若かったこともあってその子である草壁皇子(天武天皇と後の持統天皇との間の皇子)がすぐに次期天皇として即位することはできませんでした。

そこで、鸕野讚良(後の持統天皇)は、我が子である草壁皇子の即位の下準備に取り掛かり、朱鳥元年(686年)10月3日に草壁皇子に次ぐ皇位継承権者と考えられていた大津皇子を謀反の罪をきせて自害に追い込み、障害を排除してしまいました。

その上で、2年3ヶ月にも亘って皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼が繰り返して時間を稼ぎ、その間に草壁皇子のイメージアップ活動が行われました。

ところが、ここで鸕野讚良に予期せぬ事態が起こります。

いよいよ草壁皇子の即位が秒読みとなった持統天皇3年(689年)4月13日、草壁皇子が27歳の若さで薨去してしまったのです。

皇太子であった草壁皇子薨去により深く悲しんだ鸕野讚良は、天武天皇の他の子ではなく、草壁皇子の子(天武天皇と鸕野讚良の孫)である軽皇子に皇位を継がせようとしたのですが、この時点での軽皇子はまだ7歳であり天皇として即位させるのははばかられる年齢でした。

そこで、鸕野讚良は、軽皇子が即位に足りる年齢になるまで時間を稼ぐため、中継として自らが天皇として即位することとしました(鸕野讚良皇女は、天智天皇の子であるため男系女性になる資格があったためです。)。

すなわち、持統天皇が、わが子(孫)可愛さから、それまでの皇位の兄弟継承の先例を廃して草壁皇子直系での親子継承を指向するために即位したのです。

なお、女性天皇である持統天皇が即位すると、本来であれば皇族の中から摂政を選んで政治を行わせるのが通例なのですが、持統天皇は他の皇族(天皇になりうる地位を持つ)に権力が集まるのを恐れて、女性天皇でありながら自分が政治的権力を持つこととし、また政治的パートナーに豪族以外の者を求めます。

父子継承のデメリット

このように親子の情から志向された持統天皇による皇統父子継承の試みですが、複数の大きな問題点がありました。

そのうち特に問題となった2つが、皇統が1本化してしまうために先帝が早生した場合には皇位継承候補者が若年である(幼帝が誕生する)場合が多くなることと、皇位継承候補者が一気に少なくなることなどでした。

持統天皇としても、当然そのようなことはわかっていたはずなのですが、それを無視しても我が子(孫)を天皇にしたいという親心には勝てなかったということです。

そして、その後、持統天皇は、文武天皇元年(697年)8月1日まで天皇位を維持した後、まだ15歳という当時としては先例のない若さであった軽皇子に譲位し、同皇子を文武天皇として即位させてしまいました。

父子継承デメリットへの持統天皇の対応策

(1)皇位継承候補者が若年であることへの対応策

文武天皇に譲位した持統天皇でしたが、まだ若い文武天皇に全てを任せるには不安がある一方で、他の者に政治を委ねてしまう文武天皇の下から権力がこぼれ落ちてしまう危険が生じます。

そこで、持統天皇は、文武天皇を補助しつつ別系統へ皇位が流れることを防止するための手段として、自らに強い力を残すことにより文武天皇への障害となるものを牽制することとします。

そして、そのための手段として、持統天皇は、引退した天皇を太上天皇(上皇)と定めることによって上皇を2人目の天皇とし、上皇に天皇と同様の権力を持たせることとして天皇を補佐させることとしたのです。

その上で、持統天皇が上皇となり、文武天皇への皇位継承を充足させようとしました。

なお、このように我が子(孫)可愛さから上皇制度を作って日本史上初の上皇となった持統上皇ですが、上皇が天皇と同等の権力を持ってしまったこと、及び上皇の権力の源が天皇の母であったことに由来し、後に様々な問題が生まれていきます。

(2)皇位継承候補者が少ないことへの対応失敗

以上のとおり、天皇候補者(文武天皇)が若年であったことに対する補完をした持統天皇でしたが、皇位継承者を草壁皇子直系(天武天皇系)の父子継承に限定したことによる皇位継承候補者の減少というデメリットまでは考慮に入れていませんでした。

そして、この皇位継承候補者が少ないというデメリットを克服できなかったことから、第48代称徳天皇をもって草壁皇子直系が断絶したことにより持統天皇の試みは失敗に終わり、結局、その後に皇統が天武系(第48代称徳天皇・天武天皇の玄孫)から天智系(第49代光仁天皇・天智天皇の孫)に変更されることとなり、さらにその次の第50代桓武天皇によって、天武系の都であった平城京から天智系の都となる平安京に遷都するに至ってしまいました。

持統天皇が作った上皇制度の弊害

そして、皇位継承者を草壁皇子直系(天武天皇系)の父子継承に限定しようとする「目的が失敗した」にもかかわらず、そのために作り上げた上皇制度という「手段のみが残存」してしまいます。

そして、この上皇制度が、後に大きな内紛を生み出します。

内紛のきっかけは、第51代・平城天皇が、大同4年(809年)4月1日に神野親王(嵯峨天皇)に譲位して平城京に戻ったことでした。

そして、平城京に戻った平城上皇が、弘仁元年(810年)9月6日に藤原薬子にそそのかされて平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図るという行動に出たのです。

前記のとおり、持統天皇により上皇が2人目の天皇として天皇と同様の権力を持つという先例を作り上げてしまったため、法的には平城上皇の平城京遷都の詔も正当な決定となり、この詔が奈良に下った平城上皇による京の嵯峨天皇に対する事実上の反乱宣言を意味することとなってしまったのです。

言うなれば、奈良(南朝)の平城上皇と京(北朝)の嵯峨天皇という平安時代の南北朝の戦いです(薬子の変・平城太上天皇の変)。

平安京と平城京のいずれにも正当性がある朝廷が並立してしまったため(二所朝廷)、あとは政治的・軍事的に相手方を制した方の勝利となります。

結果的には、嵯峨天皇が機先を制してこの反乱を鎮圧して騒ぎを鎮めたのですが、天皇=太上天皇の力関係を維持するとその後も同じような紛争が生じるという問題点が浮き彫りとなりました。

そこで、嵯峨天皇は、天皇が太上天皇よりも上位に立つ(天皇>太上天皇)ことを明確化させることとし、天皇位を譲った太上天皇は内裏を出るシステムを構築しました。

これにより、天皇と太上天皇が横並びとなる弊害が排除されたのですが、他方で、太上天皇が内裏を出てしまったために、太上天皇が天皇を直接補佐することができなくなるという別の弊害が生じることとなりました。

この皇族(上皇)による天皇補佐の困難性の弊害を補うため、皇室外の人物により天皇を補佐・代理するために作られた政治システムが摂関政治だったのです。

そこで、次に、皇室外の人物により天皇を補佐・代理するために作られた政治システムについて説明します。

摂政・関白の役割

外戚が若年天皇を補佐する理由

(1)太上天皇(父系)による補佐の制限

前記のとおり、嵯峨天皇によって太上天皇が代理を出ることとされたために、太上天皇と若年天皇との関係が希薄となり、また距離的離隔が生じてしまったため、太上天皇が若年天皇(幼帝)を補佐するというシステムが取れなくなりました。

(2)天皇の母(国母)による補佐の限界

また、皇統を直系に継承しようとする際に候補者が若年であった場合に母親が代わって政治を行うという持統天皇式システムは、持統天皇が男系女性天皇であったことから可能となったシステムであり、普遍性がありません。

そして、平安京遷都後の頃になると、天皇の妻のほとんどは皇族ではなくなったため(ほとんどが藤原氏の娘)、若年で即位させた天皇に代わって若年天皇の母=国母が政治を行う(女性天皇・女性上皇)という政治形態をとることが出来なくなっています。

(3)天皇の母の父(外戚)による補佐

以上の結果、幼帝が擁立された(天皇が若年である)場合、その父母のいずれもがこれを補佐することができなくなりました。

この問題点を克服されるため、若年天皇に代わる政治権力の源を若年天皇の母(国母)に求めた上で、これを行使し得ない国母に代わって国母の父がこれをするというシステムが考え出されました(若年天皇→天皇の母→国母の父)

これが摂関政治における外形的な摂政の権力構造の考え方です。

また、この考え方は親族の情からしても受け入れやすいものでした。

なぜなら、古代以来の日本の婚姻の方式が「妻問婚」であったため、夫婦は同居せずに妻の居宅に夫が訪ねる形態であり、また夫婦間に生まれた子供も妻の家で養育されることが一般的であったことから、藤原氏を母にもつ皇子も藤原氏の家で養育され、その結果として、母の実家で育った天皇がその実家である藤原氏の意向に従うのは当然の流れだったからです。

以上の結果、天皇の政治権力を天皇の母(国母)に代行させた上、さらにこれを天皇の母が(国母)がその父(外祖父)に代行させるという二重委任を基にするという考え方が受け入れられるに至りました。

天皇・摂政・関白の権能

では、天皇の政治権力を二重委任により外戚が摂政・関白として代行することとなった場合、この外戚は何をするのでしょうか。

天皇の役割は、政治・聖事・性事という3つの「せいじ」を担うことです。

このうち、政治は主権者が領土や人民を管理して社会全般を管理運用すること、聖事は神の子孫として神事全般を執り行うこと、性事とは子を儲けて次世代に皇位を引き継ぐことです。

このうち、聖事と性事は天皇の専権であり、他の者がこれを代行することはできません(不十分でも問題が生じませんので代行の必要もありません)。

他方、政治については、律令制度における太政官会議で決定された政策案・人事案等が天皇に奏上され、これを天皇が裁可するという決定方式で行われていたため、最終決定権者である天皇に権力が集中していました。

天皇がこの政治的決裁権を果たせない場合には大混乱が生じますので、天皇が幼いなどの理由でこれを果たせない場合にこれを国母の父(外戚)が摂政・関白として補うこととなるのです。

そして、摂政は、幼い天皇に代わって天皇の決裁権を代理行使し、関白は成人天皇の決裁権を補佐することによって政治に関与することとなりました。

ただし、外戚が摂政・関白として政治権力を掌握したとしても、摂政・関白自身が太政官会議に参加するわけではなかったため(天皇と太政官の間を繋ぐ役目である内覧は太政官会議に参加できました)、摂政や関白が必ずしも独裁的な権力を把握していたわけではありません。

藤原摂関政治の始まり

藤原北家の台頭

では、藤原摂関家は、以上の摂政・関白の地位をどのようにして獲得したのでしょうか。

以下、少し話を戻して藤原氏が摂政・関白の地位を独占して天皇を超える権力を手にするに至る経緯を説明します。

藤原氏の躍進は、乙巳の変の勲功者であった中臣鎌足が、死の直前に天智天皇から藤原姓を下賜されたことに始まり、その後に藤原鎌足の子である藤原不比等が、娘の宮子を文武天皇に、安宿媛(光明皇后)を聖武天皇に入内させることなどにより力をつけていきます。

また、藤原不比等の死後には、その子である藤原四兄弟が長屋王の変を利用して皇親政治を終わらせ、安宿媛を人臣初の皇后に登らせることで藤原氏の地位の基礎を築きました。

この後、一時期の後退局面(藤原広嗣の乱・藤原仲麻呂の乱など)があったものの、称徳天皇崩御後に光仁天皇を擁立するなどしてその勢力を回復させます。

このとき、光仁天皇・桓武天皇が皇位を継承するに至った功労者は藤原式家の藤原百川であったのですが、その後に藤原仲成が薬子の変を起こしたことにより誅殺されたことにより式家の勢力は衰え、代わって、嵯峨天皇から深い信任を受けて薬子の変の際に蔵人頭に任命された藤原北家の藤原冬嗣が台頭し、左大臣に上っていきました。

そしてこの後、弘仁14年(823年)に藤原冬嗣の次男である藤原良房が、臣籍降下した嵯峨天皇の娘である源潔姫を室に迎えたことから藤原北家の大躍進が始まります。

天皇家の娘を貰い受けた藤原良房は、承和9年(842年)に当時の仁明天皇の実子であり自らの甥かつ婿である道康親王の皇太子に成功し(承和の変)、これを文徳天皇として即位させることによりさらに強い力を獲得します。

そして、藤原良房は、斉衡4年(857年)に従一位・太政大臣に叙任されて、道鏡以来約90年ぶりの太政大臣として位人臣を極めるに至ります。

天皇不在政治の実証実験(833年~858年)

藤原北家が躍進し始めた頃は、第54代仁明天皇(在位:天長10年/833年2月28日~嘉祥3年/850年3月19日)・第55代文徳天皇(在位:嘉祥3年/850年3月19日~天安2年/858年8月27日)の治世だったのですが、両天皇はいずれも病弱であり朝廷の会議にもほとんど出席できませんでした。

そのため、この頃の朝廷では、天皇不在のままで政務が遂行されるということが常態化し、藤原北家を含めた人臣による政治が行われました。

もっとも、この頃は、超大国であった唐が衰退していた時期であったこと、国内でも蝦夷討伐がほぼ完了していたことなどから国防・外交の懸案が少ない国政安定期となっていたため、天皇不在に起因する積極的な政策展開がなくともルーティン化した儀式・先例の遂行や人事決定のみにより政治可能な状況となっていたため、天皇不在でも大きな問題が生じませんでした。

そして、この天皇不在の四半世紀の間に大きな問題が起きなかったことが、天皇不在でも政治に問題が生じないことを証明してしまい、天皇の役割のうちの政治面での絶対性が失われてしまいました

その結果、政治能力を持たない天皇(幼帝)を誕生させ、天皇の大権を臣下へ委譲することの素地が生まれてしまったのです。

そして、この流れにうまく乗り、天皇の大権の移譲を受けた(奪い取った)のが藤原北家でした。

藤原良房が人臣初の摂政就任(866年8月)

天安2年(858年)8月27日に文徳天皇が崩御されたのですが、突然死であったために清和天皇に対する譲国の儀がなされないまま、同日、藤原良房の圧力によってわずか9歳の文徳天皇の第四皇子である惟仁親王が第56代・清和天皇として践祚することとなりました(諒闇践祚)。

このときまでは、皇太子が幼いときに先帝が崩御された場合は、繋ぎの天皇(女帝ないし傍系)を立てて皇太子が成長するまで時間を稼ぐという方法が取られていたのですが、清和天皇は史上初めて幼帝として践祚することとなりました。

日本初の幼帝の誕生であり、もはや天皇による政治力を必要としないことの宣言でもありました。

そして、天安2年(858年)11月7日に即位礼が執り行われ、清和天皇として即位します(大嘗祭は貞観元年/859年11月16日)。

当然ですが、わずか9歳の清和天皇に政治などできようはずがありませんので、本来であれば太上天皇などがこれを補佐すべきなのですが、大きな力を持ってしまった外戚兼太政大臣・藤原良房が事実上の代行者となって政治の実権を握ります(この時点では摂政は皇族しかなることができなかったため、藤原良房は貞観8年/866年に正式に摂政に任命されるまでは「事実上の」摂政でした。)。

そして、この後、清和天皇の外戚の地位を巡って藤原北家内での戦いが始まったのですが、この戦いを利用して藤原良房が摂政の地位に上り詰めます。

そこに至る経緯は以下のとおりです。

このときの藤原北家内の争いは、清和天皇の外戚である太政大臣・藤原良房と、娘である藤原多美子を清和天皇に嫁がせて次代外戚を狙う右大臣・藤原良相(藤原良房の弟)の対立でした。

そして、さらに藤原良房には左大臣・源信と皇太后・藤原明子が、藤原良相には大納言・伴善男と太皇太后・藤原順子が与したことにより2大陣営の戦いとなります。

そんな中、貞観6年(864年)、伴善男が源信に謀反の噂ありと言い立てる事件が起こったのですが、藤原良房側により握りつぶされます。

その後、貞観8年(866年)閏3月10日に応天門が放火され炎上する事件が起こると、伴善男が、応天門は大伴氏(伴氏)が造営したものであるところ源信が伴氏を呪って火をつけたものだとして再び源信が犯人であると藤原良相に告発します。

伴善男の報を奇貨として、藤原良相が源信を捕縛するために兵を出して源信邸を包囲したのに対し、参議・藤原基経から報告を受けた藤原良房が直ちに清和天皇に奏上して源信を弁護し、源信邸を包囲していた藤原良相の兵を引き上げさせました(応天門の変)。

この騒ぎを鎮めるためとして、同年8月に藤原良房が宣下を受けて正式に摂政に就任(歴史上初の皇族外摂政)し、事件の処理も藤原良房の裁量に委ねられることとなりました。

以上の結果として藤原良房が摂政に上り詰め、 その後の同年9月、藤原良房は、伴善男を流罪とした上で藤原良相の政治権力を奪った結果、政敵を全て排除して完全に政権を掌握してしまいました。

藤原基経の関白就任(887年11月)

貞観14年(872年)9月2日に摂政にまで上り詰めた藤原良房が死去すると、その養子であった藤原基経が権力を継承します。

そして、貞観18年(876年)に清和天皇から当時9歳であった陽成天皇に譲位がなされると、藤原基経(陽成天皇の生母である藤原高子の兄)もまた父・藤原良房に続いて摂政に就任しました。

外戚の地位を確立して2代に亘って摂政の地位についた藤原氏は、朝廷内で絶大な権限を握ることとなったのですが、藤原氏内でこの制度の根幹を揺るがす対立が起こります。

妹である皇太后・藤原高子(第56代清和天皇の女御)と悪関係となっていた藤原基経が、藤原高子と清和天皇との血統に天皇を継がせていくことに抵抗し、元慶8年(884年)2月4日にすでに皇位を継承していた藤原高子の子である第57代陽成天皇を宮中で起こった殺人事件の責任を取らせる形で廃位してしまいます(公には病気による自発的譲位)。

その上で、藤原基経は、同年2月23日、藤原高子の血統が天皇位を継ぐことがないようにするためにわざわざ皇位を第54代仁明天皇の代にまで遡らせ、当時55歳という高齢であったその子である時康親王を第58代光孝天皇として即位させてしまいました。

以上の経過からイレギュラーな形で即位した光孝天皇でしたが、高齢であったということもあり、即位のわずか3年後である仁和3年(887年)に病を得て危篤状態に陥ったことから朝廷内で光孝天皇の次の天皇を誰にするかが問題となります。

ここで、藤原基経は、自身と仲の良かった異母妹藤原淑子の猶子となっていた源定省を次期天皇に推し、これを、天皇に近侍する尚侍として後宮に影響力を持つ淑子がバックアップしたことにより、源定省が次期天皇になることに決まります。

そして、仁和3年(887年)8月26日に仁寿殿において光孝天皇が崩御されたため、源定省(宇多天皇)が践祚の上、同年11月17日に第59代・宇多天皇として即位することとなりました。

この結果、宇多天皇は、母を班子女王(桓武天皇の孫)とする藤原氏を外戚としない天皇として誕生するに至りました。なお、宇多天皇は、藤原氏を外戚としない(母が藤原氏の娘でない)だけでなく、自身もかつては臣籍降下するほど身分が低かったためにその后も藤原氏ではありませんでした。

そのため、宇多天皇の即位は、これを後押しした藤原氏にとっても危険な状況となります。

そこで、藤原氏としては、宇多天皇が政治力を手に入れる前になんとかしておかなければなりません。

ここで、政治の天才・藤原基経は、すぐさま藤原氏の地位安定のために動き始め、まずは、宇多天皇の義父として力をつける可能性のあった参議左大弁橘広相(橘広相の娘である橘義子が宇多天皇の妻として二人の親王を儲けていました)の排斥から始めていきます。

イレギュラーな形で即位した宇多天皇は、臣籍降下していたこともあって政治経験に乏しく、自らの手で政治を行うことは不可能であったため、当初はそれまで政治を動かしていた藤原基経を頼らざるを得ませんでした。

そのため、即位式を終えた宇多天皇は、仁和3年(887年)11月17日中に参議左大弁橘広相に命じて、藤原基経に対して引き続き政務を執ることを命じた詔書を作成させ、同年11月21日にこれを発給します。なお、この詔勅にある「皆関白於太政大臣」という言葉が「関白」の初出です。なお、関白とは、天皇に寄せられる情報を「関かり(あずかり)」、天皇に「白す(もうす)」ことで政治に関与したことに由来します。

これに対し、藤原基経は、先帝の際に就任していた摂政よりも高い地位につくこと(この時点では存在していませんので、新設)を求めていたのですが、まずは先例にしたがって同年11月26日に一旦これを辞退します。

そこで、宇多天皇は、再び橘広相に命じて藤原基経に対する二度目の詔勅を発給します。

ところが、この二度目の詔勅には、一度目の関白ではなく「阿衡の任」を以て卿の任とせよと記載されていたため、藤原基経はこれを問題視します。

阿衡とは、中国の殷代の賢臣伊尹が任じられた地位は高いが職務を持たない地位であることから(と藤原基経の家司であった文章博士・藤原佐世から聞いたことから)、藤原基経は、激怒して一切の政務を放棄して自宅に引きこもり、国政を停滞させてしまったのです。

焦った宇多天皇は、何度も弁明をしたのですが藤原基経の怒りは収まらず、翌仁和4年(888年)6月、ついに宇多天皇が「阿衡」の詔書を取り消すという事態に発展します(阿衡事件)。

天皇が一度発給した詔書を取り消すことは極めて異例であり、この行為は、藤原基経が宇多天皇の詔書さえも否認できるほどの力を持っていることを世に知らしめてしまう結果となってしましました。

また、宇多天皇が詔書を取り消したことによりこれを作成した橘広相が誤りを起こしたことになり、橘広相は失脚の危機に陥り、完全に藤原基経に屈服してしまいました(もっとも、同年11月に菅原道真からの手紙で諌められた藤原基経により橘広相への処分は見送られています。)。

その後、藤原基経の娘・藤原温子が宇多天皇の后として入内させることを条件として藤原基経が矛を納めることとしたため、仁和4年(888年)10月頃になってようやく事態が鎮静化していきました。

以上の結果、藤原基経は、単にヘソを曲げただけで、橘広相を屈服させて宇多天皇の詔書を変更させる力を持っていることを世に知らしめ、さらには娘を入内させて将来の外戚復活のための布石まで打ってしまいました。

藤原摂関政治の完成

宇多天皇親政開始(891年)

以上のとおり、藤原基経の政治力に屈してその言いなりとなっていた宇多天皇でしたが、寛平3年(891年)1月13日に藤原基経が死去したことにより事態が大きく動きます。

藤原基経死去時、その後を継いだ嫡男・藤原時平はまだ21歳という若年であったために摂政・関白になることができませんでした。なお、藤氏長者も藤原時平ではなく、その大叔父であった右大臣・藤原良世が任じられています。

この結果、摂政・関白の職から外れた藤原氏の政治力が低下し、その隙を利用して宇多天皇が親政を開始します(寛平の治)。

親政を開始した宇多天皇は、藤原時平を参議に任命したのですが、他方で、寛平3年(891年)2月に菅原道真を近臣である蔵人頭に補任するなどして藤原北家に対する抵抗勢力として育てることとします。

また、源能有や藤原南家の藤原保則らを抜擢して藤原北家の力を削ぐ体制を作り上げていきます。

ところが、摂関家(藤原北家)の独占を廃して行われた宇多天皇親政による政治改革は、寛平9年(897年)7月3日、宇多天皇が皇太子であった敦仁親王を元服させた上、即日譲位して太上天皇となったことにより失速します。なお、このときの宇多天皇の突然の譲位理由は明らかとなっておらず、仏道に専心するためとする説、己に連なる皇統の正統性を示して前の皇統に連なる皇族からの皇位継承の要求を封じるためとする説(大鏡)、右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたことによるとする説(寛平御遺誡)などがあるのですが、真相は不明です。

醍醐天皇に譲位した後も宇多上皇は権力を持ち続けて摂関を置かせず、藤原時平と菅原道真を内覧に任じて政治を執り行わせたのですが、天皇よりも地位の劣る太上天皇となってしまった故に醍醐天皇と距離が生れていきます。

そして、さらに、昌泰2年(899年)3月14日、醍醐天皇の妃であった宇多法皇の同母妹為子内親王が早生したため、醍醐天皇が藤原時平の妹である藤原穏子の入内を進めたのですが、これを藤原時平が外戚の地位を狙うものとして強く反発したことから、藤原氏と連携して政権の安定を図ろうとする醍醐天皇と、藤原氏腹の皇子の誕生を望まなかった宇多法皇とが対立するようになっていきます。

藤原北家の権力復帰

この対立構造に嫌気がさしたのか、宇多法皇は、菅原道真の後ろ盾となって藤原時平の政治力強化を防ぐ努力を続ける形で行っていた政治への興味を失っていき、代わって次第に仏道に熱中し始めて高野山・比叡山・熊野三山への参詣などに注力していくようになります。

こうなると、藤原北家による権力復帰の活動が始まります。

このとき藤原時平が牙を向けたのが、宇多法皇の後ろ盾により権力を手にしていた菅原道真でした。

このタイミングで宇多法皇が菅原道真の娘婿でもある斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説が流れると、これを好機と見た醍醐天皇と藤原時平が、宇多上皇と菅原道真から政治権力を奪還しようと考え、昌泰4年(901年)正月25日、突然出された醍醐天皇の宣命によって菅原道真が大宰員外帥に降格されて大宰府へ左遷されることが決まります。

この報を聞いた宇多法皇は、直ちに仁和寺を出て内裏に向かったのですが、内裏に入ることができず、菅原道真への処分を覆すことができませんでした(昌泰の変)。

なお、このとき宇多上皇が内裏に入れなかった理由は、かつて陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとした際に宇多天皇が上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けた事例があって、その件が先例となっており、この昌泰の変の際に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にした醍醐天皇に内裏への進入を阻まれたためです(長秋記・保延元年6月7日条)。

摂政・関白概念の完成

延長8年(930年)9月22日、危篤状態となった醍醐天皇は、当時わずか8歳であった寛明親王に譲位して朱雀天皇として践祚・即位させるに至ります。

8歳の子供に政治などできるはずがありませんので、このときの譲位に合わせて藤原忠平(藤原時平の弟・朱雀天皇の伯父)が摂政に任じられ、朱雀天皇に代わって政治を行うようになりました。なお、宇多法皇は承平元年(931年)7月19日に崩御しています。

その後、天慶4年(941年)に朱雀天皇が成人したため、藤原忠平が摂政を辞しすることとなったのですが、朱雀天皇は改めて藤原忠平を関白に任命したことによりそのまま藤原忠平が政治を執り行い続けることとなりました。

このときの藤原忠平の摂政から関白への地位異動が、記録上確認できる摂政→関白シフトへの初めての例であり、これにより天皇の幼少期は摂政・成人後は関白が政治を行うとの概念が出来上がってしまいました。

摂政・関白の常置と藤原北家による独占

天暦3年(949年)8月14日に藤原忠平が死去すると、摂政・関白が空位とされて村上天皇の親政(天暦の治)が行われました。

もっとも、後世に天皇親政が行われたとされる醍醐天皇治世(延喜の治)・村上天皇治世(天暦の治)においても、形式上摂政・関白が置かれていないだけで、実際には藤原忠平の長男であった藤原実頼が左大臣として国政を運営しており、藤原北家による国政掌握構造が失われたわけではありませんでした。

そして、村上天皇が崩御されて病弱であった冷泉天皇が即位すると、藤原実頼が関白・太政大臣・准摂政に任ぜられ、従前の藤原摂関政治体制に戻ってしまいました。

そして、これ以降、摂政・関白以外の要職についても摂関家が占めることとなって政治権力を独占するに至り、その権力構造が以降100年以上もの長きに亘って続いていくこととなったのです。

その後

以上の経過を経て、外戚政策により政治権力を独占した藤原摂関家(北家良房流)でしたが、平安時代中期頃から生まれた子供を夫の家で養育するようになったこと、藤原頼通が入内させた娘から男児が生まれなかったこと、藤原北家内での権力争いに明け暮れて有効な打開策を打たなかったことなどから影響力を失います。

そして、白河院政の確立により藤原摂関政治は終焉を迎えるのですが、あまりに長くなるので以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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