方広寺銘鐘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、方広寺の鐘に記された銘文に徳川家康が激怒し、その後の大坂の陣・豊臣家滅亡の切っ掛けとなったとされる事件です。
この鐘は現存しているため、見たことがある方も多いのではないでしょうか。少なくとも、誰もが学校の教科書で一度は目にしていると思われます。
本稿では、歴史を変えた方広寺銘鐘事件(読み方:ほうこうじしょうめいじけん)について、そのあらすじを簡単に説明したいと思います。
なお、方広寺という寺号は、江戸時代中期以降に自然発生的にそのように称されるようになって定着したものであり、江戸時代初期までにその寺号はないことから、「方広寺鐘銘事件」は「京都大仏鐘銘事件」といわれることもあります。
【目次(タップ可)】
豊臣秀吉による方広寺・大仏造立
方広寺・大仏造立計画
豊臣秀吉は、天正14年(1586年)ころには徳川家康を臣従させ、また関白・太政大臣の官職を得て、日本統一事業を進めていました。
そして、豊臣秀吉は、天下を統べる者の責務として、消失した東大寺大仏に代わる大仏の造立を考え、天正16年(1588年)、蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に大仏と大仏殿(方広寺)の造立を決めます。
なお、この時点で東大寺大仏が消失していた理由は、三好長慶死亡後勃発した三好家に内紛により、三好三人衆と松永久秀とが対立し戦っていたのですが、永禄10年(1567年)10月10日、東大寺を本陣としていた三好三人衆を松永久秀軍が奇襲した際、何らかの原因で大仏殿と中に安置されていた大仏が焼失してしまったことによるものです。
なお、大仏殿の消失については、松永久秀が故意に焼き払ったという説もありますが、最近の研究では戦の最中の不慮の失火説が有力なのだそうです。
豊臣秀吉による刀狩令
そして、豊臣秀吉は、天文16年(1588年)、方広寺の大仏建立を名目とし、建立する大仏殿の釘・かすがいに寄進するという名目の下、刀狩令を発布し、百姓から刀・脇差・弓・槍・鉄砲、その他の武具を取り上げ、以降百姓がこれらを持つことをかたく禁止しました。
大仏造立を、身分社会を確立と一揆防止手段に使うところに、豊臣秀吉の強かさが垣間見れますね。
方広寺・大仏造立
そして、文禄4年(1595年)、現在の方広寺境内に加え、現在の豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院、三十三間堂をも含む広大な敷地を有する方広寺が完成しました。
方広寺は立派な石垣によって取り囲まれ、そのとき組まれた石垣は現在も見ることができますので当時の姿が偲ばれます。
また、その境内(現在の豊国神社のある位置だそうです。)には、豊臣秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した高さ約49m、南北約88m、東西約54mという壮大な大仏殿も造立されました。
そして、高さ約19 mの木製金漆塗坐像大仏もまた完成の上、大仏殿に安置されました。
慶長伏見地震による大仏倒壊
ところが、文禄5年(1596年)閏7月13日、山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で大地震が発生し(慶長伏見大地震)、大仏殿は倒壊を免れたものの、大仏は開眼法要前に倒壊してしまいました。
なお、このとき豊臣秀吉は倒壊した大仏を見て、大仏なのに「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝えられています。
その後、慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉は死去し、その後、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われています。
豊臣秀頼による方広寺・大仏造立
漏れ出た銅による大仏・大仏殿焼失
慶長4年(1599年)、豊臣秀頼は、父豊臣秀吉が行っていた大仏造立事業を引継ぎ、木食応其に命じて銅造での大仏復興を図るものの、慶長7年(1602年)に流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏もろとも大仏殿が全て焼失してしまいました。
大仏造立が相当の難事業で、なかなか完成に至らないため、このときは一旦、豊臣秀頼による大仏造立計画が頓挫します。
豊臣秀頼による大仏殿・大仏再造立
これに対し、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで天下をほぼ手中に収め、また征夷大将軍に任じられた徳川家康でしたが、莫大な財産を持ち、また恩顧の大名に影響力を持つ豊臣家の存在はどうしても邪魔な存在でした。
もっとも、豊臣家は、徳川家康からすると主君筋にあたる上、豊臣秀吉が残した莫大な遺産があったところ(一説には、金子9万枚・銀子16万枚・その他分銅金多数といわれています。)、この金で関ヶ原の戦い後にあふれかえった浪人を吸収してしまえば、徳川家と戦える戦力を簡単に作りだせてしまいます。
この危険を回避するため、徳川家康は、豊臣家の弱体化を志向します。
徳川家康は、まずは豊臣秀吉あ残した財力を削いでいくことを考え、その手段の1つとして豊臣秀頼に多くの寺社の再建を提案します。
そして、その1つが、一旦は頓挫した方広寺の再建・大仏造立だったのです。
徳川家康に、亡関白殿下の悲願ですからとかなんとか言われて造立を勧められた豊臣秀頼は、あらためて片桐且元を奉行に任命して、再び方広寺と大仏造立事業を再開し、莫大な費用をかけて、慶長17年(1612年)に大仏と大仏殿が完成させます。
続いて、慶長19年(1614年)4月16日には、高さ一丈七寸(3.24m)、口径九尺五寸(2.88m)、銅使用量一万七千貫(63.75t)という巨大な梵鐘も完成させています(問題の鐘ですね。)。
その上で、徳川家康の同意の下、同年8月3日に、大仏開眼供養と堂供養とを併せて行うことが決まり、開眼法要のための準備がすすめられていきました。
ところが、慶長19年(1614年)7月18日になり、突然、徳川家康から、開眼法要の延期(開眼供養と堂供養の分離)が申し渡されます。
方広寺鐘銘事件
徳川家康による異議申立て
開眼法要延期の理由は、梵鐘に付された銘文(禅僧:文英清韓の作)のうち、「国家安康」「君臣豊楽」の句の部分が、「国家安康」は家康を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い、徳川家が没落するように呪いが込められていると徳川家康側が異議を出してきたことです。
豊臣家による弁明
これに対して、淀殿が直接徳川家康の元を訪れて事情を説明するなどし、一旦は徳川家康がこれを許し事態が沈静化に向かいます。
ところが、徳川家康は、この意を翻します。
そこで、慶長19年(1614年)8月13日、片桐且元と銘文を起草した禅僧文英清韓が駿府に赴いて弁明を試みますが、徳川家康は全く耳を貸しませんでした。
そればかりか、徳川家康は、同年9月、片桐且元に、豊臣秀頼及び淀殿に対して、国替え又は豊臣秀頼か淀殿の江戸下向を選択するようにとの伝言を命じます。
豊臣方は、片桐且元によりもたらされたこの伝言を聞いて激怒します。
また、豊臣秀頼及び淀殿はこの条件を持ち帰った片桐且元の信頼を喪失し、そればかりか片桐且元の徳川家康との内通まで疑うようになります。
片桐且元の離反と大阪の陣
その結果、片桐且元は、豊臣家を去り、徳川家康の下につくこととなりました。
豊臣政権の中枢にいた片桐且元は、新たな主君となった徳川家康に対し、その信頼を得るため大阪城の構造・部屋の配置・財力等に至るまでの機密情報を全て話してしまいます。
これに怒った豊臣方は、片桐且元に隠居を命じるとともに、暗殺計画を立てたため、片桐且元は大坂城から退去します。
この知らせを聞いた徳川家康は、豊臣方に戦の意思ありとして、運命の大坂の陣が始まるのです。
方広寺鐘銘事件の評価
徳川家康の言いがかり説
徳川家康が鐘銘を問題視したのは、最初から徳川家康が豊臣家を滅ぼすための計画であり、単なる言いがかりだというのが従来の定説でした。
私も、学校ではそのように習いました。
また、鐘銘自体は言いがかりであるが、徳川家康は、統治者である自分に相談なしに豊臣方が銘文を作成したことに怒ったのだという説もありました。
豊臣家の落ち度説
もっとも、今日では、方広寺鐘名事件に関しては諸説あり、最近では少し変わった説が有力となってきているようです。
それは、徳川家康の陰謀では無く、純粋に豊臣側の落ち度であったとする説です。
その根拠としては一度徳川家康がこの事件を許していることであり、最初から言いがかりをつけるつもりであったならば許すことは無かったはずとするものです。
本当の評価は?
今となっては、方広寺鐘銘事件の本当の意味は分かりませんが、少なくとも戦の口実を作った徳川家康が、大阪冬の陣、夏の陣を起こして豊臣家を滅亡させた結果は変わりませんので、歴史の一大事件ですね。
なお、この事件の原因となった梵鐘は、その後、明治17年(1884年)建立の方広寺鐘楼に納められて現存していますので、興味がある方は是非。鐘楼の天井画も見事です。
また、そのすぐ横には「ホウコクさん」の名で親しまれる豊臣秀吉を祀る豊国神社(とよくにじんじゃ)があります。
豊国神社は、慶長3年(1598年)に亡くなった豊臣秀吉が、後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜ったことから、遺体が葬られた東山の阿弥陀ヶ峯の麓(現在の豊国廟太閤坦)に荘厳な廟社が造営されたことに始まります。
その廟社は徳川幕府によって廃祀されたのですが、明治13年(1880年)、旧方広寺大仏殿跡に社殿が再建された際に、別格官幣社として復興されたものです。なお、明治31年(1898年)には、荒廃していた豊臣秀吉の廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建されています。
豊国神社の正面には伏見城から二条城、南禅寺金地院を経て移築されたと伝えられる国宝三唐門の1つである唐門も鎮座していますので、観光の際はあわせて是非。