【平家政権成立】クーデターにより成立した日本初の武士軍事政権

平家政権は、平安時代末期に軍事貴族であった平家により確立された日本初の軍事政権であり、平正盛が基礎を築き、平忠盛が発展させ、平清盛により完成しています。平清盛の館が京の六波羅にあったことから、六波羅政権ともいわれます。

この辺りの話は、平家物語・愚管抄などを基にした貴族目線での話により理解されることが多いのですが、実態を理解するためには、貴族目線のみならず当時の権力機構ないでの位置付けを基づいて考えていかなければなりません。

すなわち、平家は、朝廷内の出世のみにより権力を高めたのではなく、軍事力を背景として地頭や国守護人を設置するようになり、その結果、従来の国家機構の支配権を掌握することで成立したということの理解が必要です。

もっとも、その成立時期については諸説あり、大別すると仁安2年(1167年)5月宣旨説と、治承三年の政変(1179年)説に分かれるのですが、定義の別は置いておくと、12世紀中期頃に段階的に成立し、遅くとも治承3年(1179年)までに確立されたと解釈するのがわかりやすいと思います。

なお、余談ですが、平氏と平家は別物です。「平氏」とは、皇族が臣下の籍に降りる臣籍降下して天皇から「平」という氏を授けたことにはじまる賜姓皇族の全てを指す概念であり、平家は、平氏の中の伊勢平氏・平清盛を棟梁とする一門を特別に指す概念となっています。

本稿では、平氏政権ではなく、平家政権の紹介となっていますので、これを前提として読み進めていただければ幸いです(平清盛に連なる伊勢平氏一族政権と見れば平家政権であり、建春門院滋子に連なる堂上平氏一族も政権の中枢にいるという意味では平氏政権とも言えます。)。

平清盛以前の伊勢平氏(平家)の勢力拡大

平家一門の政治参加(平正盛時代)

平家政権に至る基盤形成は、白河院政期の平正盛(平清盛の祖父)に始まります。

桓武平氏貞盛流の伊勢平氏棟梁であった平正盛は、数ある軍事貴族の中でも平凡な一族だったのですが、播磨守や大宰大弐を務めた藤原顕季に接近して白河上皇とのパイプを獲得します。

そして、永長2年(1097年)に伊賀国の所領を六条院(白河上皇の娘・郁芳門院の御堂)に寄進して鞆田荘を成立させた上、周辺の東大寺領も取り込んで立荘するなどして、白河上皇の政治権力を後ろ盾に東大寺や国衙の支配を除去して実質的な土地所有に成功します。

その後、平正盛は、東大寺や国衙の支配から逃れようとした田堵農民層を吸収して郎等・家人とし、武士団を形成していきました。

他方、平正盛が勢力を高めていくと、直属武力を持たなかった白河上皇が、摂関家や大寺院への対抗勢力としてこれを利用しようと考えます。

白河上皇は、親衛隊となる院近臣や北面武士を整備してこれらを受領・太政官・兵衛府・衛門府などの公的機関に強引に送り込むことにより力をつけていったのですが、北面武士となった平正盛もまた白河上皇の麾下で勢力を高めていきました。

そして、必ずしも真偽は不明なのですが、出雲で源義親の濫行が起こると、嘉承2年(1107年)12月19日に平正盛が追討使に抜擢されてこれを討伐して但馬守に任じられたとされています。

その後、平忠盛は、天仁元年(1108年)の延暦寺僧兵の強訴、永久元年(1113年)の興福寺及び延暦寺の強訴、保安4年(1123年)の延暦寺僧兵の入京企てを防ぐなど、白河院政を武力で支えていきます。

平家一門の勢力強化(平忠盛時代)

その後、平正盛の後を継いだその子・平忠盛もまた、伊勢平氏棟梁として院政の武力的主柱となります。なお、この頃に源義家の子である源義親が失脚したため、平忠盛が軍事貴族の最高峰とも言える正四位に昇り、武家の棟梁の地位が清和源氏から桓武平氏へ移ったと考えられます。

肥前国神埼荘の預所となった平忠盛は、大宰府の関与を排除して日宋貿易に介入し、大きな利益を手にします。

この頃、日宋貿易につながる海上交通ルートとなっていた瀬戸内海において海賊の跋扈が大きな問題となっていたのですが、平忠盛は、大治4年(1129年)3月、山陽・南海の海賊追討使に任じられると、これら海賊(在地領主)を掃討してこれらを傘下(家人)に下すなどして、その勢力をさらに高めていきます。

なお、平忠盛が、日宋貿易による経済的利益を基に自らの私兵となる武士団の増強を図っていたことは、院の権威を頼みとして牽制を誇っていた他の院近臣と決定的に異なるでした。

同年7月に白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇の院政がはじまることとなったのですが、平忠盛も受領として荘園の設立に関与して院領荘園の管理も任されるようになります。

そして、長承元年(1132年)に鳥羽法皇のために得長寿院千躰観音像(三十三間堂)建立した功により昇殿を許されるようになりました。

その後、藤原家成が鳥羽法皇の院近臣筆頭の地位を確立すると、その従兄弟である宗子を妻に持つ平忠盛もまた政権中枢に近づいていきます(若年期の平清盛が、藤原家成の屋敷に頻繁に出入りする程の関係性であったとされています。)。

久安2年(1146年)には受領の最高峰と言われた播磨守に任じられ、公卿昇進も間近と考えられていた平忠盛でしたが、仁平3年(1153年)に公卿昇進を達成することなく58歳で死去してしまいました。

平清盛の伊勢平氏家督相続(1153年)

平忠盛の死により、仁平3年(1153年)、安芸守(久安2年/1146年就任)であった平清盛が桓武平氏貞盛流(伊勢平氏)棟梁の地位と、経済的・軍事的基盤を引き継ぎます。

強大な軍事力を手に入れる

瀬戸内に影響力を及ぼす

保元元年(1156年)7月、鳥羽上皇の死亡により空席となった治天の君の席を巡る崇徳上皇(待賢門院派)と後白河天皇(美福門院派)との争いがおこると、天皇家・藤原摂関家・武士が崇徳上皇派と後白河天皇派とに分かれて争いが勃発します(保元の乱)。

このとき、平清盛は、義母の池禅尼が崇徳上皇の子である重仁親王の乳母であるという関係性にありつつも平家一門を率いて後白河天皇方に与し、後白河天皇に勝利をもたらす武功を挙げます。

崇徳上皇に与した上級貴族・武士たちが処罰され、多くのポストに空きが出たことから、平清盛は保元の乱勝利の立役者の1人として、保元元年(1156年)に播磨守に任じられ、瀬戸内に影響力を持つようになります。

なお、保元の乱が朝廷内の対立を武力によって解決し得ることを明らかにしてしまったため、以降、貴族支配の終焉と武士支配の始まりをもたらすきっかけとなっていきました。

西国・東国に勢力拡大

保元の乱の論功によって播磨守の職を得た平清盛は、同地を拠点として瀬戸内海の海賊を制圧し、これらを伊勢平氏勢力下の水軍として編成することによって瀬戸内海交通の支配に乗り出します。

このときの家臣団再編成により、それまで本領である伊賀国・伊勢国の郎等で構成されていた平家の家人が、瀬戸内を中心とした西国に広がり、広範囲に影響を及ぼす強い力を手に入れます。

摂関家や有力武士を淘汰

保元の乱終結後の保元3年(1158年)、後白河天皇が二条天皇に譲位して上皇となり、法住寺を中心とした地域に院御所の建築を始めるなどして院政の準備にとりかかろうとします。

もっとも、後白河上皇は、あくまでも中継ぎ天皇として即位した後に上皇となったことから大きな力を持っておらず、はなく院政を敷くのは簡単ではありません(八条院領の引き継ぎもなされていません)。

他方、二条天皇はまだ若年であったため、権力基盤が盤石ではありませんでした。

そのため、天皇も上皇も適任ではなかったため、鳥羽上皇の院の近臣であり、極めて能力が高い藤原信西が、二条天皇を補佐する形で政治を取り仕切るようになります。なお、藤原信西は、妻が後白河上皇の乳母であった関係で、親後白河上皇派です。

こうして、藤原信西が力を持って行ったのですが、これに対して、二条天皇の側近(藤原経宗、藤原惟方、摂津源氏・源頼政など)と、後白河上皇の院の近臣(藤原信頼、藤原成親など)のいずれもが反発します。

このとき、平清盛は中立の立場をとっていたところ、その後、一旦は、挙兵した反信西派が藤原信西を討ち取り、朝廷から藤原信西派閥を一掃します。

ところが、この後、反信西派として協力していた二条天皇の側近と、後白河上皇の院の近臣とが対立します。

ここで、平清盛は、二条天皇親政派に与して藤原信頼・大炊御門経宗・葉室惟方などを一掃し、またあわせて源義朝・源重成・源季実・源光保ら有力武士を滅亡させることに成功します(平治の乱)。

軍事警察権を独占(1159年)

上級貴族や自身に匹敵しうる武士団を壊滅させることに成功した平清盛は、肩を並べる者のいない軍事貴族筆頭として確固たる地位を確立し、朝廷の軍事力・警察力を完全に掌握してしまいます。

また、平家一門の躍進は平清盛のみにとどまらず、その嫡男であった平重盛にも仁安2年(1167年)5月10日に東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下されるなどして国家的軍事・警察権が正式に委任されます。

これにより、平重盛は、平清盛の後継者としての地位を確立させただけでなく、丹後・越前の知行国主として大きな力を手にします。

また、平清盛が、内裏大番役の催促を担って諸国から武士を交替で上京させてこれを管理して院政の軍事警察部門を担当するのみならず、平重盛が独自に西国に経済・軍事・交通基盤を築いていきました。

莫大な経済力を得る

日宋貿易を独占して経済力を得る

保元3年(1158年)8月10日に大宰大弐に任官するなどして瀬戸内に大きな影響力を有することとなった平清盛は、これらを利用して瀬戸内航路を整備します。

その後、応保2年(1162年)に摂津国八部荘を得ると、大宰少弐の役職を利用して日宋貿易の独占を目論んで近くにあった大輪田泊を統治下に組み入れた上で、私費を投じてその大改修を始め、同湊を日宋貿易の拠点とします。

これにより日宋貿易に本格参入した平清盛は、日宋貿易による生まれる莫大な利益を得ることができるようになり、平家の力はさらに巨大なものとなっていきます。

そして、平清盛は、日宋貿易で得た経済力を利用して、二条天皇のみならず、後白河上皇・摂関家にも朝廷工作を行い、後白河上皇のために蓮華王院(三十三間堂)を造営して寄進したり後白河院庁別当として奉仕したり、長寛2年(1164年)4月には、娘の盛子を関白・近衛基実に嫁がせて摂関家にも接近するなどしています。

摂関家領を押領する

また、永万2年(1166年 )7月26日に摂政・藤氏長者の藤原基実が24歳の若さで薨去すると、平清盛は、近衛家の家司であった藤原邦綱の助言に従って摂関家の荘園(殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領)を藤原基実の正室となっていた盛子に伝領させ、これにより厖大な摂関家領を平家の管理下へ置くことに成功します。

朝廷で出世を重ねる

公卿となる(1160年)

話を少し前後させますが、平清盛は、平治の乱に際して反二条天皇派(親後白河上皇派)を排斥した功を高く評価され、永暦元年(1160年)6月2日に正三位参議、同年8月11日に大宰大弐如元に補任され、この結果、武士として初めて公卿となりました

なお、「公卿」とは、大臣である「公」と参議または三位以上の廷臣である「卿」とを合わせた概念であり、朝廷に直接仕える上級貴族(政治決定に参与する議政官)を意味しました。

一介の軍事貴族(下級貴族)に過ぎなかった平清盛が、この上級貴族の代名詞である公卿に成り上がったことは、当時の朝廷としても驚きの抜擢人事であり、二条天皇親政確立にどれだけ平清盛が寄与したかがわかります。

以上の結果、後白河上皇と二条天皇の勢力争いが一旦は二条天皇方勝利で終わったのですが、応保元年(1161年)9月に、後白河上皇と滋子の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれたため、後白河上皇復権の機会が訪れます。

すなわち、二条天皇から憲仁親王に譲位させることができれば、後白河院政が継続できるのに対し、天皇の兄となった二条天皇には院政を敷く資格が失われる結果、後白河VS二条の戦いが後白河上皇の大逆転勝利で終わらせる可能性が出てきたのです。

このチャンスを逃すまいとして、後白河上皇派であった平滋子の弟である平時忠・平教盛らが憲仁親王の立太子を画策します。

もっとも、この動きを知った二条天皇が激怒します。

怒った二条天皇は、平時忠・平教盛・藤原成親・坊門信隆を解官した上で、平時忠を出雲へ左遷し、後白河院政を停止してしまいます。

この二条天皇の動きに対し、平清盛もまた、室であった時子が二条天皇の乳母であったこと関係からこの動きに同調し、天皇の乳父として御所に家人を宿直させて警護することで、二条天皇支持の立場をとります。

平滋子を通じて後白河上皇に接近

平清盛の継室となった時子(二位尼)の妹である平滋子は、鳥羽法皇の娘・上西門院(後白河上皇の同母姉)に女房として仕えていたのですが、その美貌と聡明さで有名でした。

平滋子は、後白河上皇の目に留まって寵愛を受け、応保元年(1161年)4月に院御所となった法住寺殿が完成した後には、後白河上皇・その皇后である忻子と共に入御して「東の御方」と呼ばれるようになります。

その後、同年9月3日に滋子が後白河上皇の第七皇子である憲仁親王(後の高倉天皇)を出産して皇室にその血を残すと、その血縁者である平清盛の権威も高められていきます。

そして、平清盛は、親二条天皇派の立場にいながら、後白河上皇への配慮も欠かさず、長寛2年(1164年)には、後白河上皇のために蓮華王院(三十三間堂)を造営して寄進しています。なお、この蓮華王院に荘園・所領の寄進が行われたため後白河上皇の経済基盤の強化につながっています。

大臣補任(1166年11月11日)

長寛3年(1165年)2月に後見人であった太政大臣の藤原伊通が亡くなり、自らも病に倒れた二条天皇は、実権を奪還しようと画策する後白河上皇の動きに警戒心を抱いており、長寛3年(1165年)5月9日に平清盛の嫡男である平重盛を参議に任じるなどして平家を取り込み、その力を基に後白河上皇の院政復活の野望を牽制しようと試みます。

また、二条天皇は、同年6月、前年に生まれたばかりの子である順仁親王の立太子を行うとその日のうちに譲位して太上天皇となり、憲仁親王(後白河上皇の第七皇子)即位の道を摘み取ろうと努力します。

もっとも、こうしている間にも二条天皇の病状は悪化し、同年7月28日、押小路東洞院で崩御してしまいます。

この結果、それまでの二条天皇VS後白河上皇の構図が、順仁親王(二条天皇の子)VS後白河上皇という構図に変化し、一気に後白河上皇方が有利となります。

このタイミングで、長寛3年(1165年)8月17日、後白河上皇は、自らの優位性をさらに高めるために平清盛を院の近臣の昇進限界とされていた権大納言に任命し、その取り込みを図ります。

また、永万2年(1166年)に平清盛の娘婿であった摂政近衛基実が薨去すると後白河院性が復活し、同年11月11日、後白河上皇の口利きによって平清盛が内大臣に昇任します。

このときまでの先例による限り、大臣に昇進できるのは摂関家(中御門流・花山院流含む)・村上源氏・閑院流に限られていたため、平清盛の大臣昇進は極めて異例なものでした。

太政大臣となる(1167年2月11日)

さらに、平清盛は、仁安2年(1167年)2月11日、武士として史上初めて従一位太政大臣にまで上り詰めます

この時点での太政大臣は実権のない名誉職に過ぎなかったのですが、平清盛の太政大臣就任により、平家が太政大臣を輩出できる家格であることを世に知らしめます(なお、平清盛の太政大臣就任は家格向上以上の意味を持ちませんでしたので、平清盛は、就任後約3ヶ月である同年5月17日にはこれを辞任しています。)。

後白河院政を停止

高倉天皇即位(1168年2月19日)

二条天皇崩御により最大の障壁がなくなった後白河上皇は、すぐさま院政の再開に向けて動き始めます。

まずは、二条天皇の子である六条天皇を退位させ、後白河上皇の子である憲仁親王を即位させるための行動を始めます。

憲仁親王が平清盛の継室(二位尼時子)の姉妹であった平滋子が産んだ子でもあることから、憲仁親王の即位は平清盛にとっても大歓迎です。

そこで、後白河上皇と平清盛は、互いに協力し、仁安3年(1168年)2月19日、数え5歳の六条天皇から8歳の憲仁親王に譲位させて高倉天皇として即位させることに成功します。

また、利害の一致に伴う協力関係もあって平清盛と後白河上皇の関係性は極めて良好なものとなりました。

平清盛出家(1168年3月)

その後、平清盛は、病を得たことを機に、仁安3年(1168年)3月に出家し、福原に設けた山荘へ移り住みます。

そして、その後は政治とは一定の距離を置き、日宋貿易および瀬戸内海交易に積極的に取り組みます。

なお、この頃の平清盛と後白河法皇との関係は極めて良好であり、後白河法皇が嘉応元年(1169年)から安元3年(1177年)まで毎年のように福原の山荘へ赴くなどしていました。

平家一門の隆盛

承安元年(1171年)、平清盛の娘の徳子(建礼門院)が高倉天皇の中宮となり、平家一門が政権中枢にさらに近づいていきます。

この後、平清盛に連なる伊勢平氏一族のみならず、建春門院滋子に連なる堂上平氏一族(高棟流)までもが出世を重ねていきます。

この結果、伊勢平氏及び堂上平氏一族から、10数名の公卿・殿上人30数名を輩出するに至り、建春門院滋子の異母兄である平時忠が「平家一門にあらざれば人非人たるべし」と述べる程の栄達に至りました(平家物語)。

後白河法皇による比叡山攻撃命令

以上のとおり、後白河法皇と平清盛には、いくつも意見の相違がありながらも平清盛の継室(二位尼時子)の姉妹であった建春門院滋子という緩衝材によって良好な関係が続いていました。

ところが、安元2年(1176年)、後白河法皇と平清盛の間をとりもっていた建春門院滋子が死去したことから、それまで隠されていた意見の相違が顕在化するようになり、両者の関係が次第に悪化していきます。

ここで、後白河法皇が、成人して自らの意思に基づく政治関与を強めていった高倉天皇を廃して幼い天皇を立てることで後白河院政を続けようとして、自らの子である道法法親王と承仁法親王を高倉天皇の養子としてしまいます。

もっとも、高倉天皇を通じて朝廷と人的関係を持っていた平清盛としては、高倉天皇を廃されるわけにはいかず、到底受け入れることのできない出来事でした。

次第に悪化していく関係性をさらに複雑にする事態が発生します。

ここに比叡山延暦寺が絡んできたのです。

当時、藤原師高が加賀守を努め、その弟である藤原師経が目代として加賀国に赴任していたのですが、藤原師経が白山末寺といさかいを起こして同寺を焼き討ちにしてしまいました。

このことに怒った白山末寺は、比叡山延暦寺に事態を説明します。

この話を聞いた比叡山延暦寺は、直ちに藤原師高・藤原師経の父である院近臣の西光に抗議し、そこから朝廷と比叡山との紛争に発展しました(白山事件)。

比叡山延暦寺が強訴のために京に繰り出して来たため、後白河法皇は、平重盛と平宗盛(平清盛は、既に隠居して福原にいたため)にこれを追い返すよう命じます。

ところが、延暦寺僧兵の強訴に対応していた平重盛の兵が神輿を射るという失態を犯したため、これを理由として強気に出た延暦寺側に押し切られ、事態が延暦寺側有利に進展し、藤原師高は配流・藤原師経は禁獄という後白河法皇方の敗北に終わってしまいます。

息子を処断された藤原師高・藤原師経の父である西光は、延暦寺を恨んで強訴を進めた天台座主・明雲を処罰すべきであると訴え、後白河法皇がこれに応じて明雲を解任して所領を没収し、伊豆に流すという暴挙にでます。

この後白河法皇の処分に激怒した延暦寺大衆は、明雲の身柄を奪回して後白河法皇への敵対姿勢を見せたため、延暦寺と後白河法皇との紛争が再燃します。

怒った後白河法皇は、ついに、平清盛を含めた武士達に比叡山に攻め入るよう命じます。

後白河法皇から命令された平清盛でしたが、平安京の鬼門を守る天台宗総本山への攻撃に対する仏罰恐れたこと、天台座主・明雲が自らの出家の際の戒師となるなど親しい関係にあったことなどから、比叡山延暦寺攻撃には消極的でした。

もっとも、平清盛としても後白河法皇の命を無視することはできなかったため、嫌々ながらも比叡山延暦寺攻撃の準備を進めます。

鹿ヶ谷の陰謀(1177年6月)

もっとも、ここで平清盛が、比叡山攻撃を中断できる事態が起こります。

延暦寺攻撃が直前に迫った安元3年(1177年)6月1日夜半、北面武士であった多田源氏の多田行綱が、平清盛の西八条邸を訪れて鹿ヶ谷において成親・西光・俊寛ら院近臣が集まり平家打倒の謀議をしていたと密告したのです。

謀議の話を聞いた平清盛は、比叡山攻撃を取りやめ、まずは西光を捕らえて拷問し、謀議の全容を自供させます。

そして、西光が自供した内容を下に関係者を次々に拘束して斬罪や流罪などに処断していきました(鹿ケ谷の陰謀)。

なお、鹿ヶ谷の陰謀は、余りにも都合の良い時期に発生したものであるため、実際にあった事件ではなく、比叡山攻撃を避けるための平清盛によるでっちあげであるとの説も有力です。

いずれにせよ、鹿ヶ谷の陰謀による処断の結果、平清盛は延暦寺との望まぬ軍事衝突を回避することができた一方で、後白河法皇は多くの近臣を失い、政治発言権を著しく低下させてしまいました。

平重盛と平宗盛の後継者争い

また、後白河法皇の権力低下と、鹿ヶ谷の陰謀により院近臣であった藤原成親の失脚により、義兄である藤原成親の引き立てにより後白河法皇に近い位置にいた平重盛の平家後継者の地位が怪しくなります。

また、平重盛が平清盛最初の正妻であった高階基章娘の子であり、後妻である時子の子でなかったこともこれに拍車をかけました。

この結果、前妻の子である平重盛派閥と、後妻の子である平宗盛派閥とが出来上がってしまい、平家内部で動揺が生じます。

言仁親王誕生(1178年11月12日)

その後、後白河法皇との関係を見直すこととした平清盛は、高倉天皇との関係を強化して後白河院政からの独立を志向させます。

そして、治承2年(1178年)11月12日、高倉天皇の中宮であった平清盛の娘・徳子が、高倉天皇の皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を出産します。

この結果、言仁親王を即位させてしまえば今上天皇=言仁親王、治天の君=高倉天皇として、これらを操って政権を平家で独占できる可能性が出てきました。

そこで、平清盛は、同年12月15日、生後まもない言仁親王を立太子させ、後白河法皇排除の下準備を始めます。

後白河法皇の抵抗

この平清盛による後白河法皇追い落とし策に対し、後白河法皇も対抗します。

治承3年(1179年)7月23日に平清盛の娘である盛子(摂政・近衛基実の正室)が、また同年7月29日に平清盛の嫡男である平重盛が相次いで死去すると、後白河法皇は、関白・藤原基房と謀って、平清盛に無断で平重盛の知行国であった越前国と、盛子が相続し高倉天皇に相伝することに決まっていた摂関家荘園を没収してしまいました。

また、後白河法皇は、平重盛が京で死去した上に平清盛が福原にいるため、京に平家一門の有力者が不在となっていた機会を利用し、平家と関係の薄い貴族を昇進させることにより朝廷内における平家の影響力を薄めていこうと画策します。

ところが、これらの後白河法皇の一連の反平家政策に平清盛が激高します。

後白河院政停止(1179年11月)

平重盛は、治承3年(1179年) 11月14日、1万人もの兵を率いて挙兵し、福原を出発して軍を東進させて京に向かって進軍していきます。

その後、京に入った平清盛は、後白河法皇を拘束して鳥羽殿に幽閉して朝廷を制圧し、反平家の立場をとっていた藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を解官してしまいます。

この平清盛の軍事クーデターによって拘束された後白河法皇は、院宣を出して政治を行うことができなくなり、後白河院政が完全に停止されるに至りました。

こうして一線を超えてしまった平家を止めることはできません。

軍事クーデターにより平家軍事政権樹立

武力による国内支配

後白河院政を停止させた上で、反平家の立場をとっていた高官達を次々と解任した平清盛は、それに代わって平家一族や親平家貴族を登用していきます。

そして、日本全国の知行国の入れ替え作業を行い、平家一門に、西国のみならず東国にまで及ぶ知行国25国を任せ、また29国の国守に任じるなどして中央と地方の双方を平家軍事的な支配体制を確立させました。

また、このときまでに獲得した平家荘園は500余箇所に上ったと言われているのですが、これほどの膨大な荘園群を平家一門のみで維持・管理できるはずがなく、在地武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣して知行国においては国守護人・荘園においては地頭と呼ばれる職に任命したりして現地支配に当たらせました(なお、このときに平清盛が置いた国守護人・地頭は、鎌倉時代の守護・地頭の原型と考えられています。)。

この平家による支配構造は、鎌倉幕府による御家人制度ほど確立されたものではなかったのですが、それまでの貴族政権にはなかった武力を通じた支配ネットワークの構築という画期的な

ものであり、そのことから平家武家政権の発現であると評価されています。

平家傀儡の高倉院政開始(1180年2月)

以上のとおり、日本国内(地方)の武力支配を概ね完成させた平清盛は、総仕上げにかかります。

本命である朝廷(中央)の支配の獲得です。

平清盛は、治承4年(1180年)2月、高倉天皇から言仁親王に譲位させて安徳天皇として即位させます。

安徳天皇は幼少であるためにお飾りに過ぎず、院政を敷くこととなった高倉上皇は平家の言いなりですので、この譲位によって平家傀儡政権が完成するに至りました。

また、高倉天皇から安徳天皇への譲位は、平家が、皇位継承に直接関与できる力を持つことを意味しており、平家政権が単なる軍事的・警察的な側面で朝廷に奉仕するという軍事貴族の枠を超え名実共に武家政権を確立させたことを世に知らしめるものとなったのです。

平家政権の終焉

平家政権の脆弱性

以上の経過を経て成立した平家政権でしたが、実際は、脆弱な基盤の上に立つ危うい政権でもありました。

まず、平家政権は、高倉院政に正当性の根拠を求めていたのですが、高倉院政自体が平家の軍事力により支えられていたためにその正統性に疑問があったためです。

また、クーデターによる後白河法皇の幽閉や、その後の平家独裁政治により多くの反対勢力を生み出していました。

さらには、新たに多くの知行国を日本各地に獲得したものの、統治機構が整っていなかったために国司と在地武士の対立が頻発するなどしていたことも問題でした。

そのため、平家政権とは、クーデターにより成立した軍事政権であるところ、様々な場所で発生する反乱分子を、平清盛のカリスマと軍事力でつぶして回ることでようやく維持されていた危うい政権に過ぎませんでした。

寺社勢力の反発

さらに悪いことに、平清盛は、寺社勢力までも敵に回してしまいます。

前記のとおり、治承4年(1180年)2月、高倉天皇が安徳天皇に譲位したのですが、このときに平清盛が高倉上皇を伴って安芸国厳島への社参を行いました。

もっとも、この行為は代替わりの社参は石清水八幡宮・賀茂神社にて行うとする従来の慣例に反するものであり、園城寺・興福寺などの大寺院が一斉に反発します。

また、平家が、比叡山延暦寺と親密な関係にあったこともその要因となりました。

以仁王の挙兵(1180年5月)

この宗教勢力の反平家の動きを見た後白河法皇の第三皇子の以仁王が、反平家のために動き出します。

以仁王は、30歳近い壮年でなお親王宣下を受けられずにいたのですが、莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王(後白河法皇の異母妹)の猶子となって八条院領を受け継ぐことにのり皇位へ望みをつないでいました。

もっとも、平清盛の孫である安徳天皇が即位したことにより、以仁王の望みが断たれます。

そればかりか以仁王の経済基盤である荘園の一部も没収されました。

これにより、以仁王に反平家の憎悪が渦巻きます。

ここに、平家方の武将であった摂津源氏棟梁の源頼政が加わることで事態が動き始めます。

そして、以仁王は、治承4年(1180年)4月に全国各地の有力者に対して平家追討の令旨を発し、源頼政と結んで挙兵します。

もっとも、平清盛は、これに迅速に対応し、以仁王と頼政をすぐに敗死へ追い込みます。

福原京遷都(1180年6月)

以仁王の反乱はすぐに鎮めたのですが、興福寺や園城寺などの有力寺院の不穏な動きはとどまりません。

そこで、平清盛は、地勢的に不利な京都からの遷都を目指して福原行幸を決行したのですが(福原京遷都)、これに対して高倉上皇が平安京を放棄しない意向を示すなど、この遷都計画は貴族らに極めて不評であり、朝廷内部に清盛への反感が募っていきました。

これに対し、平家は、平家政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する興福寺・東大寺などの大寺院を討伐するために軍を派遣し、治承4年12月28日(1181年1月15日)、これらを焼き討ちにしてしまいます(南都焼き討ち)。

治承・寿永の乱の始まり

ところが、現地勢力を軽視して平家の家人や係累を優先したことへの反発から、以仁王の令旨を受けた信濃国の木曾義仲・甲斐国の武田信義・東国の源頼朝らが反平家の兵を挙げ、さらには多田源氏・美濃源氏・近江源氏・石川源氏・九州の菊池氏・紀伊熊野の湛増・土佐国の源希義らが相次いで反平家の行動を始めます。

そして、治承4年(1180年)10月20日、平維盛軍が武田信義・源頼朝連合軍に富士川の戦いで敗れたことにより一気に潮目が変わります。

平清盛は、失われつつある求心力をつなぎとめるため、同年11月には福原遷都を取りやめて都を京に戻し、反抗的態度を示す園城寺を焼き討ちにするなどして事態の沈静化を図ります。

その後、治承5年(1181年)1月に高倉上皇が崩御して後白河院政が再開されることとなったものの、平清盛が平宗盛を畿内周辺を直接管領する惣官に任じて軍事的支配権維持を目指します。

平清盛死去(1181年閏2月)

ところが、この平家復興の動きは、治承5年(1181年)閏2月4日、熱病により平清盛が死去したことにより中座します。

平家政権は、平清盛という一個人のカリスマと、後白河法皇という権威に依拠して成立した政権であったため、これらが失われたことによりその勢力基盤が失われてしまったのです。

平清盛の死後、跡を継いだ平宗盛により後白河法皇との融和路線や、各地の叛乱鎮圧策がとられたのですが、ことごとく失敗に終わります。

そして、この後、平家の落日が始まるのですが、この後の話はあまりにも長くなりますので、以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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