【石山本願寺(大坂本願寺)】戦国時代に一向宗本拠地となった城郭寺院

石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代に戦国大名に匹敵する勢力を誇った浄土真宗本願寺派が、摂津国東成郡生玉荘大坂(現在の大坂城所在地)に本山として構えた寺院です。

その前の拠点であった山科本願寺が法華一揆・六角連合軍に焼き払われて信仰の中心を失ったことへの反省から、本山の本願寺を中心として、堀と土塁で取り囲まれた寺内町で防衛し、さらにその外側に51もの支城を張り巡らせて防衛する城構え構造(城郭寺院)で成立しました。

その防衛力は強く、織田信長が10年の歳月をかけても攻め落とせなかった城としても有名です。

なお、当時は大坂本願寺と呼ばれており、江戸時代に入るまでに石山本願寺と呼ばれていた事実は確認できていないのですが、本稿では便宜上石山本願寺の名称で統一します。 “【石山本願寺(大坂本願寺)】戦国時代に一向宗本拠地となった城郭寺院” の続きを読む

【大宰府】軍事拠点として誕生し統治機関へと変化した西の都の歴史

大宰府(だざいふ)は、律令制度確立期に西海道(現在の九州地方)を統治するために筑前の国に設置された統治機関です。

大王の勅を司ることから、和名では「おほ みこともち の つかさ」と言われます。

政治・行政機関として機能した大宰府は、元々は中国・朝鮮に君臨していた王朝から古代日本を守るための軍事施設として成立した軍事都市であり、中国・朝鮮との関係が改善して侵略される危険が薄れたことから、次第にその役割を政治都市に変えていったという歴史的経緯があります。

本稿では、軍事都市兼政治都市として反映した西の都・大宰府の歴史について見ていきたいと思います。 “【大宰府】軍事拠点として誕生し統治機関へと変化した西の都の歴史” の続きを読む

【奈良奉行所】大和国に築かれた江戸幕府の繋ぎの城

奈良奉行所は、江戸幕府が地方の主要都市に設置した遠国奉行の1つであり、奈良廻り八カ村の行政・訴訟、大和国内の寺社支配を職掌とする役所です。奈良町御奉行・南都町奉行・南京奉行とも呼ばれます。

慶長18年(1613年)に中坊秀政が奈良奉行に任命されたのをはじめとして江戸末期まで42代に及ぶ奉行が任命されました。

有事の際には、上方から江戸までの繋ぎの城の機能を持っていたため、その他の地域の奉行所と比べても異常なほどの巨大な要塞でした。 “【奈良奉行所】大和国に築かれた江戸幕府の繋ぎの城” の続きを読む

【現存12三重櫓】江戸時代から残る8城12基の三重櫓について

これまでに日本国内に2万とも3万とも言われる城が築かれました。

そのうち、現在、城址としてその名残が残っているのは僅かであり、さらに一般人が見学して楽しめるのは数百城程度しかありません。

また、このうち、江戸時代以前に建てられた三重櫓が現存しているのは、僅か8城12基しかなくとても貴重です。

本稿では、この現存する貴重な12の三重櫓について簡単に紹介していきたいと思います。 “【現存12三重櫓】江戸時代から残る8城12基の三重櫓について” の続きを読む

【丸亀城(日本100名城78番)】石垣総高日本一の城

丸亀城(まるがめじょう)は、かつての讃岐国・現在の香川県丸亀市一番丁4番地乙にある平山城です。

高松城の支城として築城された後、瀬戸内へ島原の乱の影響が波及することを封じるために大改修がなされました。

そのため、丸亀藩6万石という小藩の政庁でありながら、4段に分けて積み上げられた総高日本一となる雛壇状の高い石垣を持つ壮大な城となっています。

また、江戸時代から残る現存十ニ天守の1つが残る歴史的価値が高い城なのですが、小藩ということもあって、実際の天守は天守を持たない・持てない城で天守の代用とされた最高格式の特別な櫓(三重櫓)であり、現存十二天守の中で最小のものとなっています。

以上の結果、現在の丸亀城は、壮大な石垣の上に、小さな天守がぽつんと残るアンバランスさが印象的な城となっています。 “【丸亀城(日本100名城78番)】石垣総高日本一の城” の続きを読む

【不破関】天武天皇により設けられた東山道防衛の拠点

不破関(ふわのせき)は、天智天皇の死後に皇位継承を巡って勃発した壬申の乱に勝利して即位した天武天皇により、天武天皇2年(673年)に現在の岐阜県不破郡関ケ原町に設けられた古代東山道の関所の1つです。

不破関が置かれた場所であったため、同地周辺は関ヶ原と呼ばれます。

当初は、東山道を監視することによって都(飛鳥浄御原宮)を防止する役割を担っていたのですが、次第に周囲の警察・軍事の機能を兼備するようになります。

また、律令制度の整備により、伊勢鈴鹿関(東海道)・越前愛発関(北陸道)と共に3関の1つに数えられ、関西(畿内)と関東(東国)とを分ける境目にもなっています。

もっとも、膨大な費用を要する三関の維持が困難となった朝廷は三関の廃止を決定し、延暦8年(789年)7月、不破関もまた廃止されるに至ります。 “【不破関】天武天皇により設けられた東山道防衛の拠点” の続きを読む

【岐阜城(日本100名城39番)】濃尾平野を牛耳る織田家3代の居城

岐阜城(ぎふじょう)は、現在の岐阜市金華山(かつての美濃国井之口山・稲葉山)を利用して築かれた戦国山城です。

築城当初は東国にあった鎌倉幕府による、西国の朝廷に対する抑えとして築かれた砦(井口砦)にすぎなかったのですが、戦国時代に美濃国を治めることとなった斎藤家によって大改修がなされて稲葉山城となりました。

その後、同城に拠点を移した織田信長が、大規模改修を行うと共に岐阜城に名を改めたことで有名です(なお、このとき城下町も井口から岐阜に改名しています。)。

急峻な山に築かれた城であったことから山頂部に十分な平坦を確保できず、城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は西麓の槻谷(けやきだに)に設けるという戦国期山城によく見られる二次元分離構造となっています。

織田信長が居城としたこともあって堅城と考えられがちな岐阜城ですが、急峻な山に築かれた城であるために平坦部が少なく籠ることのできる兵数が少ないこと、山自体が岩盤で構成されていることから井戸がなく水の確保が困難であったことなどからその防御力は高くなく、何度も落城している問題点の多い城でもありました。 “【岐阜城(日本100名城39番)】濃尾平野を牛耳る織田家3代の居城” の続きを読む

【大垣城(続日本100名城144番)】関ヶ原合戦の西軍本拠となるはずだった平城

大垣城(おおがきじょう)は、美濃国と尾張国との間に位置する現在の岐阜県大垣市郭町にあった戦国平城です。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。

立地の重要性から、美濃国斎藤家と尾張国織田家との間で激しい争奪戦が繰り広げられ、その後の関ヶ原の戦いの際には、合戦前日まで西軍の本拠地とされており、本戦で西軍が敗れた後は激しい攻城戦の舞台となった城でもあります(大垣城の戦い)。

最終的には内堀・中堀・外堀の三重の堀とその中に並郭式に本丸と二ノ丸を並べてその周囲を三ノ丸で囲い、更にその外周に外曲輪を配置した惣堀構造を持った堅城に仕上がっています。

もっとも、廃城後の宅地開発や戦災によって城域の大部分が失われ、現在では門や石垣跡(及び、後に再建された復元建築物)などがわずかに残されているのみとなっています。 “【大垣城(続日本100名城144番)】関ヶ原合戦の西軍本拠となるはずだった平城” の続きを読む

【八幡山城(続日本100名城157番)】天下人となるはずだった豊臣秀次の居城

八幡山城(はちまんやまじょう)は、本能寺の変の後の後継者を巡る争いに勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、天正10年(1585年)に織田家の居城としてのシンボル的存在であった安土城を廃城して、その代わりとして近江国の国城として築かれた山城です。

徳川家康との間で小牧・長久手の戦いの講和を模索している時期の築城であったため、まだまだ防衛面での機能が重要視されており、八幡山という急峻な山が選地され、戦国期によく見られる城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は2本の尾根に挟まれた谷筋にある場所に設けるという二次元分離構造とされました。

城下には、八幡堀と呼ばれる全長6kmにも及ぶ運河が巡らされ、回船業を営むことができる親浦の一つである八幡浦と共に発展したのですが、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が謀叛の疑いをかけられて切腹させられると、その名残を消すかのようにかつての居城であった八幡山城までもが廃城とされました。 “【八幡山城(続日本100名城157番)】天下人となるはずだった豊臣秀次の居城” の続きを読む

【小山城】武田家の遠江国侵攻の橋頭保となった平山城

小山城(こやまじょう)は、武田信玄が、徳川家康との密約(大井川より西は徳川領・東は武田領とする約束)を破って大井川西側に攻め込み、そこから遠江国侵攻の橋頭保とする目的で遠江国榛原郡に築かれた平山城です。

密約を破って遠江国へ侵攻する武田家と、それに抗する徳川家との争奪戦の舞台となった城です。

同じ争奪戦が繰り広げられた近くの高天神城や諏訪原城などと比べるとやや知名度が劣るのですが、これらの城とは異なり徳川軍の攻撃では陥落しなかったという実績を残す堅固な城ですので、その詳細について本稿で紹介したいと思います。 “【小山城】武田家の遠江国侵攻の橋頭保となった平山城” の続きを読む