【伝足利尊氏像の像主は誰?】

本稿のアイキャッチ画像としている騎馬武者像を見たことがありますか。

髻の解けた髪が乱れた上に残ったわずかな矢のうちの一本は折れているにもかかわらず、口を力強く閉じ前方を鋭く見据えて、大太刀を抜き身で担ぎながら黒毛馬に乗って駆ける張り詰めた緊張感を漂わせる武者の姿が描かれています。

かつての歴史教科書などでは、この躍動感にあふれた武者は、室町幕府初代将軍である足利尊氏であるとされていました。

筆者も学生時代にそのように習いました。

もっとも、この騎馬武者像が足利尊氏像であるとする見解に対しては、有力な反対説が存在しています。

本稿では、必ずしも明らかとなっていない騎馬武者像の像主についての学説を紹介したいと思います。 “【伝足利尊氏像の像主は誰?】” の続きを読む

【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇

平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の後を継いだ第51代天皇です。

妃となった藤原帯子ではなく、その母親である藤原薬子を寵愛し醜聞を流したことでも有名です。

しかも、藤原薬子への執着の結果、これに唆されて平安京から平城京への遷都を試みるなどして朝廷を二分させる大事件を引き起こしています(薬子の変)。

最終的には、嵯峨天皇によって鎮圧されたために事なきを得たのですが、平安時代に南北朝の動乱が起きていてもおかしくなかった危険な事件でした。

本稿では、藤原薬子に溺れて朝廷を危機に陥れた平城天皇の生涯について簡単に見ていきたいと思います。 “【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇” の続きを読む

東海道五十三次概略

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が慶長6年(1601年)に全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道を整備し始めた際、最重要視した東海道上に順次設けた53の宿場町です。

しかし、東海道の宿場町数は53ではなく、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした江戸幕府が、元和5年(1619年)に大坂を直轄地とし、その経済力を取り込むために京・大坂間を結んでいた京街道を東海道に直結させ、京街道を東海道とした取り込んだ上、新たな東海道(旧京街道)沿いの伏見、淀、枚方、守口に宿場町を整備したため、東海道には57の宿場町が造られています。

そのため、東海道五十三次に、京から大坂までの4宿(伏見、淀、枚方、守口)を加え「東海道五十七次」と呼ぶ場合もあります。

本稿では、この東海道上に設けられた宿場町について、浮世絵なども取り上げつつ簡単に紹介していきたいと思います。 “東海道五十三次概略” の続きを読む

【北近江・浅井氏】下克上で戦国大名に成り上った北近江の雄

北近江の浅井氏は、元々守護・京極氏の被官だったのですが、下克上で主家を越え南近江守護の六角氏と戦って戦国大名に成り上がった大名家です。

一時は、織田信長と強い同盟関係にあって隆盛を誇りながら、勢いを強めていく織田信長よりも恩ある越前朝倉氏を選んで滅んだ悲劇の家でもあります。

本稿では、北近江において成り上がった戦国大名浅井氏の成立と、同じ成り上り者の織田信長に滅ぼされるまでの浅井氏の栄枯盛衰について、滅亡の原因となった元亀の争乱を中心に見ていきます。 “【北近江・浅井氏】下克上で戦国大名に成り上った北近江の雄” の続きを読む

【越前朝倉氏】11代(戦国5代)続いた名門家の栄枯盛衰

越前朝倉氏は、但馬国の朝倉谷に生まれた後に越前へ入国した朝倉広景を祖とする国人衆から始まり、以後、朝倉義景まで11代にわたって続いた大名家です。

名門のイメージが強い越前朝倉氏ですが、実際には応仁の乱を契機として下克上で泥臭く成り上がった一族であり、守護に任じられたこともありません。

本稿では、同じ成り上り者の織田信長に滅ぼされるまでの越前朝倉氏の栄枯盛衰について見ていきます。 “【越前朝倉氏】11代(戦国5代)続いた名門家の栄枯盛衰” の続きを読む

【赤備え】戦国最強の精鋭部隊

戦国時代、最強の精鋭部隊の代名詞であった赤備え。

赤備えは、軍団の編成・装飾の一種で、兵の頭のてっぺんから足のつま先まで(具足、兜、鎧、槍刀、手甲脚絆などから旗指物、陣羽織にいたるまで)の全てを朱色で統一した騎兵部隊です。

赤備え部隊は戦場で目立ちますので、当然的に狙われやすくなりますので、過酷や戦場を生き抜いてきた最精鋭部隊と認められていました。

以下、赤備え部隊として有名な四将についてその成り立ちから順に概略を見て見ましょう。 “【赤備え】戦国最強の精鋭部隊” の続きを読む

平安時代と平安京の概略

「鳴くよ鶯平安京」。有名すぎる語呂合わせの年の平安遷都により平安時代が始まりました。

日本史では比較的マイナー分野で苦手としている人も多いのではないでしょうか。

平安時代は、天皇親政のために奈良仏教から逃れるための京都遷都に至る経緯と、天皇親政の時代、天皇の権力が貴族に奪われた時代、貴族の権力が上皇に奪われた時代という段階を踏まえれば理解しやすいと思います。

本稿では、この順に平安時代の概略を説明します。 “平安時代と平安京の概略” の続きを読む

【戦国時代の足軽】合戦の主戦力となった下級兵士

戦国時代における集団戦闘の主戦力と言えば足軽です。

足軽と聞くと古くから合戦の主力となっていたようなイメージを持ちがちなのですが、実は違います。

足軽は、元々武士同士の一騎打ちの場であった合戦の常識を根本からひっくり返した存在なのです。

某有名アニメででいうところのザクやジムのようなイメージであり、合戦を個人の武の勝負から物量戦に変化させるに至った存在です。すなわち、同アニメの某キャラクターが言った「戦争は数だよ」という名言を体現した存在です。

本稿では、戦の概念を一変させた足軽について、主にその成り立ちから戦国期までの役割について簡単に説明したいと思います。 “【戦国時代の足軽】合戦の主戦力となった下級兵士” の続きを読む

【茶室の入り口・躙口が狭い歴史的理由】千利休の侘び茶の世界観

茶室の入り口がなぜあんなに小さいのかと疑問に思ったことはありませんか。

私は、初めて見たとき、無知から、「入口ちっちゃ、入りにくい。」と単純に思いました。

茶室の入り口は、なぜこの様な作りになっているのでしょうか。

その理由は、それまでの茶の湯の世界を一変させ、現在に繋がる茶の道を作りあげた千利休が理想とした侘び茶の世界観にあります。

以下、茶室の入り口が狭い理由について、千利休が生涯をかけて大成させた侘び茶の世界観を紐解きながら見て行きます。 “【茶室の入り口・躙口が狭い歴史的理由】千利休の侘び茶の世界観” の続きを読む

【関東の戦国史】鎌倉公方→関東管領→後北条氏の流れについて

学校などで習う戦国時代の歴史は、中部地方より西の話がほとんどですので、関東地方の戦国史を詳しく勉強する機会は少ないのではないでしょうか。

しかも、関東の戦国史では、何とか公方・足利何とか・関東管領上杉何とかやら、似たような名前ばっかり出てくるため、混乱しがちです。

この一見ややこしい関東の戦国史ですが、以下の4期に分けて考えると理解が進みます。

第1期が室町幕府と鎌倉府の対立(1349年~1441年ころ)、第2期が鎌倉府と関東管領の対立(1447年ころ〜1467年ころ)、第3期が関東管領家の内乱(1467年ころ~1493年ころ)、第4期が北条家の台頭(1493年ころ~1590年)です。

以下、これら4期に分けて関東戦国史について簡単に説明していきたいと思います。
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