【倭と呼ばれていた頃の日本】中国歴史書から見る古代日本の歴史

倭とは、中国に朝貢していた時期である古代日本の呼び方です。

奈良時代に入るまでの日本には記録を残す文化がなく、現存する最古の書物である古事記ですら和銅5年(712年)に完成したものですので「倭」の時代を日本の同時代資料から確認することはできません。

そのため、主に中国に残された歴史書により、「倭」と呼ばれた古代日本について振り返っていきたいと思います。 “【倭と呼ばれていた頃の日本】中国歴史書から見る古代日本の歴史” の続きを読む

【日本の貨幣の歴史】

貨幣制度とは、硬「貨」+紙「幣」という貨幣によって商品・サービスの交換を媒介する経済制度です。

この制度の下では、中央国家などが、貨幣(通貨)の発行方法・種類・単位・価値などを決め、それを基に商品流通が行われることが一般的となります。

もっとも、貨幣自体にはその額面が表す価値があるわけではありませんのでその流通には発行者(統治機関)に対する信頼が絶対条件となるのですが、現在に至るまで統治機関の変遷がありその信頼にも大きな波がありましたので、貨幣制度についても紆余曲折あるという歴史的経過を経ています。

そこで、以下、貨幣制度の導入から、現在の管理通貨制度確立に至るまでの貨幣の歴史について見ていきたいと思います。 “【日本の貨幣の歴史】” の続きを読む

江戸時代以降の日本で宗教戦争が起きなくなった理由とは

現在の日本では、宗教との関わりが希薄と言われており、確固たる信仰を持っている人はそう多くはありません。

そのため、その多くが仏教徒とされる日本人も、冠婚葬祭などでお坊さんに接するくらいしか宗教に関わり合いがなく、またお坊さんの姿から宗教に平和的イメージを持つ人が多いのではないでしょうか。

このイメージは、江戸時代以降の僧が丸腰であり、軍事力・武力をもって物事を解決しようとしていないために宗教が平和的な存在であるかのように見えているのですが、歴史的に見ると全くそのようなことはありません。

むしろ、歴史的に見ると、日本の宗教においては何度も宗教戦争が起こり、これまでに多くの血が流れているのです。

現在の平和的イメージは、宗教団体を無力化させた戦国武将と、再びそのような事態に陥らないようにするために考えられた対応策の結果なのです。

本稿では、これらの宗教戦争の歴史と、江戸時代以降にこれらが封じられるに至った経過について見ていきたいと思います。 “江戸時代以降の日本で宗教戦争が起きなくなった理由とは” の続きを読む

【伝足利尊氏像の像主は誰?】

本稿のアイキャッチ画像としている騎馬武者像を見たことがありますか。

髻の解けた髪が乱れた上に残ったわずかな矢のうちの一本は折れているにもかかわらず、口を力強く閉じ前方を鋭く見据えて、大太刀を抜き身で担ぎながら黒毛馬に乗って駆ける張り詰めた緊張感を漂わせる武者の姿が描かれています。

かつての歴史教科書などでは、この躍動感にあふれた武者は、室町幕府初代将軍である足利尊氏であるとされていました。

筆者も学生時代にそのように習いました。

もっとも、この騎馬武者像が足利尊氏像であるとする見解に対しては、有力な反対説が存在しています。

本稿では、必ずしも明らかとなっていない騎馬武者像の像主についての学説を紹介したいと思います。 “【伝足利尊氏像の像主は誰?】” の続きを読む

【北近江・浅井氏】下克上で戦国大名に成り上った北近江の雄

北近江の浅井氏は、元々守護・京極氏の被官だったのですが、下克上で主家を越え南近江守護の六角氏と戦って戦国大名に成り上がった大名家です。

一時は、織田信長と強い同盟関係にあって隆盛を誇りながら、勢いを強めていく織田信長よりも恩ある越前朝倉氏を選んで滅んだ悲劇の家でもあります。

本稿では、北近江において成り上がった戦国大名浅井氏の成立と、同じ成り上り者の織田信長に滅ぼされるまでの浅井氏の栄枯盛衰について、滅亡の原因となった元亀の争乱を中心に見ていきます。 “【北近江・浅井氏】下克上で戦国大名に成り上った北近江の雄” の続きを読む

【越前朝倉氏】11代(戦国5代)続いた名門家の栄枯盛衰

越前朝倉氏は、但馬国の朝倉谷に生まれた後に越前へ入国した朝倉広景を祖とする国人衆から始まり、以後、朝倉義景まで11代にわたって続いた大名家です。

名門のイメージが強い越前朝倉氏ですが、実際には応仁の乱を契機として下克上で泥臭く成り上がった一族であり、守護に任じられたこともありません。

本稿では、同じ成り上り者の織田信長に滅ぼされるまでの越前朝倉氏の栄枯盛衰について見ていきます。 “【越前朝倉氏】11代(戦国5代)続いた名門家の栄枯盛衰” の続きを読む

【赤備え】戦国最強の精鋭部隊

戦国時代、最強の精鋭部隊の代名詞であった赤備え。

赤備えは、軍団の編成・装飾の一種で、兵の頭のてっぺんから足のつま先まで(具足、兜、鎧、槍刀、手甲脚絆などから旗指物、陣羽織にいたるまで)の全てを朱色で統一した騎兵部隊です。

赤備え部隊は戦場で目立ちますので、当然的に狙われやすくなりますので、過酷や戦場を生き抜いてきた最精鋭部隊と認められていました。

以下、赤備え部隊として有名な四将についてその成り立ちから順に概略を見て見ましょう。 “【赤備え】戦国最強の精鋭部隊” の続きを読む

平安時代と平安京の概略

「鳴くよ鶯平安京」。有名すぎる語呂合わせの年の平安遷都により平安時代が始まりました。

日本史では比較的マイナー分野で苦手としている人も多いのではないでしょうか。

平安時代は、天皇親政のために奈良仏教から逃れるための京都遷都に至る経緯と、天皇親政の時代、天皇の権力が貴族に奪われた時代、貴族の権力が上皇に奪われた時代という段階を踏まえれば理解しやすいと思います。

本稿では、この順に平安時代の概略を説明します。 “平安時代と平安京の概略” の続きを読む

【戦国時代の足軽】合戦の主戦力となった下級兵士

戦国時代における集団戦闘の主戦力と言えば足軽です。

足軽と聞くと古くから合戦の主力となっていたようなイメージを持ちがちなのですが、実は違います。

足軽は、元々武士同士の一騎打ちの場であった合戦の常識を根本からひっくり返した存在なのです。

某有名アニメででいうところのザクやジムのようなイメージであり、合戦を個人の武の勝負から物量戦に変化させるに至った存在です。すなわち、同アニメの某キャラクターが言った「戦争は数だよ」という名言を体現した存在です。

本稿では、戦の概念を一変させた足軽について、主にその成り立ちから戦国期までの役割について簡単に説明したいと思います。 “【戦国時代の足軽】合戦の主戦力となった下級兵士” の続きを読む

【茶室の入り口・躙口が狭い歴史的理由】千利休の侘び茶の世界観

茶室の入り口がなぜあんなに小さいのかと疑問に思ったことはありませんか。

私は、初めて見たとき、無知から、「入口ちっちゃ、入りにくい。」と単純に思いました。

茶室の入り口は、なぜこの様な作りになっているのでしょうか。

その理由は、それまでの茶の湯の世界を一変させ、現在に繋がる茶の道を作りあげた千利休が理想とした侘び茶の世界観にあります。

以下、茶室の入り口が狭い理由について、千利休が生涯をかけて大成させた侘び茶の世界観を紐解きながら見て行きます。 “【茶室の入り口・躙口が狭い歴史的理由】千利休の侘び茶の世界観” の続きを読む