【後三年の役】清原氏が滅亡し奥州藤原氏が登場する契機となった戦い

後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期に陸奥・出羽(東北地方)を治めていた清原氏の家督を巡って勃発した一連の壮大な内紛(兄弟喧嘩)です。後三年合戦ともいいます。

前九年の役の後に奥羽一帯を支配した清原氏が滅亡し奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いでもあり、源義家が源氏の名声を高めて後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となった合戦ともいわれています(余談ですが、永保3年/1083年から寛治元年/1087年にかけての4年間の戦役であったにもかかわらず、後「三年」という謎のネーミングがなされています。)。

本稿では、この後三年の役について、その発生に至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【後三年の役】清原氏が滅亡し奥州藤原氏が登場する契機となった戦い” の続きを読む

【前九年の役】陸奥国奥六郡を実効支配した安倍氏が滅亡した戦い

前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期に陸奥国・奥六郡の俘囚長であった安倍氏の反乱から始まった一連の戦いです。前九年合戦とも呼ばれます。

東北地方の一大勢力となった安倍氏が滅亡した大戦争であり、源氏の家名を高めた後三年の役の前哨戦となった戦いでもあります。

本稿では、そんな前九年の役について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【前九年の役】陸奥国奥六郡を実効支配した安倍氏が滅亡した戦い” の続きを読む

【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦

久米田の戦い(くめだのたたかい)は、十河一存が死亡したことを好機と見た畠山高政が岸和田城を包囲するために出陣し、これに対応するために派遣された三好実休軍との間で、永禄5年(1562年)3月5日に発生した合戦です。

戦いは、和泉国八木郷の久米田寺周辺にある貝吹山古墳(現大阪府岸和田市)に布陣した三好実休軍に対して、畠山高政軍が攻撃をしかけたことによって始まり、畠山高政軍の奇襲により三好実休が討ち取られて三好軍が敗北するという形で終わっています。

三好政権を支える三好実休が死亡したことにより、三好長慶政権が凋落するきっかけとなった原因の一つともいわれる合戦でもあります。

本稿では、そんな三好政権の転換点となった久米田の戦いについて、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦” の続きを読む

【島津の退き口】捨て奸を駆使した前進敵中突破による撤退戦

島津の退き口(しまずののきぐち)は、慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ケ原合戦で、島津義弘が味方した西軍が敗れ総崩れとなる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊が、突然行った敵中突破による前進退却です。

戦場からの退却は、通常、敵の最も少ない場所を狙って行われるものなのですが、島津の退き口では、敵が最も多い徳川家康本陣に向かって突撃する形で始まるという極めて異質な作戦でした。

しかも、多大な犠牲を払いながらも大将の島津義弘を薩摩に帰国させることに成功したこと、その途中で「捨て奸(すてがまり)」や「座禅陣」と呼ばれる足止め隊の活躍があったことなどから、現在にまで語り継がれる退却劇となっています。

本稿では、世に名高い「島津の退き口」について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【島津の退き口】捨て奸を駆使した前進敵中突破による撤退戦” の続きを読む

【石垣原の戦い】黒田官兵衛が天下取りの野望を見せた九州の関ヶ原

石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日、豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で勃発した黒田如水(黒田官兵衛)軍と大友義統(吉統)軍の合戦です。

同年9月15日に美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で行われた関ヶ原の戦いの前哨戦として九州で勃発したため、「九州の関ヶ原」とも呼ばれます。

本稿では、黒田家大躍進のきっかけとなった石垣原の戦いについて、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【石垣原の戦い】黒田官兵衛が天下取りの野望を見せた九州の関ヶ原” の続きを読む

【海ノ口城の戦い】300人の奇襲で城を乗っ取った武田信玄の初陣

海ノ口城の戦い(うんのくちじょうのたたかい・うみのくちじょうのたたかい)は、後に戦国最強とうたわれた武田信玄の初陣である奇襲戦です。

父・武田信虎が8000人の兵で36日間かけて落とせなかった城を、武田信玄が300人の兵をもって僅か一夜で攻略するという、武田信玄の軍才を余すところなく見せつけ戦いなのですが、実は甲陽軍鑑以外の当時の資料に記録がありません。

言うまでもなく甲陽軍鑑は、武田信玄を英雄化して盛に盛った記載がなされているため、資料としての信用性が高くないため、海ノ口城の戦いでの奇襲戦や、敵将・平賀玄信の存在は、架空のものであるとする説も有力です。

もっとも、話としては有名ですので、本稿では、伝えられている範囲において、武田信玄の初陣である海ノ口城について、その発生に至る経緯から説明したいと思います。 “【海ノ口城の戦い】300人の奇襲で城を乗っ取った武田信玄の初陣” の続きを読む

【衣笠城の戦い】三浦義明が壮絶な最期を遂げた攻城戦

衣笠城の戦い(きぬがさじょうのたたかい)は、治承4年(1180年)8月26日、源頼朝の挙兵に乗じて源氏方についた三浦党の本拠地・衣笠城を、平家方の秩父党が攻撃することにより起こった合戦です。

2日前に、三浦党による騙し討ちにより敗戦を喫した畠山重忠のリベンジ戦でもあります。

三浦党の本拠地が陥落し、総領が討ち死にするという壮絶な結末を迎えたこの戦いについて、その発生に至る経緯から説明したいと思います。 “【衣笠城の戦い】三浦義明が壮絶な最期を遂げた攻城戦” の続きを読む

【由比ヶ浜の戦い(小坪の戦い)】騙し討ちの形で敗れた畠山重忠の初陣

後に源頼朝の下で有力御家人となった和田義盛と畠山重忠ですが、源頼朝の挙兵当初は、和田義盛が源頼朝方に、畠山重忠が平家方についたため敵対関係となっています。

そればかりか、それぞれが率いる軍が鎌倉の由比ヶ浜で遭遇し、合戦に至っています。

この合戦は、後に由比ヶ浜の戦い(小坪の戦い)と呼ばれる畠山重忠の初陣だったのですが、騙し討ちの形となって畠山重忠が大敗するという結果に終わっています。

本稿では、この由比ヶ浜の戦いについて、その発生に至る経緯から説明したいと思います。 “【由比ヶ浜の戦い(小坪の戦い)】騙し討ちの形で敗れた畠山重忠の初陣” の続きを読む

【源平墨俣川の戦い】尾張・三河に進出した源行家が平家に大敗した合戦

墨俣川の戦いは、治承5年(1181年)4月ごろに現在の岐阜県羽島市小熊町と大垣市墨俣町の間を流れる長良川(当時は墨俣川と言っていました)近辺で起こった、源行家軍と平重衡軍との戦いです。

治承・寿永の乱の戦いの1つであり、富士川の戦いに敗れて勢いを失いつつあった平家が、源氏軍を打ち破り勢いを取り戻そうとするきっかけとなった戦いでもあります。 “【源平墨俣川の戦い】尾張・三河に進出した源行家が平家に大敗した合戦” の続きを読む

【倶利伽羅峠の戦い】平家の大軍を壊滅させた木曾義仲の奇襲戦

倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)は、寿永2年(1183年)5月11日、北陸地方で勢力を高めていた木曾義仲(源義仲)を討伐するために派遣された平維盛率いる平家軍と木曾義仲軍とが激突した戦いです。

倶利伽羅峠の戦いの直前は戦局が平家方有利に進んでいたのですが、倶利伽羅陶芸での木曾義仲による奇襲によって、それまでの戦局が一変するというターニングポイントとなりました。

本稿では、歴史の転換点となった倶利伽羅峠の戦いについて、合戦に至る経緯から説明していきます。 “【倶利伽羅峠の戦い】平家の大軍を壊滅させた木曾義仲の奇襲戦” の続きを読む