志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年(1570年)9月から12月に亘って行われた、比叡山延暦寺に立てこもった浅井長政・朝倉義景を攻めきれなかった織田信長が屈辱的な内容での和睦を結ぶに至ったという戦いです。
第1次信長包囲網成立の切っ掛けとなった戦いでもあります。
また、この戦いに際して浅井・朝倉連合軍に味方したことを理由として、その後に比叡山延暦寺焼き討ちに繋がったという重要な意味を持つ一戦でもあります。 “【志賀の陣】織田信長が朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺に惨敗した戦い” の続きを読む
日本の歴史をできる限りをわかりやすく
志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年(1570年)9月から12月に亘って行われた、比叡山延暦寺に立てこもった浅井長政・朝倉義景を攻めきれなかった織田信長が屈辱的な内容での和睦を結ぶに至ったという戦いです。
第1次信長包囲網成立の切っ掛けとなった戦いでもあります。
また、この戦いに際して浅井・朝倉連合軍に味方したことを理由として、その後に比叡山延暦寺焼き討ちに繋がったという重要な意味を持つ一戦でもあります。 “【志賀の陣】織田信長が朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺に惨敗した戦い” の続きを読む
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)は、越前国を治める朝倉義景を討伐するために越前国に侵攻していた織田・徳川連合軍が、北近江を治める浅井長政の裏切りによって窮地に陥り、命からがら越前国から京まで逃げ帰るという撤退戦です。金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)とも言われます。
織田信長の生涯の中で、最も死ぬ危険が高まった戦いでもあります。
敵地であった越前国からの撤退戦は困難を極めたのですが、後に天下人となった木下秀吉や、後に織田家筆頭となった明智光秀などの活躍により何とか作戦を成功させています。
なお、越前国攻略戦に徳川軍が参戦していたことは間違いないのですが、殿戦に徳川家康が加わっていたのかについては必ずしも明らかとなっておりません。
本稿では、この困難な撤退戦となった金ヶ崎の退き口について、その発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【金ヶ崎の退き口】織田信長の人生最大の危機となった撤退戦” の続きを読む
天下分け目の戦いとして有名な関ヶ原の戦いですが、実は前日までは戦いの場所として予定されていたのが大垣城であり、約1ヶ月前に西軍諸将が入城し、決戦までの間にその他の西軍諸将や東軍諸将もまた大垣城に向かっていました。
ところが、決戦前日に大垣城に入っていた西軍諸将が城を出て関ヶ原に布陣してしまったため、急遽決戦の場が関ヶ原に移ることとなります。
本稿では、関ヶ原の戦いに至る経緯、合戦当初の布陣に加え、なぜこのような布陣となったのかについて説明したいと思います。 “【関ヶ原の戦い・当初布陣】直前に決戦場所が変更された天下分け目の合戦” の続きを読む
八王子城の戦いは、豊臣秀吉の小田原征伐の一環として行われた戦いであり、上野国に入った豊臣北方軍(前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら)と、これを迎え討った八王子城兵との戦いです。
八王子城は、北条家の築城技術を結集して築かれた屈指の山城でしたが、城主であった北条氏照が城兵を率いて小田原城に入っていたために婦女子で防衛していたこともあり僅か1日で落城し、豊臣軍の勝利で終わっています。
小田原城の指揮を下げるために城兵が皆殺しにされ、現在の八王子城を心霊スポットとする伝説が生まれるほどの凄惨な殺戮劇が繰り広げられた戦いとしても有名です。
“【八王子城の戦い】小田原征伐の際の豊臣北方軍最大の激戦” の続きを読む
三方ヶ原の戦いは、徳川家康と武田信玄が密約により共同で今川領へ侵攻し、徳川家康が遠江国を、武田信玄が駿河国を切り取った後に勃発した徳川家康と武田信玄との直接対決です。
圧倒的な戦力差・若き徳川家康と老獪な武田信玄との経験値差などにより、戦術的に見ると戦い自体は武田軍の圧倒的勝利に終わります。
徳川家康にとっては、多くの兵のみならず、腹心をも多数失い、自らも死を強く意識したほどの大敗だったのです。
もっとも、戦略的に見ると、大敗したとはいえ所領の主要部分を死守し、武田軍をやり過ごした徳川家康は、必ずしも負け戦であったとは言い切れない結果ともなっています。
本稿では、徳川家康の戦術的大惨敗により人生最大の危機に陥ったともいえる三方ヶ原の戦いについて、その発生の契機から順に説明します。 “【三方ヶ原の戦い】若き徳川家康が武田信玄に大惨敗した合戦” の続きを読む
桶狭間の戦いの前哨戦として大高城兵糧入れを成功させた徳川家康(このときは松平元康と名乗っていましたが、便宜上本稿では、徳川家康の表記で統一します。)は、大高城で桶狭間の戦いの結果を聞かされます。
その後、大高城から決死の退き口を成功させて岡崎城に戻った徳川家康は、当初は今川家の将として織田軍と戦い、しばらくした後は、今川家から独立して一国衆として三河国平定を目指して今川軍と戦っていくようになります。
そして、岡崎城に入った後、西三河平定→三河一向一揆鎮圧→東三河・奥三河平定の順で三河国平定戦を戦い、苦労を重ねた後に約5年の歳月をかけて永禄8年(1565年)にようやく三河国平定を達成しています。
本稿では、この三河国平定戦のうち、もっとも初期の一連の戦いである西三河平定戦について、そこに至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【徳川家康の西三河平定戦】国衆調略と吉良義昭討伐戦” の続きを読む
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、織田家家臣団を吸収して勢力を拡大する羽柴秀吉と、これに対して織田家当主として争った織田信雄とこれに同調した徳川家康とが戦った一連の合戦です。
この戦いは、羽柴軍が、織田信雄の本拠地であった尾張国に攻め込む形で行われたため、尾張国を中心としておこなわれたのですが、反羽柴方において秀吉包囲網が形成されたことから、全国に波及し、連動した戦いが北陸・四国・関東など全国各地で行われています “【小牧・長久手の戦い】もう1つの天下分け目の合戦” の続きを読む
徳川家康は、三河国の統一を果たし、また徳川姓に改めて三河守に任官することにより戦国大名の仲間入りを果たします。
もっとも、その後も領土的野心がおさまることはなく、次にかつての主君である今川家が治める遠江国の獲得を目指して侵攻を開始します。
この徳川家康の遠江侵攻作戦は、武田信玄との共同作戦であり、今川家が治める遠江国・駿河国のうち、徳川家康が遠江国を、武田信玄信玄が駿河国を切り取るとの約束で始まります。 “【徳川家康の遠江侵攻】旧主今川家からの遠江国切り取り” の続きを読む
桶狭間の戦いのどさくさに紛れて岡崎城に入った徳川家康は、吉良義昭・鵜殿長照らを制圧して西三河を勢力下に勢力下におさめ、また奥三河へも影響力を及ぼしていきます。
こうして三河国西部を傘下に治めるに至った徳川家康は、今川方の国衆達が割拠する東三河への侵攻を開始します。 “【徳川家康の東三河平定戦】西三河平定後の三河国統一戦” の続きを読む
三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、桶狭間の戦いのどさくさにまぎれて西三河に戻った徳川家康(当時の名は松平元康ですが、便宜上本稿では徳川家康で統一します。)が、同地で勢力を高めようとした際に浄土真宗本願寺派の守護不入特権に手を付けたことに反発して起こった一向一揆です。
徳川家康に対して立ち上がった一向衆寺院に、徳川家康(松平家)の譜代家臣までが参加したことから、松平家が敵味方に分かれて戦う大きな危機となった戦いです。
そのため、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並ぶ徳川家康の三大危機の1つとも評されています。 “【三河一向一揆】家臣団分裂による松平家崩壊の危機と西三河平定” の続きを読む